第36話 特別な愛 4

『特別な愛』という言葉に気を取られつつも、清人は賢治の高瀬への手紙を続けて読んでみた。


・・・あなたが根子へ二度目においでになったとき私が「もし私が今の条件で一身を投げ出しているのでなかったらあなたと結婚したかもしれないけれども、」と申しあげたのが重々私の無考でした。あれはあなたが続けて三日手紙を(清澄な内容ながら)およこしになったので、これはこのままではだんだん間違いになるからいまのうちにはっきり私の立場を申し上げて置こうと思ってしかも私の女々しい遠慮からああいう修飾したことを云ってしまったのです。その前後に申しあげた話をお考えください。今度あの手紙を差しあげた一番の理由はあなたが夏から三べんも写真をおよこしになったことです。ああいうことは絶対なすってはいけません。もっとついでですからどんどん申しあげましょう。あなたは私を遠くからひどく買い被っておいでに


 この手紙はあくまで下書きであったので、『買い被っておいでに』ここまでで終わっていた。


 先ほどの『特別な愛』云々の手紙も下書きであるのだが、清人はここで宮沢賢治に対して別に思うことがあった。


(手紙の下書きやメモの断片まで、こうして百年後に晒されてしまうのか……)


 清人は少し複雑な思いになった。清人は、例えばもし自分の中学時代の日記やメモなどがこのように後世で晒されてしまったら、死んでも死にきれないだろうと考えた。


 いくら有名人だからとはいえ、こうして下書きやプライベートのノートなどを晒され研究されてしまうのだと思うと、清人は宮沢賢治に少し同情した。


 賢治に同情しつつも、清人は賢治の高瀬あての手紙について、もう一度よく考えてみた。


(私は一人一人について特別な愛というようなものは持ちませんし持ちたくもありません。そういう愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切というあたり前のことになりますから)


 清人は頭の中で賢治の言葉を反芻してみた。この言葉には賢治の苦悩と、何より強い『信念』を感じた。


 宮沢賢治のこうしたストイックな信念、自己犠牲の精神などが見えるのは、何もこの手紙の文章だけではなかった。


 そもそも賢治は菜食主義者ベジタリアンであったし、『雨ニモマケズ』や『銀河鉄道の夜』などの賢治の代表作はもちろん、その他の童話や詩など賢治の作品の中で『ストイックさ』『自己犠牲』を感じることはたびたびあった。


 しかしそれを作品に昇華する訳でもなく、『手紙』という形ではっきりと自分の信念を表現していることに、清人は驚いた。


(『特別な愛』か……)清人は熟考した。


 宮沢賢治はどこまでもストイックで博愛的であった。それは賢治の信仰もあるだろうし、環境的な要因もあるのだろう。


 賢治は花巻有数の商人の家に生まれた長男なのだから、お見合い話なども多かったはずだ。この当時そんな立場で生涯独身を貫くのはとても難しかっただろうと思う。


 そんな状況下で、賢治はどんな心境で『特別な愛を持たない』という決心をしたのだろうか?


 清人の頭の中はぐるぐるした。親子の愛の尊さ、自らの博愛主義、家業に結婚……。


 賢治の苦悩は痛いほどに分かっているつもりだった。高瀬あての手紙でも、何とか高瀬を傷つけないように配慮した物言いを心がけているのが文章からも読み取れた。


 ただ、その手紙の中の最後『ひどく買い被っておいでに』この言葉が少し気になった。


 なぜこの言葉が気になるのか清人は考えてみた。しばらく考えてみて、ようやく思い出した。


(そうだ、俺が最初に春川さんに対して考えたことだ)


 清人は、最初に真子と同じ電車に乗って帰った、あの運命的な日を思い出した。


 初めて春川さんを『妖艶』と感じ、初めて春川さんに翻弄された日だったなと清人は思った。


(「あなたは本当に素敵な人だわ。私はあなたのことを、好きになってしまいそう」)


 もうあの時から一ヶ月ほど経つのだが、清人はその時の真子の言葉を、決して忘れたことはなかった。


 思えばあの時から色んなことがあった。一緒に帰って、春川さんのことをもっと知りたいと思い始め、横浜デートと鎌倉デートをして、自分の家で一緒にテスト勉強をするようになっていった。


 それらは全て大切な思い出だった。最初は真子からの評価に「買い被りすぎだ」と思っていたけれど、今は違うと清人は思った。


……今は違う?


 清人はハッとした。今は純粋に、ただただ真子からの評価に応えたい自分がいることに清人は気付いた。真子が望む人間になりたいと……。


 この一ヶ月で、色々な真子の姿を見ることができた。妖艶で、博識で、自分と同じようにどこか親に対して複雑な思いを抱く女性。不思議ではあるが、心優しい女性。自分のことを見守ってくれている女性……。


『春川真子』という存在が、自分の中でとても大きなものになっていることに、清人は気付いた。


(……ああ、そうだ)


(……俺は、春川さんが好きなんだ)


 自分の中で真子に対して『特別な愛』が大きく育っていたことに、清人は気が付いた。

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