あちらがわは新緑の町

国仲順子

第1話 プロローグ



 目を覚ますと、私は知らない病院の、薄暗いロビーで座っていた。

 湿った苔に、さらにねずみ色の絵の具でも混ぜたかのような暗い緑色の長椅子がいくつも並んでいる。

 私はどうやらその沢山の長椅子の、ちょうど真ん中に位置する場所に座っているようだった。

 他に患者は一人も居ない。薄暗いロビーのカウンターの傍には発券機があり、カウンターの向こう側では事務員の格好をした人々が忙しそうに仕事らしき事をしていた。


 消毒液の匂いが鼻筋を通り、目頭のあたりで止まった。

 なぜか、右手が全く動かせなかった。正確には、指は動かせるのだが、腕を全く上げることができない。

 左腕は普通に動かせる。

 不思議に思って、まだ霞みがかかった様な視界で自分の全身を観察してみた。


 いつもの暗い白色のブラウスと、いつもの緑色のスカート。頭の上の方から髪の毛の毛先まで指を入れて滑らせると、力の無い茶色くて薄い髪が、いつもと変わらず肩の上まで続いていた。


「湊川さん。湊川保美さん。」


 正面から私を呼ぶ声がし、顔を上げると、いつのまにか目の前にパンツスーツ姿の小柄な女性が立っていた。

 黒いスーツに白いワイシャツ。

 黒くて艶やかなパンプス。

 就活生の様な出で立ちの彼女は、

 身長150センチも無いのではないだろうか。肌の色はこれまで見た事も無い程白い。

 小粒な瞳に小粒な鼻。小さな唇。その上のまっすぐ切り揃えられた前髪と、短い黒髪。私は幼い頃に好きだった、ひな人形の五人囃子の、真ん中の人形を思い出した。


「湊川さん、お待たせしました。こちらが受付用紙になってます。書かれている事にお間違いは無いですか?」


 五人囃子の様な少女は、そう言って私に黄色いバインダーを手渡した。バインダーには三枚の紙が挟まれており、空欄はすでに記入されていた。


 フリガナ ミナトガワ ヤスミ

 氏名 湊川保美

 年齢 二十七歳


 それ以外に自分に関する事は書かれておらず、他には小さな文字で何か説明書きの様な物が書かれているだけだった。しかしなぜか身体がとてもだるくて重く、それらを読む気にはとてもなれなかった。


「間違いはございませんでしたか?」

 私は黙って頷いた。声を出してハイと言ったつもりだったが、かすれてうまく出なかった。

「緊張なさってますか?大丈夫ですよ。ここにはあなたに死ねとか休むなとか、使えないとか言う人はいませんから。」

 五人囃子のような少女は、表情一つ変えずに淡々と言った。


「あ、あと、口の聞き方に気をつけろとか言う人もいませんから。」

「あなたは……カウンセラーさんとかですか?それは……私が職場で言われていた事ですよね。そんな事まで私、カウンセラーさんにしゃべっちゃったんですか……。」


 自分の膝をじっと見ながら、私は思いきって聞いてみた。


「ここは、精神科の病院ですか?私は、ここに運ばれたということでしょうか?何かおかしな事をして……。」


 少女は、人形のような一切動かない表情で、私が返したバインダーに何かを書き込みながら淡々と言った。


「いいえ。ここは『あちらがわ』です。あなた方で言うところの『あの世』ですね。」


 バインダーにボールペンの先が当たる音と、消毒液の臭いが胸の所まで下がって来るのを感じた。


「湊川さんがこちらに来た経緯はええと……ああ。やっぱり。自死で間違えないですね。予約無しの緊急で運ばれてきた場合大体事故か自殺なんで」


 それを聞いた瞬間、周囲の消毒液が消え、変わりに最後にかいだ匂いに全身が包まれた。


「……はい。間違いありません。」


 思い出した。

 最後に見た景色は新緑の匂いが顔にかかる春の歩道橋だった。


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