第八話 私がいるのを見つけた日

 私は、小さい頃から甘いものに目がなかった。


 高校生になった今でこそ、よっぽどのゲテモノでない限り私はなんでも美味しく食べることが出来るって思っているし、そもそもよっぽどのゲテモノなんていうのは普通に生活していたら食す機会はないわけで。

 そういうことからも、私は好き嫌いはしないと断言できるのだけど。


 それでもやっぱり小さい頃−−中学生に上がるくらいまでを小さい頃と言っていいのかはその人の感性によるところもあるのだと思うけど、それまでは私にも普通に苦手な食べ物というのはあったのだ。


 例えば、魚の皮。パリパリに焼いて食べる分にはなんの問題もなく食べれたのだけど、鍋に入ったりしている魚の皮はこっそりと外してお母さんが見ていない隙に、お父さんのお椀にこそっと渡したりしていた。魚は悪くない、鱗がどうも気持ち悪かったのだ。魚が悪いわけじゃないのよ?


 例えば、生のイカ。焼いてあるイカはあの美味しそうな匂いも含めて凄く好きだったのだけど、お刺身なんかになると、口の中にまとわり付く様なねっとりとした食感が苦手だった。千秋ちゃんと友達になってから、この話をした時は「へぇー。エッチだね笑美」という、食べ物の好き嫌いに対しては決して出てこないであろう評価を貰い大いに慌てた。解せぬ。


 そんな風に幾つかの苦手な食べ物があった私であるけど、ならどうしてそれらの食べ物が嫌いじゃなくなったかと言えば、そう。

 ご褒美があったから。の一言に尽きる。


 小学生時代のある日、苦手な食べ物の一つであったブロッコリーを、どうしても食べきることが出来ずに残してしまったことがあった。

 そんな私にお母さんが言ったのだ「全部食べれたら、お菓子買ってあげるね」と。

 魔法の言葉を、お母さんが会得した日になった。


 それ以来、苦手な食べ物を克服する度に、お母さんと一緒に買い物に行き、好きなお菓子を買ってもらうことが当時の私の楽しみになっていた。

 その時の私は、お母さんからお菓子を買ってもらえる。それがただ嬉しかったから、苦手を克服することもそこまで苦ではなかったのだけど、中学生に上がって特に好き嫌いをしなくなっていた私にある日お母さんが言ったのだ。


 「笑美は昔から物をねだる子じゃなかったから、だからああ言ったのよ」


 母は偉大だ。

 確かに幼い頃の私は、まあ今もであるが……他人や家族の顔色を伺うことばかりしていたので、自分から何かをしたい。何かが欲しい。そういった要求を行うことがなんだか悪いことの様な気がしていて、とてもハードルが高かったのだ。

 それでも甘いものやスイーツがずーっと大好きだった私は、常々食べたいなあとは思っていた。


 私はお母さんやお父さんに迷惑を掛けたくなくて、嫌われたくなくて何かをねだるなんていうわがままをしない様にしていたのだけど、それが逆にお母さんに心配を掛ける結果になっていただなんて、思いもよらなかったのだ。

 お母さんがあの日言ってくれて、そんな事実に気がつく事ができて良かった。


 それに、きっとお母さんは分かっていたのだ。

 お菓子を買いに行った時に、私がどれにしようか決めきれずにうんうんと唸っている時、差し出してくれるお菓子は全部が全部私の好みのど真ん中だったのだから。

 昔から私が甘いものに目がないことなんて、きっとお母さんは分かっていたのだ。


 ここまでで、私の食の遍歴というか、小さい頃から甘いものが好きだったのだということはある程度お伝えできたかと思うのだけど、じゃあそれでなんなのだ。

と聞かれたら、言いたいことはまだまだ色々あるけど、簡潔に言うなら、うん。こう答えるしかないと思う。



 私はプリンを食べた。


 あい いーと ぷでぃんぐ である。





※※※




 視界が暗闇に覆い尽くされていた。けれどそれは辺りが暗いわけでも、寒々しい森の中でもなく、どちらかと言えばじんわりと暖かくて、湿り気を帯びた物だ。

 鼻から吸った息はどこか暖かくて、辺りに漂う空気も潤沢な水分を纏っている。

  千秋ちゃんとのファミレスでの衝撃の会合を終えた私はその夜、お風呂にてホットタオルを目に被せていた。

 もちろん千秋ちゃんからの通達で。


 今日、通学路での一件で朝から散々泣いてしまった私は、八色くんが出て行った『プレミアムホスト』にて、結局夕方まで千秋ちゃんと語り合っていたのだが、これからの事などを相談しながら、泣くまい泣くまいと思っていたにも関わらずまた少しだけ泣いてしまったのである。


 今ならば例え初対面の人に「この泣き虫が!」と、罵られたとしても私は全面的に認めて降伏してしまうだろう。けど言わせて欲しい。

 仕方ないじゃない……


 私が八色くんの事を嫌いじゃないって再確認したのは良かったよ?良かったし、彼が泣いてたっていうのを聞いて、確かに私は覚悟しました。ええ、覚悟しましたとも。

 彼に何があったのか、知らなきゃいけないって。知りたいっていうわがままを押し通す覚悟は決めましたよ?

 でもここで一つの問題に直面してしまったのだ。きっと千秋ちゃんは私が気付くよりうんと早く気付いていたのだろうけど……。


 「絶対に学校で私に話しかけないでよね」


 これである……。


 あんな事を言っておいて、今更嫌いじゃないなんて言ったところで伝わる訳が無い。そんな当たり前の事に気付いた私は結局我慢し切れず、千秋ちゃんの前でも泣いてしまったのだ。

 こんな古典的なツンデレ女子なんてそうそういるわけないし、仮に私がそうなったとしても寒すぎる……ただでさえ自分が痛い女子だって自覚しているのにこの上『古典テンプレツンデレ女子』なんて称号は戴けないのだ……。


 そこまで考えて、目に載せていたホットタオルが冷たくなってきたのを感じ、私の頭も少し冷静になれた気がした。


 まあ結局、千秋ちゃんも言っていた通り、地道にゆっくり距離を詰めるしかないのよね……

 お湯に鼻の下まで顔を埋める。自ずと固く縮こまっていた筋肉が弛緩して行った。

 それを感じ、足の指の体操をしながら思考をまとめて見た。



 私の作戦はこうだ。

 

 一つ、学校でそれとなーく彼に近付き、当たり障りのない会話を繰り返し、「学校で水原に話しかけてもいいのか!」と彼にも思ってもらう。


 一つ、ある程度また八色くんと話せる状態になった上で、それとなーく彼にもう一度名字が変わった事について問いただ……聞いてみる。


 いま考えられるのはこの辺りまで。


 なんで別れる事になったのか。とか、あのクリスマスの日に一緒に居た子は誰なのか。とか、それを聞きたい自分がいないと言ったらやっぱり嘘になってしまうけど……でもそれは今の、彼と別れてしまった今の私には、彼に聞く権利がないのではないかと思うのだ。

 それを言ったら、彼の名字が変わった理由を聞こうとしているのもおかしな話なのだけど、そこは目を瞑る。


 それに私は自分でもちゃんと自覚している様に少々ポンコツな部分がある。

 あれもこれもと考えたところで、きっとそれは何一つ上手くいかないだろうと思うし。

 昔からテンパってしまうと頭の中がごちゃごちゃになるし。


 ただ、もう一つ懸念があって、今でこそ私は彼を『嫌いじゃない』けれど。確かに彼を『嫌い』になった時期はあったのだ。

 自分の心を守るために私は私の都合で彼を嫌いにはなったけど、それでも確かに嫌いになったのだ。


 好きだったけど、嫌いになって、嫌いじゃなくなった。


 こうやって並べるのは簡単だ。けど、感情が追いつかないのだ。今更嫌っていた彼に対して、どんな話し方をすればいいのか全く正解が分からないのである。


 昔みたいな話し方をすればいいじゃないって思ったりもしたけど、私がああやって八色くんと話せていたのは、彼と築いた時間がそこに確かにあったからだ。


 それが崩れてしまっている今、彼にどうやって話しかけたらいいのか……。


 結局その答えは、一夜明けても出てこなかった。





※※※




 「えーみーちゃん!」


 いつもの様に早めに学校についた私は、明日に控える入学後初の実力試験の勉強を行なっていた。

 後ろから名前を呼ばれながら肩をぽんっと叩かれて、振り返った。


 「おはよう三条さん」


 三条千春さんじょうちはるさん。今も「おはよー」とどこか間延びした様な声を出しながら自分の机に荷物を置きにいった彼女は、私が高校に入ってから初めて出来た友達だ。


 私と一緒に勉強をするつもりなのか、机においた鞄から勉強道具を持ってこちらに歩いてくる彼女は、千秋ちゃんと同じくらいの身長で、肩下辺りまで伸びた髪を緩く一纏めにした、雰囲気からしてぽわぽわした女の子だ。うん、可愛い。


 三条さんには少し申し訳ないなって思うけど、千秋ちゃんと同じで名前が『ち』から始まったり、名前に『季節』が入っていたりと、千秋ちゃんとの共通点みたいなものが見えて、それで最初から安心して話せる様になったのかもしれない。


 それがちょっとおかしくて、自然と頬が緩んでしまっていた。

 いつか、千秋ちゃんに紹介したいな。


 「んー?なんかいい事あったー?」


 私の頬が緩んでいるのが分かったのか、首をこてんと傾げながら聞いてくる。

 可愛い。


 「ううん、なんでもない。そう言えば、今日のお昼はカフェテリアに行くんだったよね?」


 「そーそー。せっかくだから一回くらいは使っておかないとねー。えみちゃんは何か食べたいものあるー?」


 食べたいものと聞かれて、私は中学時代に散々読んできた高校のパンフレットを思い出していた。

 具体的にはそこに記載されていたある物を。


 「う、うん。あるにはあるんだけど、ご飯って言うよりデザートと言いますか……」


 「デザート?あ、もしかしなくても、あれかなー?あの限定の事かなー?」


 「う、うん。それ、食べたいなって」


 若干恥ずかしげに言ってしまった私の頬をつんつんとつつきながら、彼女にはちゃんと言わんとしていた事が伝わっていたのがわかる。

 そう、限定なのだ。


 パンフレットを見ていた時から、高校に入ったら絶対に食べようと決めていたものがあるのだ!


『1日50個限定プリン』


 調理部と茶道部との合作で作られたプリンで、売り上げは一部が寄付金として、残りが備品の購入へと充てられているらしかった。

 最初はなんでプリンで茶道部?と思ったけど、カスタードプリンと抹茶プリンが月交代で販売されているらしい。


 まだカフェテリアには足を運んだことはないし、新学期が始まってからは今日が初の午後まで授業がある日なので、今月がどちらのプリンなのかは行ってみてのお楽しみであった。


 「おっけーおっけー。そしたらそっち先に買おうねー。なくなっちゃったらまたえみちゃん泣いちゃいそうだしー」


 「だ、だから泣いてなかったってば!」


 そう言って昨日私が泣いていたであろう事に気付いていた三条さんはからかってくる。決して泣いていたなんて彼女には認めていないけど、でも彼女にはからかわれても嫌な感じはしなかったのだ。


 その後も、休み時間になるたびに彼女は私のもとにやって来てくれて、すごく嬉しかった。友達がもともと少なかった私は、高校に入ってこんなにすぐに友達が出来るだなんて思ってもいなかったのだから。

 他にも話をする人はいたけど、三条さんといるのがなんとなく私は落ち着くのだった。





 昼休みに入ると、私と三条さんはすぐに席を立ち、ほぼ駆け足でカフェテリアを目指した。

 この高校は学年ごとに校舎が違うのだが、下の階から順に1組、2組、と配置されており、私のクラスである9組は3階に位置していたため、中庭に併設される様にしてあるカフェテリアには少し距離があるのだ。


 急いで向かったにも関わらず、到着した頃にはかなりの人数が集まっていた。パンフレットを見て来た限りだと、プリンだけではなく、普通の学食も力を入れている様だったので、きっと美味しいのだろう。


 人をかき分ける様にしてずんずんと前を歩いてくれる三条さんの小さな背中を追いかけ、やっとの思いでプリン専用の売店に辿り着いた。


 ほっとして息を吐き、途端、息が詰まった。


 目の前にいる千秋ちゃんを挟んだ向こう側、私たちと同じく売店に並ぶその人は、八色悠−−−改め、月岡悠だったのだ。


 私が息を飲んだのが聞こえてしまったのか、それともたまたまか、彼が振り返った。

 三条さんを障害物にしようにも、身長の低い彼女ではなんのバリケードにもならず、しっかりと目が合ってしまう。


 時間にして1秒−−−


 けれどその1秒が途方もなく長い時間に感じられて、彼が私に向けた目に宿っている感情を少しでも理解しようと頑張った。

 だけどその目から驚愕以外の感情は見つけることが出来なくて、そのまま彼は視線を列の前へと戻してしまった。


 その事に少しの寂寥感を覚えた私は、じっとした視線を感じて、三条さんをほったらかしてしまっていた事を思い出した。

 

 慌てて取り繕う。


 「……あ、あはは。やっぱり結構混んでるんだねえ……」


 「……」


 あいも変わらずにじーっとした目線のみを注いでくる三条さん。

 その背後に『じとー』って文字を幻視した。


 「……えっとー、ど、どうしたの?三条さん」


 三条さんは変わらずに同じ視線を向けて来て、少ししてから視線を緩めた。


 「いやあ、えみちゃんも女の子だったんだなあーと思いました」


 ……はい?女に見えていなかったの??


 衝撃のカミングアウトだった。


 「……え?ずっと私、女だよ?」


 意味がわからずにそのまま伝えた。


 何かおかしなことでも言ってしまったのか、ちょっとだけにやにやとした彼女は。


 「うんうんそうだねー。えみちゃんは女の子だねえ」


 そうやっていかにも、からかってます何て風を出しながら


 「男なんて興味ないですーみたいなかんじだと思ってたけど、ちゃんと女の子のかお、できたんだね」


 その意味を理解しそうになったところで、前方から大きな声が聞こえて来た。


 「限定プリン、本日残り5名様でーす!すみませーん!」


 え、あと5名!?

 ここまで並んで食べられなかったら悲しい!


 そう思い、列の先頭からの人数を数えようと前を向いた時、三条さんを挟んだ向こう。

 彼がすっと列から離れていった。


 それに気付いて、ああ……今日は買えないんだなと理解する。

 三条さんにも、悪いことしちゃったな、せっかく一緒に並んでくれたのに。


 彼女に謝ろうと思い、口を開きかけたが、私が話すより先に三条さんが口を開いた。


 「おー!らっきーだね。えみちゃんでちょうど最後だよ」


 疑問符が大量生産された。


 え、うそ!?買えるの……?


 や、やった!嬉しい!


 念願だったプリンを買える!


 「う、うん!良かった、良かったあ!せっかく並んでもらったのに買えなかったらもうしわ……っ……」


 そこまで言って気付いた。


 私で最後。その意味に。


 ようやく気付いて、そのままもう上手く言葉は出て来なかった。


 きっと赤くなってしまっているだろう顔を周りの人に見せたくなくて、俯いた。

 動かさない様に意識すればするほど、口元がにやけてしまうのを見られたくなくて。


 「へへへー。女の子だねえ」


 私のブレザーの裾を握ってゆらゆら揺れている三条さんへの否定の言葉は、いつになっても出て来なかった。



 代金を払い受け取ったカスタードプリン。


 それは、まだ食べてもいないのになぜか甘かった。








 昼食を終えた私たちは教室へと戻って来ていた。


 三条さんはプリンの他にサラダうどんを頼んでいたけど、私はプリンだけを食べた。

 そこまでお腹が空いてなかったっていうのが1番の理由だけど、なんとなくプリン以外の食べ物を、その時は口に入れたくなかったから。


 プリンを食べている間、隣のクラスの女の子に何か話しかけられていたけど、特に内容が無かったのか、いまいち思い出せなかった。


 「いまは何はなしても聞こえてないと思うよー」

 なんて三条さんが言っていたけど、割とその通りだったので否定のしようがなかった。

 ……プリンに夢中になっていただけなんだけど。


 あの後、三条さんに変な勘違いをされてしまったと思い、否定しようとしたけど、何も決定的なことは言われていなかったなと思い直して、その話題には特に触れなかった。





 時間が過ぎ、本日最後のカリキュラムは委員会の説明と顔合わせ。


 私は図書委員になったので、集合場所である図書室へと足を運んでいた。


 同じクラスのもう一人の委員である男の子に一緒に行かないかと声をかけられたが、断った。

 トイレに寄ってから行きたかったし、なんとなく男の人と一緒に歩くのが嫌だなと思ってしまったのもある。



 本当は委員会が始まるまでの間、図書室の蔵書なんかを眺めていたかったのだけど、トイレに寄った後ほんの少しだけ道に迷ったりして、着いた頃には説明が始まる直前だったのだ。

 まあ、また今度来ればいいか。どうせ図書委員会なら何度も足を運ぶ事になるし。


 厳密に言うと遅れてはいなかったのだけど、空気から察するにどうやら私が最後の様だったので、「遅れてすみません」と一言告げてから、空いている席に腰を掛ける。


 なんとなく辺りを見渡すと、やっぱりそこには八色くん−−−月岡くんの姿もあった。

 彼は昔から読書が好きだったから、必ず何がしかの委員に入らなければいけないこの高校では、図書委員会になるのではないかと思っていたのだ。

 だから彼がいる事には驚きは特に無かった。


 ……驚きは、無かったのだけど。

 お昼休みのことがどうしても脳裏を過ってしまい、またにやけてしまいそうになる口元を隠すので必死になった。

 おかげで先生からの説明は終始流し聞きになってしまった。ごめんなさい。教室に戻ったら一から読み直しますので……。




 委員会の説明と顔合わせは筒がなく終わり(自己紹介とかも無かったので助かった)私は再度赴いた放課後の図書室にて、委員会時に配られたプリントを読んでいた。

 何か提出しなければいけない書類なども、今のところはなさそうだったので一安心し、ここに赴いた本題であった明日の実力試験の勉強を開始した。

 教室でやっても良かったのだけど、あそこだと誰かしらに話しかけられるし、知らない人達がこそこそと顔を見にきたりするのでなんと無く嫌だったのだ。

 ちなみに、「顔を見に来られてるよ」と教えてくれたのは三条さんだ。


 勉強もある程度終わり、時間を確認するともう夕方になっていた。意外と集中できていた様で、ぐっと伸びをすると腰の辺りで骨の鳴る音がした。


 そろそろ帰ろうかと思い、荷物をまとめる。

 集中して勉強したからか、少し糖分を取りたくなり鞄から飴を取り、口に一つ放り込む。

 うん。やっぱり美味しい。ここ最近お気に入りだった飴を口の中で転がしながら歩いていると、中庭を挟んだ渡り廊下を、男の子が歩いているのが目についた。


 八色くんであった。


 こんな時間なのにまだ残ってるんだ。なんて考え、ふと思いついてしまったのだ。

 思い出してしまったのだ。

 それはきっとちょうど良く私が飴を舐めていたりしたからとか、そんな些細な理由でだけど。




 『ありがとうの気持ちを伝える時も、お菓子を渡す。』




 中学時代。まだ彼と私が付き合っていた頃に二人で作った決まりごと。



 今更ながらにそんな事を思い出してしまった私は、彼が教室とは別方向に歩いていくのを確認した上で、足早に彼の教室へと向かう。



 ……なんか、悪いことしているみたいでドキドキする。



 彼の教室の前に着き、開いていた扉からこそっと周囲に誰もいない事を確認した私は、机の上に一つだけ残されていた鞄を目印に歩み寄った。


 −−−月岡悠


 教科書にしっかりと記されていた名前。

 まだ馴染めないその名前にほんの少し悲しくなる。


 彼が来ないうちに、ささっと置いて帰ろう。

 ブレザーのポケットにしまっておいた飴玉を一つ取り出す。



 お昼休みの事は、私の勘違いかもしれない。


 私に最後の一つを譲ってくれた。なんて、また都合の良い思い込みかもしれない。


 ……それでも、ありがとうって思うのは、私の勝手だもんね。


 

 その思いを出来るだけ込める様に、一度だけぎゅっと握ってから机に置いた。



 あードキドキした!



 自然と綻んでいた口はそのままに、廊下に出た私は扉を閉める。

 よーし!バレないうちに帰るぞっ。自分でもはっきりと分かるくらい上機嫌で玄関へと向かうのだった。






 「いたいた!水原さん」


 急に呼び止められ、声のした方を向くと、階段の踊り場に見覚えがある様な女の子が2人立っていた。

 呼ばれたのでそちらに赴くと、ずいっと距離を詰められ、反射的に壁を背に後ずさってしまう。


 「水原さん、お昼に話した事なんだけど時間とか場所とかこっちで決めちゃっていい?」


 ……はて、時間?お昼……なんのことだろう?

 この顔、最近見た様な……あ、思い出した!えっと……吉田さんだ。もう一人の人はわからないけど……


 そんな事を急に言われ、どう返したものかと迷っていると


 「今度の日曜に私の中学の時の友達とかとご飯食べに行こうって誘ったじゃん。で、いいよね?」


 改めて教えてくれた吉田さんにはありがとうなのだけど、でも、その内容には全く覚えがない。

 ……もしかして、お昼休みにプリンを食べていた時のことかな?

 なんと無くぼんやりとその時のことを思い出しながらも、断らなきゃいけないと思い直した。


 「……あの、ごめんね。私は遠慮しよう、かなあ……」


 私の返答を聞いた途端、目が吊り上がる。怖いな……。


 「ねえ、いいじゃん。一回会うだけ!ほんと一回だけでいいからさ!ね?」


 そう詰め寄られ、身体が竦んでしまう。


 でも多分、吉田さんが言っている中学時代の友達たちって、男の人のことだ。


 「……いや、だからそういうのは、私あんまり得意じゃないっていうか……」


 詰まりそうになる喉を必死に開き、なんとか声を出す。


 「水原さんさあ、こんなに裕子がお願いしてんだから、一回ご飯食べに行くくらいしてくれても良くない?」


 名前も知らない女子生徒に責めるように言われ、思わず自分の腕を強く握りしめてしまう。……怖い。


 「……うん、ごめんね。でも、本当に私そういうのはちょっと……」


 「はぁ……。っていうか向こうの人たちにも、もう水原さん来るって言っちゃったし、それにさっきは、うんって言ってくれたじゃん」


 ……さっきというのは、やっぱりお昼休みのことなのだろう。

 だとしたら、悪いのは私だ。別の事に夢中になってしまって、生返事をしてしまった私の方だ。

 ……でも、男の人と遊びに行くのは、やっぱりどうしても乗り気になれないし……


 もう一度断ってみてダメそうだったら、その時は諦めるしかないのかな。


 「それは、えっと……お昼ご飯食べた後で、ちょっとぼーっとしてたって言うか……」


 自分でもよく分からない言い訳を並べ、頭が真っ白になりそうになるのを必死に堪える。

 私は昔からそうだ。

 ……現にあの時のクリスマスだって、私が八色くんのことばっかり考えていて、お父さんに生返事しちゃったから出かけられなくなったのに。


 ……何にも成長していない。


 これ以上どうすればいいのか分からずに、でもせめて涙だけは流さないように、握った腕をもっと強く握りしめた。



 さっきまでは、あんなに楽しかったのだ。

 彼の−−−八色くんの机に、昔やったみたいにありがとうのお菓子を置いて。


 −−−「困った時は、俺に頼っていいんだよ、水原」


 頭の中で、過去の八色くんの声がした。

 


 頼れるなら頼りたい。


 違う……!昨日、なんの為に覚悟したのか−−


 もう昔とは違うのだ。


 いつも助けてくれた彼は、もういないのに。


 今回は、私が悪かったんだから、仕方ない。


 次は同じ失敗はしない様に、もっともっと気をつけるんだ。



 目の前でため息をつく吉田さんたちに、了承の言葉を出そうとしたが、結局−−


 その言葉は出なかった。


 


 −−−見えたのだ。


 踊り場の壁を背にした私には。


 −−−見えたのだ。


 昔とは身長も、名字も、私との関係も違う彼の姿が。


 −−−見えたのだ。


 けれど昔と変わらぬ目をした八色くんが、歩いてくるのを。




 「水原さん。よかった、探してたんだ」





 白状します。


 認めます。


 この時、私は彼に見惚れたのです。







 

 委員会の件で呼びに来たと言う彼の言葉をぼんやりとした頭で聞いていた私は、少し遅れて彼が助け舟を出してくれたことを悟った。


 吉田さんたちに断りを入れ、振り返らずに前を歩く八色くんの後に続く。


 

 私が我に返ったのは、彼の教室に入り扉を閉めたと同時だった。



 教室の真ん中。その1番後ろに位置する八色くんの机。


 それに並ぶ様に立った彼は、感情の読めない表情でまっすぐに黒板を見つめていた。


 何かを話さなければいけない。


 ……嬉しかったんだ。


 昔みたいに、困っていたところを助けてくれて、嬉しかった。


 飛び上がりたいくらい嬉しくて、すぐにでもありがとうを伝えたかったのだ。


 今も頭の中は嬉しいがいっぱいで、でも隅に追いやられた彼の言葉が、声が、その『嬉しい』よりも強く主張していた。



 −−−「それこそ関係のない君に話す義理がない。それと君から話しかけて来なければ卒業まで君と僕が話すことはまず無かったよ」



 それが本心だったのかどうかなんて分からない。だって、彼にそれを言わせたのは私だ。


 ……先に話しかけるなと言ったのは、私なのだから。


 きっと昔だったら、教室で二人きりなんてただただ嬉しいだけだった。

 

 でも今は、私たち以外誰もいないこの教室の静けさが、そのまま彼と私の距離を示している様で、ただただ悲しかった。


 逃げたくなる心を押さえつける。


 ……決めたじゃない。


 まずは私から話しかけて、普通に話せる様になるんだって。


 昨日の覚悟を思い出す。あの時胸に灯ったものを思い出す。


 ……ここで逃げたら、きっともう私は八色くんと話せなくなる。

 


 下がりそうになった視線を、強くあげる。足は動いた。


 1歩。たった1歩だけど、確かに前に進んだ。


 頭をフル回転させて、会話をシュミレートする。


 いきなり「ありがとう」はダメだ。「君のためにしたんじゃない」必ずそう返って来る。


 彼は照れ屋だから。


 それでもいいのかもしれないけど、「君のためにしたんじゃない」なんて、聞きたく無かった。考えただけで、切なくなる。


 だから。



 だから。



 だから?



 ……だから、だから、どうしよう!?






 ぽんこつだった


 






 う、うわあああああっ!


 考えなしに近づいちゃったじゃない!


 1歩前進したぞ!なんてカッコつけてたのに……!


 近づいちゃった手前、何にも言わないわけにはいかないわよね……!?


 ……っていうか、八色くんの方から話してくれてもいいじゃない!


 ……話しかけるなって言ったの私じゃーーーーーん!!うわーん!



 真っ白な頭のまま、口だけが動いていた。


 

 「……書類って、なんのこと?」


 

 ち  が  う  !


 こ、これじゃあただの嫌味でしょ!


 ……!ほらみろ八色くん更に押し黙っちゃったじゃない!


 ど、どうにかしないと……どうにかしないと……!



 「確かに私もや……あなたと同じで図書委員になっていたけど、書類なんてなかったわよね?」


 

 ち   が   う   !   !


 なんで嫌味の念押ししてるの!?


 確かに自分でも嫌な女だって認めたけど!けーどーっ……!


 これじゃあ嫌なやつすぎるでしょう!?


 あああぁあぁああ……っ!


 こんなことなら、「ありがとう」だけ言えばよかったのに……!


 うぅ……。め、目が回ってきた……


 絶対千秋ちゃんに怒られる。



 


 「……悪かった」



 ……え?


 いやいやいやいやいや!違うよ八色くん……!謝るのは私でしょう!?


 助けてくれたお礼も言ってこない上、でっち上げの嘘を嫌味ったらしく追求した私の方でしょう!!


 ……はっ!待ちなさい私!


 もしかしてこれ、委員会の書類なんていうでっち上げた嘘のことで謝ってるの?


 ……そんなの全然いいのに!むしろ助けてくれて本当にカッコよかったのに!!


 ……っ!


 いや待て私!


 さっきから八色くんが何も言わなかったのも、そもそもは私が話しかけるなって言ったからだよね?


 だとしたら、話しかけてきたことについて謝ってきたの……?


 だとしたら、そんなことで謝らせてしまったの……?


 −−−「確認は大事だからね」


 思い出す、彼の言葉。過去に私がしなかったことだ。


 だから、確認しないと。



 「…………それは……なんに対しての謝罪?」

 


 彼からの返事は無かった。



 どっちも合っているのか、どちらか片方だけ合っているのか。


 それすらもわからなかった。


 でも何故だか、押し黙った彼の顔にも、その答えは無い様に見えた。


 きっと普通の人じゃあまずわからないくらい、それくらいに微かにだけど、彼の顔が苦痛に歪んでいく様で。


 それ以上その顔を彼にさせたくは無かった。


 ……うん。


 ……うん、今日はこれでいい。


 ……まだ今日は、これでいい。



 「……わからないなら、良い。一応、その…………ううん。それじゃ」



 最後まで、迷いに迷って、ありがとうは言えなかった。


 


 彼を無理やりに視界から外して踵を返す。


 

 ぐうっと音が鳴った。




 −−−頭を、金槌で殴られたかの様な衝撃が走った。


 

 思い出す。光景が一瞬で過ぎる。


 彼は、今日。私にプリンを譲ったのだ。


 列から外れる彼は、財布しか持っていなかった。


 けれど食事中、どこを見ても彼はいなかった。



 

 思い出し終わる頃には、八色くんの側に立っていた。


 恥ずかしそうに俯く横顔をそっと見やる。


 耳が少しだけ赤くなっていて、なんだか懐かしくなった。


 



 「……お昼、たべてないの?」


 答えなんてわかってる。


 「……いや、食べた」


 ほら、うそだ。


 胸の奥がきゅうっとして、さっきまでどこか悲しく感じていた教室の静けさなんて、気にならなくなっていた。



 「……ん」



 漏れ出そうになる笑みを、口を強く引き結ぶことで堪え、彼に握った手を差し出す。


 咄嗟に差し出されてきた彼の手が戻ってしまう前に、私は手を開いた。


 ほんの一瞬。彼の目が見開かれる。



 −−−確信する。


 彼はちゃんと、覚えてる。


 彼の中には、まだ確かに『私がいる。』


 ただの記憶の欠片。そんな小さなものかもしれないけど、それでも彼の中に私を見つけた。


 そんな些細な事実が、こんなにも嬉しいだなんて。


 

 呆然とする彼に背を向けて、教室を後にした。


 



 だって、そうしないとダメなのだ。




 溢れそうになる涙を、彼には見せたくないのだから。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る