[短編]ストリートピアニスト

舛本つたな

ストリートピアニスト


 数学の授業中だった。

 理解不能な微分の極小値条件に頭を痛めていると、マリオが聞こえてきたのだ。


 タタッタ、タタッタ、タン、って。


 ゲームのマリオ、そのテーマ曲だ。髭をたくわえた配管工がお姫様を助けに向かう時に流れる、誰もが一度でも耳にしたことがある軽快なメロディー。


 それがピアノで演奏されている。


 退屈な授業にうつむきがちだったみんなも顔をあげ「なに?」「マリオだ」「上手くね?」と色めきはじめた。

 確かに、かなりけている。ゲーム音楽はピアノ向けに作曲されていないから、その指運びは飛び石になりがちだ。それを弾きこなすには、しっかりとしたアレンジと練習が必要なはずだが……、音の粒はちゃんとそろっていた。


「静かにしろ〜」と数学の先生がのんびりと振り返り、窓のほうに視線を移した。「向こうの音楽室からだな」

「窓を閉めますか?」


 最前列に座っていた生真面目な生徒がそう申し出た。


「いや、今日は暑いし。もうそろそろチャイムだしなぁ。それにしても、この時間は音楽の授業はないはず」

「授業中にマリオって変じゃないですか?」

「それもそうだ。音楽の授業なら窓を閉めてクーラーをつける決まりなんだが」


 先生は窓に近づき、向こうの校舎にある音楽室を覗き込んだ。

 僕もそっちを見てみる。ちょうど窓際の席だったので、首を回すだけで良かった。開け放たれた音楽室の窓から、髪を金髪に染めた男子生徒がグランドピアノを弾いているのが見える。

 マリオの地下ステージのメロディーに変わった。

 地下のおどろおどろしい雰囲気を表現する低い重低音、そのために、体を大きく揺らして鍵盤を叩いている。鮮やかに染め上げたその金髪がグランドピアノの前で躍っているようにも見えた。


「あの金髪は青川だな」と先生は口元をにがめた。

「青川って、あの不良の?」


 後ろの席に座る生徒が声をあげた。長く続いていた数学の授業にいいかげん疲れていた他の同級生たちも、糸が切れたようにおしゃべりをはじめる。


「不良って、そんなのこの高校にいる?」

「テッカテカの金髪の奴がいたろ。そいつが青川」

「え〜、見たことない」

「青川って、青川悠ゆうか? あいつ、不登校じゃなかった?」

「っていうかさぁ、不良なら停学じゃね?」


 そこそこの有名人らしい。

 しかし、単なる不良であれだけ弾けるだろうか、と頬杖をつく。全身を大きく揺らすストローク。そのためか一音一音は強い。しかし、その大げさな動きは無駄な動きにも見えた。もっと、指を鍛える練習をして、手首を動かさずとも音を出せるようなるべきだろう。


 そう頭によぎった考えを、あわてて振り払う。


 僕はもうピアノは弾かないと決めた。それなのに、今さら他人の演奏に上から目線なんて。あの青川君も必死に弾いているじゃないか。少なくとも、僕がごちゃごちゃ言うことじゃない。


「こらぁ! 青川!」


 向こうの校舎から、鬼と恐れられている体育教師の怒声があがった。マリオはピタリと止まる。「見つかったのか?」と音楽室をもう一度見ると、青川君が音楽室の窓から外に飛び出すのが見えた。

 音楽室は二階だ。危ない! と、思わず窓から覗き込む。

 しかし、青川君はまるで猿のように、壁のでっぱりや通気口をするするとつたって中庭に降り立った。そして、体育教師の怒声を背にしながら正門から堂々と逃げていく。


 それを見送っていると、無機質なチャイムのメロディーが流れる。でも、僕の耳の奥にはマリオがまだこびりついていた。



 ◇


 たった二時間後に、僕はそのマリオを再び耳にした。

 下校途中の駅の改札口で、授業中の時に聞いたピアノが飛び込んできた。驚いてあたりを見渡すと音がする方に人だかりが出来ていた。覗きこんでみると、そこにはアップライトピアノを演奏している金髪が見える。


 やっぱり、青川君だ。


 あの強い音。マリオの曲に良くあった元気な演奏。細かく見れば、たまに音を間違えることもあるが、それが気にならないほどに勢いがある。聞いているだけで、うきうきするのは曲のせいだろうか、それとも彼の演奏のせいだろうか。

 音が散りやすい野外の演奏。しかもアップライトピアノだ。それなのに、こちらの心臓を打ってくるほどに力強いストローク。

 これほどに強い音を出している彼は、意外にも小さかった。

 金髪の不良という噂から、勝手に大柄なイメージがあった。しかし、こうして近くで見れば、そのよく動く背中は小さく腕も細い。中学生と言われても信じてしまうだろう。


「上手いねぇ」とひそめた声が横からもれた。

「マリオってピアノで弾けたんだ」

「ママ〜、お外なのになんでピアノがあるの?」

「これはストリートピアノって言うのよ」


 その子連れの母親が指差したほうを見ると、ピアノの横に立て看板があった。そこには「PLAY ME! STREET PIANO. ご自由に演奏してください。」と書かれている。どうやら、今日から期間限定で設置されているらしい。


 そうしている間に、青川君の演奏はいよいよクライマックスに入る。


 テンポはアッチェレランドだんだん速く。マリオがいよいよ最終ステージに到達したことを予感させる。ついにクッパとの対決か、と思った所で、青川君の手が突然、止まった。

 途切れた音に、あれっ、と思った瞬間。マリオがやられてしまった時のゲームオーバーのメロディーを弾く。


 上手いな、とため息がもれる。この構成には意表をつかれた。

 観客たちもハッとしていたが、それが演奏の終了だと気がつくと。盛大な拍手をおくりはじめた。

 演奏を終えた青山君が振り向いた時、彼と目があってしまった。


「あれ?」と彼は僕を指差す。「お前、鍵野原だろ?」



青川あおかわゆう


 俺が一番好きなのは、演奏後にオーディエンスからの拍手を浴びることだ。


 みんなが俺を見ている。通りすがりのサラリーマンも母親に連れられた子どもも手を叩き、順番待ちの次の演奏者がやりにくそう顔を歪める。

 この瞬間がたまらない。

 このために、ウケる曲を選び、アレンジを繰り返しながら徹底的に練習してきた。それが全部報われる瞬間。足から脳へとシビれが駆け抜ける。


 しかし、奴を見つけた時、そんな快感すら消し飛んでしまった。

 鍵野原かぎのはら良介りょうすけがそこにいた。あの鍵野原が俺のピアノを聞いていたのだ。

 間違いない。同じ学校の制服。背がひょろ長いから頭が抜けて見える。ぴっちりと切りそろえた髪に、日本人形みたいな切れ長の目。

 間違いない。ピアノの鍵野原だ。


「鍵野原!」と声が出た。「もしかして、お前もストリートで弾くのか?」


 オーディエンスたちがつられて鍵野原の方を振り向く。

 いきなり注目された鍵野原は、すぐに回れ右をしてそこから逃げ出した。


「ちょ、ちょっとまてよ。鍵野原!」


 撮影用の三脚スマホを引ったくるように回収して後を追いかける。

 なんで逃げんだよ!

 オーディエンスをかき分けて、三脚を肩に担いで全力ダッシュ。相手はひょろひょろの優等生野郎だ。小中ではかけっこナンバーワンの俺から逃げられるわけがない。ほどなくして赤信号につかまって律儀に足を止めた奴の肩をつかんだ。


「おい、逃げんなよ」

「ひっ」と鍵野原がこちらを振り向く。「あっ、えっ」

「お前、鍵野原だろ。鍵野原良介。同じ高校の」

「う、うん」


 おびえがその細い目から覗いていた。チッと思わず舌を鳴らすと、さらに後ろに下がりやがった。


「なんで逃げやがる」

「えっ、いや。……ピアノを弾けって言われたから」

「あ〜。意味わかんねー。答えになってなくね」


 髪をかきあげて睨みあげた。ちくしょう。背がくそ高けぇし、手も大きくて指も長い。

 うらやましすぎる。

 ピアニストの体だ。この手なら、どんな広い音階でもヨユーで弾きこなせてしまう。それに比べて、俺の体はどーしてこんなに小せぇのか……。


「あ、あの」

「あ〜!」と叫んで、ムダな考えを頭から追いやった。


 産まれてしまったもんはしょうがねぇだろ。母ちゃんにもう一回産み直せ、と言っても殴られるだけだ。


「おい、鍵野原」

「な、なに」

「とりあえずマック行こうぜ」



 ◇


「でっ、俺のピアノはどうだった?」


 ストリートで成功した後のコーラはうまい。それを一気に飲み干してから鍵野原ににじり寄った。


「ピアノって、あのマリオ?」

「なんだよ。お前もクラシックじゃなきゃダメ、だーだーだー、ってタイプか?」

「そっ、そんなことはないよ。僕、ゲームも好きだし」


 それを聞いて、ほっ、と胸をなで下ろす。こいつに俺のピアノを完全否定されたら、けっこうキツかった。


「じゃ、まだ俺は実力不足か」


 タバコをふかすように、マックポテトを口にくわえる。……タバコなんて吸ったことないが。


「そ、そんなことないよ。強い音で粒もそろっていた。難しい曲なのに。あの編曲はどこの楽譜なの?」

「おっ」とポテトを飲み込む。「あのアレンジは悪くなかったか?」

「うん。マリオの原曲を残しながら、ちゃんとピアノに落とし込んでいた。あのレベルの採譜はなかなかできないよ。どこの楽譜を買ったのかなぁって」

「ふっふっ。アレンジは俺だ」

「えっ」


 よし、まずは一つ、鍵野原の鼻をあかしてやったぞ。


「すごいよ。プロレベルだ」

「まぁプロだからな」

「えっ」

「ストリートの、だけどな」


 目を丸くした鍵野原に、スマホをつけたままの三脚を掲げてみせた。さっき、鍵野原を追いかけた時にあわてて回収したやつだ。


「YouTubeに動画をあげんの。今ではそこそこ登録者がいるんだぜ。ちょっと前にようやく収益化もされた」

「さっきのもそれで撮影していたの?」

「ああ。まっ、今回はマリオだったから、著作権とかで広告収入にはならないかもな。まぁ、そこはあまり気にしてない」


 三脚からスマホを取り外して、撮影した動画を再生する。

 やっぱり、音質がイマイチだ。

 中途半端な撮影機材よりもスマホの方が良いとネットであったから、これを使っているけど、そろそろ本格的な機材を買いたい。それに演奏中にも撮影を手伝ってくれる奴も欲しい。動画としてもいつもの同じ視点からじゃつまらないだろう。


「どうだ?」と鍵野原の顔を見つめる。「やっぱ演奏にアラがあるだろ」

「……」


 無言だが、その表情は同意していた。

 やっぱり、ずっと前から弾きまくっていた鍵野原の耳は誤魔化せない。俺がピアノにハマってからまだ三年だ。クラシックのコンクール野郎には子どものお遊びみたいに聞こえてもおかしくはない。


「よし」と拳を手の平にうちつける。「やっぱ、お前に聞けて良かったわ」

「どうして?」

「ん〜、なんていうか、真面目なのは恥ずいけど」と椅子からずり落ちて、テーブルの下で足を伸ばす。「俺がストリートをはじめたキッカケって、お前なんだわ」

「僕?」

「そ、」と両手を頭の後ろで組む。「俺ら、中学も同じだったって知ってた?」

「……」

「はは、そんな顔しなくていいって。有名人のお前と違って、パンピーの俺なんて覚えている奴のほうが珍しい。あんときは、今みたいに髪はこんなじゃなかったしな」

「ごめん。僕、人の顔を覚えるの苦手で」

「別に、いーて」


 よく謝る奴だ。でも、ピアノのことについては嘘をつかない。


「ほら、中学の頃、お前が体育館でピアノ弾いたことあったろ。なんか有名なコンクールにでるからって、音楽のセンコーがはしゃいでみんなの前で弾かせたやつ」

「そういうことも、あったかな」

「ガーンときたんだ。今でも覚えている。ショパンの幻想即興曲。あん時はクラシック? なにそれ? つまんね〜、って思っていたけど、バットで頭の後ろを殴られたみたいになった」


 今でも思い出す。俺と同じ年の奴がスゲー音楽で俺をタコ殴りにした。それがくやしくて、たまらなかった。毎日テキトーに生きている俺と違って、こいつは頑張っているんだろうな〜、って思った。


「あれでピアノをはじめたんだ」

「はじめたって、じゃあ、中学生からはじめて、あれだけ弾けるようになったの?」

「よせよ。分かってんだ。俺はまだまだだ。お前に比べたらな」


 その時、鍵野原の顔が梅干しを食ったみたいにキュッとなった。


「どうした? お前のほうはどうなんだ。クラシック勢にはコンクールとかあるんだろ、聞かせろよ」

「僕は……、もう、そういう感じじゃないよ」


 鍵野原は下を向いてマックシェイクをストローでかき混ぜた。その様子はあの圧倒的なショパンを弾いてみせたピアニストじゃない。俺の脳裏でずっと思い描いていた鍵野原良介とは全然違った。


「そ、そっか」とちょっと気まずくなる。「そんな感じか」

「うん」

「なぁ、お前、ピアノは、」

「ピアノはもう弾かない」とさえぎられた。「そう、決めたんだ」

「そ、そうか」

「なんかごめん。僕、そろそろ帰るよ。青川君のピアノ、すごく良かった」

「あっ、な、なぁ。ちょっと待てよ」


 ふと、あるアイデアが思い浮かんだ。


「お前にこんなこと頼むの、違うとは思うけどよ」

「なに」

「今度の夏休み。俺、東京に行ってストリートピアノを回るつもりなんだ」

「う、うん」

「それで、一緒について来てくれないか? 頼む」


 鍵野原に向かって拝むように頭をさげる。


「撮影とか手伝って欲しい。俺のダチでピアノ分かるやつなんてお前以外にいねーんだよ」


 顔を上げてみると、鍵野原の細目が困ったように垂れ下がっていた。



 ◇ 鍵野原良介


 青川君の勢いに圧倒されてうまく断れずにいると「俺のことはユウって呼べよ」と言われた。

 いきなり名前呼びを強制されるのか、と驚いたが、どうやらそれがYouTubeのチャンネル名らしい。万が一、撮影中に本名で呼ばれてはマズい、ということで普段からユウと呼ぶように注意された。


「お前はリョウな、鍵野原良介だから」

「う、うん」


 勝手に呼び名を決めつけられたことよりも、こっちは知らなかったのに僕の名前を覚えてくれていたことに戸惑って、反射的にうなずいてしまう。そのまま、夏休みまでに撮影機材は買いそろえておくとか、当日のホテル代や交通費もYouTubeの収入から出すから心配するなとか、打合せは放課後に学校の音楽室でとか、一気にまくし立てられてしまった。

 返事はしていないはずだったけど、すでに了承済みのような勢いで、その日はそのまま別れてしまった。


 どうしようか、と途方に暮れながら家に向かう途中、東京に泊まり込みというのを思い出す。

 親に反対されたと言えばやんわりと断れると思い、さっそく母親に聞いてみると逆に賛成されてしまった。どうやら、僕からピアノの話が出たことが嬉しかったらしい。

 でも、ストリートピアノのYouTube配信だよ、しかも僕が弾くわけじゃない。

 そう言ったがまったくムダで、逆に「そのお友達には交通費とホテル代はちゃんとこちらも払います、と言いなさい」と申し渡されてしまった。


 そんな訳で断る理由も見つからず、ユウの強引さに引きずられるように、僕たちは毎日のように音楽室に集まった。東京のストリートピアノを回る順番とか選曲とかアレンジの打合せ。なすがままにユウにつき合っていると、あっと言う間に夏休みになってしまった。


 ユウはこの東京旅行を、自分のチャンネルの登録者やTwitterのフォロワーに『東京殴り込みストリートピアノツアー』と告知をしていた。その実態は二泊三日の朝から夜まで移動と演奏を繰り返すだけのハードワークで、ユウは「これで二ヶ月分は動画がストックできるぞ」とうれしそうだった。

 どうやら、収益化にまでこぎ着けたチャンネルとはいえ、油断していたらすぐに視聴者は離れてしまうものらしい。色々と対策もあるらしいが、何よりもアップロードの頻度が大切で、夏休みは撮りだめの貴重なチャンスなのだそうだ。

 彼が学校をサボりがちな理由も、不良だとか不登校というわけではなく、単にピアノの練習と動画投稿に忙しいのが原因だと言っていた。


 そして、とうとう夏休みに入り、僕らはお金を節約するために始発の鈍行列車で東京に向かった。


 僕はアシスタントのように機材を抱え、東京の人混みの濁流に流されまいとユウの後ろを追いかけていた。

 東京の品川駅に降り、そのまま環状の山の手線を時計回りにめぼしいストリートピアノがあるスポットを巡っていく。常設の場所もあれば、期間限定のものもある。駅前のような通行人の多い路上もあれば、落ち着いたカフェテラスも、ビルの展望フロアの天空ピアノなんてものもあった。

 そのまま品川、恵比寿、渋谷、原宿、池袋あたりを強行軍で撮影し、大塚駅のなるべく安いホテルで二人部屋をとった。


「すげぇ! いいが撮れてるじゃん」


 ユウは風呂からあがるなり、僕が撮影した動画をノートPCで再生しながら声をはずませた。

 実際、僕も我ながらよく撮れたと思っていた。今までユウの動画は定点撮影ばかりだったが、人気のある他のストリートピアノ動画は違う。演奏中にも様々な場面を映して盛り上げる。この東京遠征の前に、僕も人気動画を何回も見返して撮影の研究をしていたのだ。

 まず、そのピアノの周辺と通りすがる人々を撮る。そして、ユウが演奏に入る様子をアップでとり、サビの盛り上がりに入るにつれてもう一度ピアノの周囲に向ける。すると、ピアノの音に足を止めるサラリーマンや聞き慣れたアニメの曲に小躍りをはじめる子どもの姿が見える。


 ストリートピアノ動画の魅力はストーリーだ。


 夕方の駅前なら、仕事に疲れたサラリーマンたちは顔を下向きがちにして歩いている。その彼らがピアノの音に思わず足をとめ、腕を組みながらうなずくように体をゆらす。殺風景な日常がピアノによって変わる瞬間を、視聴者たちは求めているのだ。


「数字の動きもかなりいいぜ」とユウはノートPCをこちらに向けた。「リョウ、見てみろよ」


 ちょうど三十分前に撮影した動画に簡単な編集を加えて、YouTubeにアップロードしたところだ。投稿者用の管理画面には再生回数などが表示されている。


「ユウの固定ファンでしょ?」

「再生回数はそうだろう。けど、いいねの伸びが今までと違う」

「へぇ」


 動画についてコメントを見ると「撮影スタッフ入れたの?」と目ざといものもあった。他にも「周りの人たちの様子からも本当に素晴らしい演奏だったと分かります」というコメントもある。

 自分の工夫が上手くいった証拠だ。


「うれしいね」


 と、自分が思えたことに少しだけ驚く。結果がちゃんと返ってきたのはうれしいけど、これはピアノなのだ。あんなにつらかったピアノのことで、自分は楽しんでいる。


「やっぱり、リョウがいると違うな」

「関係ないよ」と肩をすくめる。「全部、ユウの実力じゃないか」

「そーだけど、ちょっと違う気がする」

「なんで?」


 ユウは頭をひねったが、すぐに「分からん」と両手をあげた。

 一見すると不良風のこの金髪は、実際に付き合ってみるとずいぶんと人懐っこい性格だった。ただ、使う言葉がぶっきらぼうで、あまり考えずにすぐに行動するせいでハラハラする。


「まぁ、難しいことは置いておいて、明日も早いから寝ようぜ」

「そうだね」


 明日は池袋から上野にかけてのスポットを回る。機材と予備バッテリーをコンセントに刺していることを確認すると、二人でダブルベッドのなかにもぐりこんだ。


「消すぞ」

「うん」


 明かりが消える。ユウが朝の6時に起きると言ったせいで、まだ10時だった。困ったことに、まったく眠くない。思った以上に動画の反響が良かったことで少し興奮しているのもある。


「なぁ、リョウ」


 早く寝ようと言い出したユウのほうから声をかけてきた。


「なに?」

「聞いても、怒らないか?」

「ものによるなぁ」


 ユウが遠慮するなんて珍しいな、と思いながら寝返りをうつ。


「なんで、ピアノやめたんだ?」

「……」

「怒ったか?」

「別に」


 なんとなく、この旅行中に聞かれるだろうな、という予感はあった。


「ちなみに」とため息をつく。「ごく普通の理由だよ」

「当ててやろうか?」

「どうぞ」

「ピアノの先生に恋して、フラれたとか」

「……ユウにしては、発想がかわいいな」

「なんだよ。違うのか?」

「全然違う」


 なんだか、修学旅行のテンションになってしまっている。


「じゃあ、ピアノに飽きた、とか」とユウがおそるおそる聞く。

「それも違う」

「ピアノは今でも好きか?」

「どうだろ」

「もう、リョウは弾かないのか?」

「弾かないね」


 それは断言できた。高校生になったら弾かないと決めたのだ。


「じゃあ、どうしてだよ」

「当てるんじゃなかったのか?」

「降参だ。こーさん」

「正解は才能がなかったから、でした」

「んなわけねぇよ。俺は中学の時のリョウのピアノを聞いて、」

「それはもう聞いたよ」


 思わず口の端がゆがむ。そうだ、自分だって中学まではピアニストになれると思っていた。才能があると思い込んでいた。無駄な努力などないと信じて、誰よりもピアノに時間を注いだ。


「僕はピアニストじゃなかったんだ」

「はぁ?」

「それに気がついたのはちょうど中学生のころだ。多分、ユウが聞いた幻想即興曲の頃にはギリギリだったと思う。あの頃には、もう地方予選すら通らなくなっていた。小学校のころはピティナの金賞すらとれていたのに、」

「なんだよ、それ」

「音楽性が感じられない。残念ながら上手いだけ。音は出ているが歌えてはいない。自分がなぜ落とされたのか、何を言われているのか、全然分からなかった。必死で練習しているのに、親にお願いして学校もサボって、弾きまくって、聞きまくって、バカになるくらいやった。実際に学校のテストはさんざんになって、出席日数が足りないと母さんが呼び出されるくらいまで。……でも、僕の順位は年齢とともに少しずつ下がっていった。必死にやってるのに、しがみつくのがやっとだった」


 やっても無駄な努力はある。

 まるでゲームのガチャのように、産まれた時の才能に恵まれなかったと分かったら、すぐにリセットするのが正解だ。ましてや、他のすべてを犠牲するほどの努力でもダメだったなら、いい加減、気づいた方がいい。

 生徒指導の先生が母さんの前で「今のままでは高校進学も厳しいです」と言ったのを聞いて、僕の人生にもそろそろリセットが必要なのだと気がついた。


「ユウにはあるよ。才能」

「……なんだよ。やめろよ、この流れでそーいう冗談」

「本気だよ。もうプロのピアニストじゃないか。聞いてくれるファンがいて、収益化もしている。立派なピアニストだ」

「やめろ。怒るぞ」

「ねぇ、ユウは中学校の時の数学、何点だった?」

「はぁ? なんだよ。中学のころなら40点くらいか。あんまし覚えてねーけど。言っとくが今の点数は聞くなよ」

「僕は28点だった」


 ユウのほうを見る。

 カーテンのすき間から入ってくる街灯に当てられたユウの顔がよく見えた。その驚いた顔が面白い。小さい頃からピアノを弾いているやつは勉強もできると思い込んでいた顔だ。

 実際、勉強もできるピアニストはいる。天才ってのはいるのだ。僕は違ったけどね。


「それが前の期末テストで82点になったんだ。勉強はいいよね。努力した分だけ結果が出るし、別に一番じゃなくてもいいから」

「……」

「今ではピアノよりも勉強のほうが好きなんだ。このままサラリーマンになりたい。それが僕の夢」


 ユウの顔がくしゃって歪んだ。何か言いかけたその口に、僕は釘を刺すように続ける。


「ピアニストにはユウがなりなよ」



 ◇


 次の日の朝は抜けるような晴天だったけど、いつもはよくしゃべるユウは言葉少なげだった。

 アスファルに覆われた東京の夏休みはまるで砂漠みたいに暑く、照り返す日差しがジリジリと肌を焼く。リュックに入れた撮影機材が肩からずり落ちるのを持ち直しながら、前を進むユウを見る。昨日の夜の会話を思い出して、自分はどうしてこんなところまで来てしまったのだろう、と疑問がよぎった。


 大塚駅を出た僕らは、池袋から田端、日暮里を回った。


 ストリートピアノでは事前に演奏を告知することはマナー違反だ。駅前の人通りが多い場所では混雑の原因になりかねないし、そもそもストリートはコンサートではない。ふとした日常に音楽が聞こえてくるからこそ魅力的なのだ。

 ユウもチャンネルの登録者に演奏スケジュールを公開していない。だけど、昨日よりも観客は確実に増えていた。中には「ユウさんですよね? いつも見ています」とどこから嗅ぎつけたのかユウを待ち受けていた女の人たちもいる。


 そして、日が傾きはじめ、空に赤みがさした頃。

 僕らは二日目の最後のスポット、上野公園についた。期間限定で噴水広場に設置されたのはグランドピアノで、流石は上野なだ、と思った。


「なぁ、リョウ」とユウがこちらを振り返った。「弾く前にちょっと俺を撮ってくれ」

「別にいいけど、どうしたの?」

「ちょっと、視聴者に言いたいことがあるんだ」

「ふ〜ん」


 ピアノの様子を確認してみると、今は誰も弾いておらず、順番待ちもいない。十分に余裕はありそうだ。


「分かった。ピアノの前で撮ろうか?」

「ああ、そうしてくれ」


 カメラと三脚を取り出して組み立てる。電源を入れて残りのバッテリーがまだ残っていることを確認し、録音用の外付けマイクに風除けを被せてピアノの近くに設置する。カメラは少しひいた位置でピアノの周囲全体を撮ることにした。


「よし、まわすよ」

「よし。うむ」とユウはわざとらしい咳払いをした。「あ〜。みなさん、こんにちは」


 もう、こんばんは、の時間だけど、と思いながらカメラのモニタを確認する。

 そう言えば、正面からユウの顔をうつすのは初めてだった。何かと炎上しがちなネットの対策として、ユウはサングラスをかけている。でも、その整った顔立ちを隠し切れてはいない。YouTubeの視聴者データで女性比率が多かったのもそれが理由かもしれない。


「東京殴り込みツアーの二日目。正直、俺のピアノなんて東京の人に聞いてもらえないかも、って不安だった。けど、そんなことなくて、安心した」


 カメラの向こうのユウは、いつものラフな感じではなく、とても緊張していた。それが可笑しくて、ふきだしそうになるのを必死にこらえる。もし、僕が笑ったらユウは怒るだろう。


「でも、今はもっと緊張している。ここは上野なんだ。芸大とかコンサート会場とかいっぱいある、日本の芸術の街。ほら、後ろのストリートピアノだってグランドピアノだぜ。贅沢だろ。この公園にいる人たちも耳の肥えたのばっかさ」


 ユウの言うとおりだ。

 同じストリートと言っても上野はやはり違う。通りすがりの足を止めるために、耳慣れたアニメや映画、ゲームのアレンジ曲で戦ってきたユウのスタイルがどこまで通じるだろうか。


「だから、今日はクラシックで勝負する」


 思わずカメラから目を離してユウを直接見た。ユウはニヤリと笑って見せたが、その口元はこわばっていた。


「これがどれだけ勇気がいるか、分からないかもしれない。クラシックっていうのは、それこそ五歳のころからずっと練習し続けてきた奴がゴロゴロといる世界だ。俺みたいなのは鼻くそなんだ。でも、ストリートは挑戦だ。スポットに合わせて弾くのがストリートだ。だから、普段はクラシックなんて聴かねーよって人も応援よろしくな」


 ユウはそう言うと、カメラに背を向けてピアノに座った。あいつが何を弾くのかは分かっていた。そして、その予想通りの位置にユウの両手が置かれた。


 ショパンの幻想即興曲。

 それは初めの二音、その強さで人を惹きつける。


 ユウはあの独特の全身を使ったストロークで、その二音を上野公園に広げた。まるでかねを叩いたように響き渡る。ユウの最大の持ち味はこの音の強さだ。

 それだけで、道行く人々が振り向いた。

 クラシック好きなら誰もが知っている二音。それで引き寄せた興味の糸を指で巻き取っていくように、ユウは次のフレーズを歌い上げていく。


 幻想即興曲は序盤こそ難所だ。


 コンクールでは、そこだけで聴衆は聴くか寝るかを決める。逆に、そこさえ魅せれば観客は最後まで聞き入ってくれるだろう。序盤の指運びは高速。それをまるで氷上を滑るように軽やかに、しかし、意外性に富んだステップで切り返す。幻想即興曲の序盤は右手と左手の展開が複雑だ。演奏者の個性がにじみ出るパート。


 ユウはその難所を激しい渓流のように走らせた。

 悪くはない。ショパンらしい繊細さに欠けるが、耳には残る。もし、ここがホールだったら粗が目立って減点かもしれないが、野外では音の粒がくっきりしているほうが良い。

 なるほど、これがストリートでの、ユウの幻想即興曲か。

 

 通りすがりの足が止まった。序盤は成功だ。

 

 演奏も中盤に入り、渓流がおだやかな大河へと変わる展開。その頃には足をとめてピアノを囲む人も増えてきた。

 そのストリートの変化をカメラにおさめる。集まってきた観客をよく見ると、楽器のケースを背負った女子大生やフォーマルな服装に身をつつんだご婦人などもいた。

 ピアノをはじめてたった三年のユウが、ストリートとはいえ、クラシックで上野で勝負している。その世界に負けた僕には鼻で笑ってしまいたくなるほどに無謀に思えた。


 でも、ユウはやっている。


 その演奏を意地悪く分析すれば、ユウの練習も才能も足りていないことが分かるだろう。そもそも、体が小さく、指も短いユウはピアノに不向きだし、幼い頃から訓練しないと音感が育たないとも言われている。


 でも、ユウは挑戦しつづけている。


 あの金髪はストリートで少しでも目立つため、大げさな演奏スタイルは小さな体で野外に響き渡る音を出すため。学校をサボりがちなのも少しでも練習やアレンジに費やすためだ。あの頃の僕と同じ、ユウは全力でピアノに向き合っていた。


 幻想即興曲は終盤に入り、序盤と同じメロディーに戻る。


 ユウはそれを序盤よりもゆったりと弾いた。彼の金髪が汗をちらし、それが夏の強い日差しをはじいた。そのがむしゃらなショパンは、いつもアニメ曲やポップソングを弾いている時と同じように、上野のオーディエンスを惹きつけていた。

 ラストは消え入るように指を抜いて、演奏が終わる。それを待ちかねたように拍手がユウをつつんだ。


「元気のいいショパンだったわねぇ」とご婦人がにっこりと笑った。

「ああ〜、久しぶりにショパンのコンサートに行きたくなっちゃった」と音大生たちが語り合っている。


 演奏を終えたユウがこちらを振り向いた。どうだ? と問いかけるようにこちらを見てくる。そのユウにどんな表情を返せばいいのか分からなかった。


 ユウは右側を空けて、ふたたび鍵盤に指をのせた。

 二曲目も弾くのか。順番待ちもいないから問題はないだろうけど、何を弾くつもりだろうか。同じショパンでつなげるなら、英雄ポロネーズあたりを弾くつもりか、曲風をガラりと変えてノクターンかもしれない。

 どちらにしても、座る位置が左に偏りすぎている。何をするつもりだ?


 ユウがゆったりとした音をのばす。

 数音聞くだけですぐに分かった。ショパンじゃない。パッヘルベルのカノンだ。そして、ユウが椅子の右側を空けた理由もすぐに気がついた。


「あれ、カノンって連弾曲よね」と近くの音大生がささやきあった。

「もしかして誘ってるんじゃないの?」

「パートナーを?」

「そうよ。だからカノンなの。簡単で誰だって弾けるから。さっきからはじめのソロパートを繰り返しているし」

「あら、じゃあ、あんなにカワイイ子と連弾?」


 彼女たちが肘をつきあうと、背負っている楽器ケースがガチャガチャとゆれた。

 その間もユウははじめのソロパートの二小節を繰り返している。ふと、ユウがこちらを振り向いた。


 ——来ないのか?


 そう言われた気がした。

 近くの音大生が「じゃあ、私がご一緒しようかな」と言った瞬間、僕の足が勝手に前にでてしまった。音大生の前に出て、囲んでいた観衆をかき分けて、二度と弾かないと決めたピアノの前へ。


 ユウが笑った。


 僕を迎え入れるようにカノンのテンポがゆるくなる。ユウの隣に座って、鍵盤に指をおく。懐かしい指の感触。言葉にならない感情がこみあげる。


「ちゃんと弾けるのか?」とユウが挑発してきた。

「まぁ、うん」


 実際、今、自分がピアノの前に座っていることすら信じられない。


「多分、大丈夫」

「ふっ」


 ユウが左のベース。僕は右のメロディー。

 突然、ユウはカノンの伸びやかなコードを思いっきり深く落とした。それはパッヘルベル的ではないけれど、ユウらしい、ちょっとロックな弾き方。

 久しぶりなのに容赦ないなぁ、と、僕はメロディーをのせた。

 本来は春の小川のようにゆるやかなカノンも、ユウが弾けば夏の海だ。だから、カモメが鳴くようにメロディーも高くのばしていく。


 ピアノは面白いなぁ。ユウが弾けば春も夏に変わる。


 はじめの一巡は少なくとも音は譜面通り。それが途切れて、一息をつくと、ユウが遊びはじめた。スイング気味のリズムにガラッと変わる。

 

 これは、ジャズ風のアレンジか?

 

 なんて奴だ。打合せなしでアレンジを入れるなんて。

 慌てて、メロディーラインにも跳音スタッカートを組み込んで、ユウのアレンジを際立たせる。ジャズ風であれば、ドラムの軽快さをどのように演出するかがポイントになる。特に、高音を担当する僕は、スネアの細い打音をピアノで表現する必要がある。

 咄嗟に爪先で鍵盤をはじいて刻み、メロディーを躍らせてみた。


「やるじゃねぇか」とユウが横で叫ぶ。

「このくらいなら」

「じゃあ、これならどうだ」とユウが突然、ベースを引き延ばした。


 今度はボサノバ風か。

 もはや原曲がカノンとは思えないほどだ。咄嗟にメロディーのテンポをずらしてボサノバ風の八拍子に切り替えた。ボサノバ風ならもっと、こちらでリズムをリードしたほうが良い。ユウの強いベースを押しのけて、こちらの音を前に出した。


「はっ、やるじゃねぇか」

「大変だよ」


 ははっ、とユウの音が跳ねて、また転調の予感。

 クライマックスはどう展開するつもりだ? と、身構えていたが、びっくりするほどに譜面通りのカノンが流れる。細い小川のよう。それはお手本のカノンの弾き方で、僕も教科書どおりに小鳥がさえずるようなメロディーを歌わせた。

 フィニッシュは二人ともゆっくりとピアノから手を離した。


 その後に包まれた拍手とか、

 ユウに思いっきり叩かれた背中の痛みとか、

 アップロードしたこの連弾動画のいいねの数とか……。


 そういった色んなことが後押しになり、ユウが強引に引っ張ってくれたお陰で、ストリートピアニスト『ユウとリョウ』が生まれた。


 かつて技巧と表現を競うクラシックの世界に打ちのめされた僕は、今ではユウと二人でストリートピアノを弾いている。道行く人が聞きたい曲を弾いて、動画をアップロードする。サムネイルやタイトルも工夫して再生数を稼ぎ、登録者の増減に一喜一憂する。


 それでもいいじゃないか。

 僕らはピアノを弾いて、聞いてくれる人が笑顔になる。

 とてもいいことじゃないか。

 

 

——了

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