第2話 百合の花

「というか、俺は明日からどうなるんだろうな」


 俺はだだっ広い国立公園にある噴水の周りに設置されたベンチに、だらしなく全身を預けていた。

 神に人生を縛られてから早十年。これまではお告げに従って人を轢き殺しても、数ヶ月後には次のお告げが待っていたが、今回に限ってはそうではない。


「……人を轢き殺しても、何も思わなくなった自分が怖いな」


 最初の方こそ、俺は人を轢き殺すという行為に対して、明確な嫌悪感を抱いて躊躇していたが、今はもうそんな感情がなくなってしまっていた。


 そんな自分が怖くなり、人の心を取り戻そうと数年前からバイトを始めたは良いものの、結局正気を取り戻すことはできなかった。

 今みたいに青空の下でのんびりしていても、パチンコで金を注ぎ込んで鬱憤も晴らそうとも、頭には、常に深い悲しみと自責の念が残ったままだった。


「クソッタレめ! どうして俺がこんな目に遭わなくちゃならないんだよ……」


 俺は道中自販機で購入した空の缶ジュースを握りつぶした。

 いくら抗おうとお告げからは逃れることはできない。

 お告げの日の数日前から海外へ高飛びしようと、直前に睡眠薬で眠りにつこうと、俺は気がついたらトラックの運転席に乗せられている。”絶対的な神の力”というやつなのだろう。【異世界送り人】三年目の冬、俺は神に抗うことを諦めた。


「明日が怖い……俺はどうなる? 今から普通の生活を送れるのか? いや、無理だ。異世界にでも行かない限り、俺は生きていけやしない」


「——アスカさん? こんなところで何をしているんですか?」


 俺が天を仰いでやるせない思いを呟いていると、前方から耳馴染みのある声が聞こえてきた。


「んぁ? あぁ、ちーちゃんか」


「なんですか、その反応。がっかりしたみたいな……」


 俺の目の前でムッとした表情をしているのは、バイト先の後輩である七瀬千夏ななせちなつこと、ちーちゃんだ。

 ちーちゃんは肩から小さなバッグを下げ、手には一輪の真白い百合の花を手にしていた。

 

「いや、そんなことはない。ただなんで平日なのに高校生であるちーちゃんがここにいるのかなぁって思っただけだ」


 ちーちゃんは高校三年生だ。今は夏休みにはまだ早い七月なので、学校に行っているはずだ。


「今日は訳あってお休みしたんです。アスカさんこそどうしてここに? 今日はお昼からシフト入ってましたよね? あ、隣失礼します」


 ちーちゃんは一切遠慮することなく俺の隣に腰を下ろした。

 夏だというのに全身を隠すような白いロングワンピースと、その快活な口調やショートヘアは夏にぴったりといった感じだ。

 さすがは我がバイト先のムードメーカーだ。前科持ちで根暗な俺にも優しくしてくれるだけある。


「少し気が乗らなくて休ませてもらったんだ。ここにいる理由はよくわからん」


 本当は明確な理由があったが、余計な詮索をされたくないので、俺はあえて教えなかった。


「ふふふっ……なんですか、その理由。というか、私がここにいる理由は聞かないんですか?」


「聞いてほしいのなら聞いてやる。どうしてここに来たんだ?」


 俺は楽しげな笑みを浮かべるちーちゃんの望み通りにした。

 どこか儚げな表情にも見えなくもないが、ちーちゃんは普段から落ち込んだ姿や暗い姿は全く見せないし、常に元気いっぱいなので、きっと俺の勘違いだろう。


「少し悲しい話になるんですけど、それでも聞いてくれますか?」


「ああ」


 俺の予想とは打って変わって、ちーちゃんは暗い話をするようだ。

 俺とちーちゃんの間に流れるシリアスな雰囲気は、親子連れが大勢いる国立公園の楽しげな雰囲気とは対照的だった。


「あまり私は家族の話を周りの人にはしないのですが、バイト先でお世話になっているアスカさんには教えてあげます」


「……」


 やはり聞きたくない。ここまできてそうは言えなかった。

 今日は最後の殺しの日なので、少しくらいは明るい話をしたかった。


「私には三つ上のお姉ちゃんがいました。お姉ちゃんはとっても優しくて、可愛くて、私の自慢のお姉ちゃんでした。毎日が楽しくて、幸せで、いつまでもこんな日常が続けばいいなって思っていました。でも、そんなに現実は甘くはなく、父が病に倒れてそのまま他界してしまいました。その後、母は私たちの暮らしを少しでも良くしようと再婚し、私たちもそれに従うことにしました」


 ちーちゃんはぽつりぽつりと悲しげな声色で、自身の過去を詳細に語っていった。

 予想以上に重たい話だ。既に両親を失った俺からすれば、他人の家族の話などどうでもいいと思っていたが、こうもシリアスな話をされてしまうと、自然と感情を移入させてしまう。


「それで、二人はどうなったんだ?」


 俺は数秒の間を置いてから、中々喋り出さないちーちゃんに話の続きを聞いた。


「それからの生活は酷いものでした。不幸なことに、母が再婚した男はDV癖を持っていて、毎夜毎晩私たちは暴力を振るわれていました。特に、我が強く言いたいことを口にしてしまう性格のお姉ちゃんには、顔以外の至る所に暴力を振るっていました」


 ちーちゃんは最後に「それこそアザができるくらいに」と付け加えた。


「警察に相談は?」


「それが、できませんでした。何を言おうにも、何をしようにも、当時は常に暴力に支配されていたので、自由な時間なんてありませんでしたから。ですが、義父と完全な主従関係が完成していた母だけは少しの外出を許されていました。そんなある日のことです。母が体調を崩してしまったので、その代わりにお姉ちゃんが買い物へ行くことになりました」


 壮絶な人生だ。俺は冤罪で逮捕されて刑務所で割とぬくぬくと数年間暮らしていたが、それよりも遥かに酷い話だ。

 しかも、その経験を幼い頃にしているとは……。同情することすら憚られてしまう。


「それで……どうなったんだ?」


 今のちーちゃんはかなり元気なので、おそらくハッピーエンドなんだろうと俺は考えている。

 だからこそ、何気ない気持ちで気安く話の続きを聞くことができた。


「……あれは、今日みたいな雲ひとつない晴れた日のことでした。その日、母が唯一買ってくれたピンク色のワンピースを着て買い物に行ったお姉ちゃんは、信号無視をしたトラックに轢かれて亡くなってしまいました」


「……」


 膝の上で強く拳を握りしめるちーちゃんを見て、俺はかけてやれる言葉が見つからなかった。というより、どこか胸に引っかかる話だと感じてしまったからだ。

 ピンク色のワンピース……トラック……いや、待て。これは偶然か?


「あれから今日で十年だというのに、犯人も逮捕されず、事件はお蔵入りで、トラックのナンバーも型式も何もかもがわからずじまい……。その後の身元確認の際に、警察がお姉ちゃんの全身にあった酷い傷跡からDVを疑い、数日後に義父のことを逮捕。お姉ちゃんを失うことと引き換えに、私たちはその呪縛から逃れることができました……」


「ッ!」


 ちーちゃんは涙で潤んだ瞳を指で拭うと、最後には儚げな笑みを浮かべていた。

 しかし、そんな中。俺は頭の中に電流が走ったかのように、あの時の記憶が瞬時に想起されていた。

 ちーちゃんのこの表情。似ている。あの時の少女に似ている……まさか……!


「アスカさん、どうかしましたか? ごめんなさい。私の話を聞いて気分でも悪くなってしまいたか?」


 ちーちゃんは頭を抱えて下を向いた俺に心配の声を投げかけたが、今の俺に返事ができるほどの余裕はなかった。

 答え合わせをせずとも分かるが、どうしても頭の中で整理をせずにはいられなかった。

 十年前に起きた未解決の事件。被害者は十歳の女の子。服装はピンク色のワンピース。家族構成は血縁関係のない義理の父親と血縁関係のある実の母親、そして三個下の妹。ほぼ全ての辻褄が繋がった瞬間だった。


「……なぁ……ちーちゃん。一つ聞いてもいいか?」


「は、はい。どうぞ……っというか、どうしたんですか!? 酷い顔色ですよ!」


 俺が言葉を震わせながら顔を上げると、ちーちゃんは小さなカバンの中からハンカチと水入りのペットボトルを取り出した。


「君のお姉さんは……どこで亡くなったんだ……?」


 俺はベンチに腰掛けながら前傾姿勢になって、脱力した股を開き、両膝の上に両肘を置いて、首を垂らした。

 99を100にするために必要な最後の質問だ。

 この最後のピースは俺の荒んだ醜い心を破壊するには十分なものだろう。

 しかし、俺の本能が最後の答え合わせをしろと叫んでいたので、現実から逃げることはできなかった。

 いや、逃れてはいけなかった。俺は目の前の問題と向き合わなければならない。


「……十年前の七月四日のこの時間。お姉ちゃんは、すぐそこの横断歩道でトラックに轢き殺されました。私が今日ここにきた理由もそのためです。毎年、この日はお姉ちゃんが好きだった百合の花を手向けるんです」


 ちーちゃんは背後の交差点をチラリと一瞥すると、手に持っていた一輪の真白い百合の花を眺めていた。

 悲しみからか虚無感からか、はたまた過去を懐かしむ感情からか、ちーちゃんは晴れ渡る青空を眺めていた。


「……すまない、本当にすまない。俺は……俺は取り返しのつかないことをした……」


 俺の心は、まるでダムが決壊したかの勢いで一気に崩壊した。何もせずとも流れ出てくる大粒の涙は、手の甲でいくら拭おうとも止まることを知らない。謝罪の言葉を何度口にしようとも、失われた命を取り戻すことはできないことを理解しているのに、喉の奥から贖罪の言葉が溢れ出てくる。

 全ては俺のせいだ。俺が十年前の七月四日にちーちゃんのお姉さんを殺してしまったばっかりに、ちーちゃんの人生を壊してしまった。神の命令や試練などは一切関係ない。俺が殺した。俺が殺した。俺が……殺したんだ……。視界は潤み、周囲の音が聞こえない。先の見えない暗闇の世界に堕ちたような気分だった


「……さん! ……カさん! アスカさんッ! いきなりどうしたんですか!」


 俺の肩をちーちゃんが強く揺さぶったことで、俺は途端に暗闇から舞い戻った。

 俺は既に取り返しのつかない過去を悔やむことを一旦やめて、ズキズキと痛む胸に手を当てた。

 絶対に過ちを正当化したりはせず、極限まで身を削り、犯した過ちを胸にすり込み、己を貶めてなんとか自我を保とうと試みる。


「悪い。俺はもう帰る……ッグッ……くそ! よりによって……ッ!」

 

 俺は罪悪感からこれ以上はちーちゃんと同じ空間に留まることができなくなった。

 俺はベンチから立ち上がり、覚束ない足取りでフラフラと歩き始めたが、途端に脳がグラグラと揺れ始めた。

 これはお告げの兆候か……。もう何十回と経験したが、相変わらず気持ちが悪い。

 例えるなら、度数が高い酒を瓶ごと一気飲みしたかのような感覚だ。突如として視界が歪み、脳が揺さぶられ、視点がぶれる。具合悪いことこの上ない。


「だ、大丈夫ですか? 木陰に行くので、私の肩に掴まってください!」


「っ……悪いな……」


 右の手のひらで額を抑えて苦しみの声をあげていた俺は、残った左腕をちーちゃんに支えてもらい、ベンチ裏にある大木へ向かった。


「ぐっ……後、少しだ」


「わ、私はどうしたら……」


 俺は大木に背中を預けて座り込んだ。

 お告げという名の、人殺しの命令をされるまで残り数秒だ。

 小さな棘の生えた大木に手のひらを強く押し付けたことで、軽く血が出て痛みが走ったが、今は気にしていられない。


「はぁはぁ……っっ……終わった……」


 全身の倦怠感と気持ち悪さは嘘だったかのように一瞬で収まった。

 同時に、頭の中に男とも女とも言えない声をした神の声が流れ込んでくる。


 久しぶりだな。ん? そんなことはどうでもいいって? 何をそんなに怒っているんだ?

 

 あぁ。お前が【異世界送り人】として活動を始めてもう十年だな。ところで、今日で仕事は終わりだが、気分はどうだ?


 そうか、最悪か。だろうな。お前は私に選ばれたとは言え、死ぬことがないだけのただの一般人だ。精神崩壊は徐々に進行している。これだけ自我を保てているだけで大したものだ。褒めてやる。


 早く殺しの対象を教えろって? わかった。お前が急かすなら教えてやる。


 質問はなしだ。では発表する。次の殺しの対象、いや、異世界に送る人物は——。お前の隣にいる女だ。

 最後に私から最後の仕事についての説明をしておく。

 説明というよりこれは私からの命令だ。

 十五時きっかりに例の横断歩道に二人で行け。わかったか?


 待てと言われても待てない。またな———。

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