第32話

 町で情報収集してきたルーフェスによると、今回の船でかなり多くの人がこの国に来ていたようだ。

 今のところ、サーラを探している人はいない。

 だが、サーラの父が国外に目を向ける前に、遠くまで逃げたほうがいい。

「そろそろ町を離れよう」

「ええ、わかったわ」

 そんなルーフェスの申し出に、サーラは迷いなく頷いた。

 数日過ごしただけだが、海を離れるのは少しだけ寂しい。

 あの雄大な景色を眺めていると、心が穏やかになる気がする。

 今はまだ逃亡生活の途中。

 ここに留まることはできないとわかっている。

 でもいつかまた、海を眺めることができればと思う。


 ここからは陸路で、ティダ共和国を目指すことになる。

 この国は商人が多いようで、辻馬車よりも、御者付きの貸し切り馬車のほうが主流のようだ。荷物をたくさん積み込めるからだろう。

 ルーフェスも、ここで隣町までの馬車を借りた。

 目的地まで一気に走らせるのではなく、町ごとに馬車を借り直すようだ。

 手間も金銭もかかるが、用心のためだ。

 最初に雇われた御者は初老の優しそうな男性で、急がなくても良いというルーフェスの言葉通り、のんびりと馬車を走らせていた。

 その容貌に、何となく教会の雑用係だったウォルトを思い出す。

 雨の季節には腰が痛むと言っていた。

 彼は元気だろうか。

 ウォルトだけではない。

 孤児院の院長、子どもたち。そしてキリネは、今頃どうしているだろう。

(わたしが、こんなふうに誰かを懐かしむなんて。会いたいと思うなんて、想像もしていなかった……)

 海が好きだと思ったこと。

 もう一度会いたいと願う人が、できたこと。

 普通の人間にとっては、当たり前のことかもしれない。

 でも、今まで父親の言葉に従っていただけのサーラにとって、すべてが初めての経験だった。

 修道院にいたときでさえ、望みは、静かな生活を送ることだけしかなかったのに。

 孤児院で過ごした日々。

 そして、こうしてルーフェスと旅をした経験が、サーラを父の操り人形から、自分の意志を持った人間に変えてくれたのかもしれない。

 疾走する馬車の窓から、外の景色を眺めながら思う。

 これから自分はどう変わっていくのだろう。

 それが少し怖くて、楽しみでもある。

 そう思うことができるようになったのも、ルーフェスがあの国から連れ出してくれたからだ。

 いつか彼もまた過去の悔恨から、解き放たれる日がくればいい。

 今のサーラには願うことしかできないけれど、もしルーフェスのためにやれることがあれば、何でもするだろう。


 町に到着し、宿に一泊してから、また次の馬車で目的地を目指す。

 移動にも時間が掛かってしまうが、周囲の状況を探りながら、サーラの体調も考慮してゆっくりと進むことにしたようだ。

 ルーフェスは口数少なく、馬車の中でも途中で泊まった宿でも、ほとんど話さない。

 もともと口数の多い人ではなかった。

 でも今は過去の話をしたことで、妹のことを思い出し、少し塞ぎ込んでいるのかもしれない。

 悪いことではないと思う。

 あれほど大切だった妹のことを、無理に忘れる必要などないのだから。

 今の彼に必要なのは安易な慰めではなく、時間だ。

 だからサーラも何も言わず、ただ静かに窓の外を見つめていた。

 そんなルーフェスも、目的地が近付くにつれ、少しずつ元気を取り戻していた。

 彼もまた、少しずつ前に進もうとしているのかもしれない。

「明後日には、ティダ共和国に辿り着けるだろう」

 何回か乗り換えた馬車の中で、彼はそう言った。

 その声は、港町を旅立ったときよりも明るい。

 それを何よりも嬉しく思いながら、サーラは頷いた。

 ティダ共和国の国境に、警備兵はいない。基本的に誰でも出入りできるようになっているようだ。

 だが、定住するには許可が必要で、そのためには過去の身分をすべて捨てることが求められる。

 貴族だろうが、王族だろうが、一度この国の住人になってしまえば、もう元の国には戻れないのだ。

 もちろん、サーラにその覚悟はできている。

 それに、父によって修道院に送られたときから、もうサーラは貴族ではない。ひとりの修道女が国を出て、ティダ共和国に移住するだけの話だ。

 むしろ、心配なのはルーフェスのほうだ。

 皇太子妃候補だった妹を死なせてしまったことで謹慎を命じられてしまったが、彼はまだ公爵家当主のはずだ。

 いくら親類の者を呼び寄せて領地を任せたとはいえ、簡単に身分を捨てていいのだろうか。

 サーラを妹の代わりに守ってくれると言ってくれたが、彼にそこまでさせるわけにはいかない。

 それを伝えると、ルーフェスはあっさりと首を振る。

「帝国に戻るつもりはない。あの国にはもう、守るべき者がいないのだから」

 彼にとっては祖国も領地も、公爵家当主の身分でさえ、妹がいなければ意味のないものなのだ。

 きっぱりとそう言われてしまえば、頷くしかなかった。


 そうして、ふたりはようやく目的であるティダ共和国に辿り着いた。

 国境前で貸し切り馬車を下りると、たくさんの馬車が待機しているのが見えた。

 ここからはまた、別の場所で共和国の首都を目指す。

 長い逃亡の旅は、もうすぐ終わる。

 用心深いルーフェスのお陰で、一度も追手に見つかることもなく、無事にここまで辿り着くことができた。

 あと少しで、サーラはすべてのしがらみから解き放たれて、自由になれるのだ。

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