第29話

 沈黙は、ほんのわずかな時間だったのかもしれない。

 でもサーラには、とてつもなく長い時間のように感じた。緊張感に耐えきれずに思わず息を吐くと、止まっていた時間が動き出したかのようにルースが顔を上げる。

 彼はサーラを見つめると、少し寂しげな笑みを浮かべた。

「もう一度、その名を聞くとは思わなかったな」

 ひとりごとのような小さな声だった。

 その口調はどこまでも静かで、悲しみや動揺などは微塵も宿っていないようにみえる。

 でもあまりにも静かな様子は、かえってサーラを不安にさせた。

「ルース……」

 思わずその名を呼ぶと、彼は視線を窓の外に向ける。

 そこからは、賑やかな町の様子が一望できるはずだ。けれど今のルースの瞳には、何も映っていない。おそらく彼が見ているのは、過ぎ去った過去の幻。

「ルーフェス・ロードリアーノ。妹を守れなかった、愚か者の名だ」

 聞いてはいけない話だ。

 ずっとそう思っていた。

 でも彼が語りたいのであれば、それを静かに聞くことくらい、自分にもできるはずだ。

サーラは声ひとつ出さずに、淡々と語られるルースのひとりごとのような言葉を受け止めた。


◆◆◆


 ルーフェスは、ソリーア帝国の公爵家の嫡男として生まれた。

 ロードリアーノ公爵家は、家柄こそ古く由緒ある家系だったが、長い歴史の中で少しずつ衰退し、権力からも遠ざかっていた。

 ルーフェスの祖父も父も、王都から離れた領地を発展させることに力を注いできた。

 そんな両親を早くに亡くしたルーフェスは、まだ若いうちにロードリアーノ公爵家の当主となった。そのときには祖父母も亡くなっており、彼の家族は、妹がひとりだけだった。

 名を、エリーレといった。

 艶やかな黒髪に鮮やかな緑色の瞳をした、とても美しい少女だった。

 その際立った容姿と明るく優しい性格で、誰からも好かれる妹ではあった。十五歳になって通い始めた学園は帝国中の貴族の令息、令嬢が集まる場である。そこに通うことで、今まで辺境の領地で暮らしていた妹に、親しい友人ができればと思っていた。

 でもまさか、学園で出逢った皇太子殿下に見初められてしまうとは、さすがにルーフェスも思わなかった。

「エリーレはロードリアーノ公爵家の令嬢なのだから、皇太子妃になったとしても身分的には何も問題はない」

 皇太子はそう言ったらしい。

 たしかに、身分的には問題はないのかもしれない。

 でも祖父母のみならず、両親でさえもすでに亡くなっていて、残っているのは公爵家を継いだばかりの兄のルーフェスのみ。

 皇太子妃の後ろ盾には、役不足だ。

 辺境の領地にこもりきりだった両親には、こんなときに頼りになる友人もいなかった。このような状態で皇太子の婚約者になってしまえば、妹は苦労するだけだろう。

 それに皇太子の婚約者には、宰相を務めるピエスト侯爵家の令嬢、マドリアナでほぼ決定していると言われていた。幼い頃から皇妃となるべく教育を受けてきた彼女と皇太子の寵を争うのは、あまりにも過酷すぎる。

「わたしでは、役不足です。殿下に見合うだけの知識も教養もありません」

 エリーレも、そう言って辞退し続けていたようだ。

 だが、皇太子は諦めなかった。

 必ず守るから、どうかこの手を取ってほしい。

 真剣な眼差しで愛を囁かれ、相手が皇太子であることもあって、はっきりと拒絶することは難しかった。

 こうなってしまえば、もう妹が皇太子の婚約者になることは、避けられない。それを悟ったルーフェスは、せめて妹は側妃候補としてほしいと懇願した。

 ソリーア帝国では、皇太子は複数の女性と婚約することがある。

 そして最初の婚約者が、皇太子妃となることが多かった。

 だから先に皇太子とマドリアナが婚約し、彼女が皇太子妃候補としての地位を確立したあとに、エリーレとの婚約を発表する。

 そうすれば、妹がピエスト侯爵から目の仇にされることもないだろう。

 だがエリーレの懇願もルーフェスの嘆願も、皇太子は届かなかった。彼は周囲の反対の声を退けて、ほぼ独断でエリーレを最初の婚約者として正式に発表してしまったのだ。

 予想外のことに驚き、ルーフェスは慌てて王都に向かった。

 ひさしぶりに再会した妹は、心労のためかすっかりやつれていた。

「お兄様……」

「エリーレ」

 兄に会うなり泣きついてきた妹の細い身体を、ルーフェスはしっかりと抱きしめる。

「どうしてこんなことに。皇太子殿下は……」

「殿下は、わたしを守るためにはこうするしかなかった、とおっしゃいました。側妃候補では、わたしを侮り、害しようとする輩が必ず現れるからと」

 たしかに皇太子妃候補と側妃候補では、配置される警備の人数がまったく違う。

 たとえピエスト侯爵の令嬢が先に婚約したとしても、皇太子がここまで妹に対する寵愛を示してしまえば、彼らにとって妹が邪魔者であることには変わりはない。だから皇太子は、皇太子妃候補としての地位で守るしかないと判断したのだ。

 だが、妹の心労は桁違いだ。

 あの明るい笑顔が失われてしまっていることに、皇太子は気付いているのだろうか。本当に愛しているのなら、妹のこんな姿を見ていられないはずだ。

 それでも婚約は成立し、妹は正式に皇太子妃候補となってしまった。学園での勉強に加えて、これから宮廷での妃教育も始まるだろう。

 それに結局、皇太子は近日中に、ピエスト侯爵家の令嬢のマドリアナと婚約することになった。

父である皇帝陛下の命令だという。

 エリーレとの婚約から日を置かずにすぐにマドリアナと婚約することで、どちらも皇太子妃候補であると示したいのだろう。

 彼女の背後には、皇帝陛下までついているのだ。

 そんな状態で妹は、もう完璧に妃教育を身に付けているマドリアナと比べられながら、宮廷に通わなくてはならない。

 ルーフェスは妹を、どんな手段を使ってでも守らなくてはと決意した。

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