第26話

 船旅は、思っていたよりもずっと順調だった。

 天候も荒れず、恐れていた船酔いにもならずにすんだ。

 これほど安定した旅は珍しいと、船員たちが話していたようだ。運が良かったのだと思う。

 船は予定通り、五日後にルメロ王国の港に辿り着いた。

 この国と、サーラの祖国であるリナン王国とは交流が盛んで、船も頻繁に行き来している。だからか、港町も活気にあふれていた。

 たくさんの人たちが、大きな荷物を持って足早に歩いている。サーラ達もここから北に向かって進み、最終的にはティダ共和国を目指す予定である。

 だが数日はこの町に留まって、様子を見ることになっていた。

 少しでも早く、遠くに逃げたい。

 そう思ってしまうが、父がどこまでサーラの行方を掴んでいるのか不明である以上、用心を怠るべきではない。

(慎重に……。落ち着かないと)

 逸る気持ちを押さえつけて、安全に旅を進めようとする彼に従った。

 ルースが選んでくれたのは、以前に泊まったよりも上等な宿屋だ。ふたりは裕福な商家の若夫婦を装っている。これくらいのところには泊まらなくては、かえって不審になってしまうのだろう。

 ただサーラはお金をまったく持っていないので、すべてを彼に頼ってしまう。それは、やはり心苦しい。それでも今は、無事に逃げることだけを考えなくてはならないとわかっている。

「いらっしゃいませ」

 にこやかにそう言った宿屋の受付の女性は、上品できちんとした制服を着ていた。彼女に案内されて、ふたりで泊まる宿屋に向かう。

 広い部屋だった。

 寝室と応接間が別々で、荷物を置くスペースもある。

「長い船旅で疲れただろう。今日はゆっくりと休んでいてくれ」

 サーラを部屋に送り届けると、ルースはそう言ってすぐに、偵察に向かってしまった。

 ひとり残されたサーラはしばらくオロオロとしていたが、まだ旅の途中だ。ここはしっかり休み、ルースの足手まといにならないようにすることが大切だと思い直す。

(今のわたしにできるのは、できるだけ足手まといにならないようにすることね)

 楽な服装に着替えて、寝台に横になる。

 まだ波に揺れているかのような、不思議な感覚が続いていたが、いつのまにか眠りに落ちていた。


 そうして、夢を見ていた。

 目の前にいるのは、婚約者だったカーティス。

 彼は学園の庭園の片隅で、エリーをその腕にしっかりと抱きしめている。甘えるように見上げる彼女を、カーティスは愛おしむように見つめ、優しくその髪に触れた。

 まるで、愛し合う恋人同士のように。

 夢の中のサーラは、首を横に振る。

(いいえ。ふたりは、誰がどう見ても恋人同士だったわ)

 もし本当にエリーが聖女だったとしても、カーティスとこのように密着する必要などない。むしろ、王太子であろうと敬意と節度を持って接しなければならない。

 聖女とは、それほどまでに崇高な存在なのだから。

 だからエリーが聖女であることが、こうして彼女と密会している理由にはならない。

 単にカーティスは婚約者であるサーラを差し置いて、ひとりの女性に夢中になっていたにすぎない。

(別にそれは、構わなかった。もともと政略結婚だもの)

 つらかったのは、カーティスに敵視されたこと。

 たとえ深い思いを抱いていない相手でも、理由もない憎しみを向けられるのは、かなり心が疲弊する。

 なぜエリーが、自分に虐げられているのだと嘘を言ったのか、今でもよくわからない。

 カーティスはエリーだけを愛していた。

 サーラなど、身分以外に取柄など何もない。

 寵愛を一身に受けていたエリーの敵にもならなかったはずだ。カーティスの婚約者だということが、それほどまでに気に入らなかったのだろうか。

(そんなに、殿下を愛していたの?)

 婚約者がいるのに、エリーに夢中になったカーティス。

 カーティスに誰よりも大切に扱われ、愛されているのに、形だけの婚約者だったサーラを許せなかったエリー。

 それがすべて、愛ゆえの行動だとしたら。

(愛とは、何と無意味で、愚かなものでしょう)

 夢の中のサーラは、そっと呟いた。

 現にカーティスは、それほど愛したエリーをあっさりと捨てている。どんな状況になろうとエリーを愛し抜くほどの気骨を見せてくれたのなら、まだ納得することができたというのに。

 でもそんなサーラの考えは、あの孤児院で働くようになってから、大きく変わった。

 失敗してばかりのサーラを許し、優しく導いてくれたキリネの愛情。さらに、亡くした妹を今でも大切に思っているルースの、兄としての深い愛情。

 両親から愛されず、兄ともほとんど会話をしたことのないサーラにとって、見返りを求めずにただ愛を注いでいるふたりの姿は、衝撃的なものだった。

 そして、気が付いたことがある。

 愛は、サーラの中にも存在していた。

 過酷な環境で必死に生きている孤児院の子どもたちを、愛しいと思った。しあわせになってほしいと、強く願っていた。

 愛を知らず、利用されるだけだった自分でも、誰かを愛することはできるのだ。

 それを知ったとき、サーラは初めて、自分の意志で生きてみたいと思った。

ルースはそれを叶えてくれた。

 彼には彼の理由がある。サーラのためだけに、動いているわけではない。

 それでも、初めてサーラの願いを叶えてくれたルースは、サーラにとって特別な人だ。

 胸に宿った小さな灯り。

 それが何なのか、まだサーラにもわからないけれど、大切にしたいと思う。

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