1話 仙人の誘い①

「新入りさんよ、少し来てみんかの?」

「は?……」

 俺、佐藤嘉彦がケチな犯罪で捕まり、豚箱ムショに入れられてからおよそ三か月が経った頃のことだ。

 声をかけてきたのは、この部屋で『仙人』と呼ばれる爺さんだ。

 仙人の名に恥じぬ飄々ひょうひょうとした雰囲気をまとった彼と接していると、ここが豚箱であることを忘れてしまう。


「来る……ってどこにさ?」

 爺さんはニコニコするばかりでそれ以上説明をしないものだから、こちらからもう一度尋ねなければならなかった。

 爺さんの微笑みはいつものことで、何か意味がありそうにも思えるし、なさそうにも思える。全てを見透かされているかのようだが、それでも良いと思えるような善良で透明な微笑みだった。

「ほれ、今日は大晦日じゃろう?みんな集まっておるのじゃよ。……刑務官の方々も今日は多少のことは大目に見てくれるでなぁ」

 相変わらず具体的な説明はほとんどなかったが、爺さんのニコニコはさらに強くなっていった。

「……酒でも出るのかい?」

 完全に冗談のつもりで言った言葉に、爺さんの表情が一瞬固まる。

 ……え?どっかからこっそり差し入れでも入っているのか!?と尋ねた俺の方が焦ってしまいそうだった。

「……残念ながら酒はない、ここはムショだ。ただ、コーヒーは一本だけ飲むことが許されておる」

 今まで見たこともない爺さんの真剣な表情だったが、その割に語られた内容はショボかった。

 俺はコーヒーが別に好きでもないし、爺さんの言葉から察するに恐らくは缶コーヒーだ。どうせ箱で買ってきた怪しいメーカーの、一本あたり20円もしない、体内に取り入れることがプラスになるのかマイナスになるのか微妙な代物だろう。

 だがそんな缶コーヒーですら、ここに来てからは一度も口にしていなかった。

 なぜか俺の口は缶コーヒーの味を思い出していた。それが特に美味いものだとは思わなかったが、もうそれを実際に味わわなければいけないような気持になってしまっていた。

 それに……爺さんには世話になっていた。

「新入りには闇で過酷ないじめが待っている!」という話は嫌になるほど聞いていたし、実際たまに食堂で見かける同時期に入った新入りの顔はいつ見ても死にそうだ。恐らくは噂通りの過酷な歓迎を受けているのだろう。どんなに禁じようとしたって根絶することが不可能な悪というものは存在する。無理矢理にそれを消そうとすると今度はさらに大きな別の歪みが生じてきてしまうようなたぐいのものだ。

 それに比べて、ウチの部屋では一切そうしたものがない。暴力もないし、不当な嫌がらせを受けたことも一度もない。そうなっているのはすべて爺さんおかげだ……と少し経ってから同部屋の他のヤツに聞かされた。爺さんの人徳によってウチの部屋は平和が保たれているのだそうだ。


「……分かったよ、爺さん。行ってみるよ」

 俺はため息まじりにそう答えていた。

 別に安い缶コーヒーが飲みたいわけではないし、新たな人間と接するのは気が重いし、何より自由時間があるなら寝ていたかったが、爺さんのニコニコ顔には逆らえなかった。

「おお、そうか。それでは行ってみるかの」

 ニコニコ顔の爺さんの目がさらに細くなった。



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