第41話 虚無


「Grube gosh chalter rabutes」


 呪いを纏う炎の花々は、リゼルダットを取り囲むように仄かに開いていった。仄かな煌めきを無に帰される前に、私は呪いを吐き捨てる。


「Rabutind!」

「Qued」


 満開の炎の蒼薔薇たちは、火の粉を散らせて弾けた。四大の量が桁違いだったためだろう。爆風は思ったよりも大きく、虚無のオブジェクトを砕いた。炎を纏う瓦礫は、リゼルダットの立つ炎の海へ落ちる。

 ――ことなく、消えた。

 私が呪いを吐いたと同時に聞こえてきた別の呪いが、彼女を守ったのだろう。彼女には真新しい傷は見当たらない。黒の波動が炎を薙ぎ、瓦礫を四大に砕く。白いドレスと黒檀の髪が、妖艶に揺らめいて歩みを始める。

 コルニが言っていた通り、リゼルダットには弱点がある。それは、彼女自身が虚無ではないということだ。

 エインはその存在がキルヒェと同等だ。彼自身が虚無に等しい。だが、リゼルダットは違う。人間なのだ。呪いを吐かなければ虚無には帰せない。だから、彼女はオルド大火塔でこういったのだ。

 ――痛いのは嫌いなんですもの。

 虚無が触れさえしなければ、彼女を殺すことはできる。オルド大火塔の火が如くに。

 私がリゼルダットの気を引き、エインが彼女ごと虚無に飲み込ませる。作戦は作戦と呼べるかも怪しいほどに、単純明快なものだ。故に、問題が浮上している。


「――Crive」


 リゼルダットが呪いを吐いた途端、彼女を始点に、濁った小さな水泡のようなものが現れた。流線を描くように広がっていく――まるで私の蒼薔薇のようなそれ。

 呪いを吐こうと構えた私よりも早く、水泡は順に拡大して爆ぜていった。周りを巻き込んで消える水泡は、私にまで迫りくる。


「っぶねぇ!」


 不意に飛び出した黒炎は、優しく水泡を包み込んだ。虚無を虚無へと帰したエインは大きく舌を打つ。


「これじゃ気を引くどころじゃねぇよ!」

「Zicaltan」


 また別の呪いに、私たちは駆け出す。振り返ると、影のような者が私たちを追ってきている。それを振り払いながら、エインはまた舌を打つ。

 空蝉。泡沫。這う者。リゼルダットの呪いは抽象的だが洗練されており、虚無をうまく扱っている。速さ、技術力、語彙。その何もかもで彼女に劣っているのは明らかだった。

 影は床を滑る。影のひとつが瓦礫の真下まで来ると、影は実体となって周辺を呑み込んで消えた。……その場から炎と瓦礫が失せる。

 ――私は虚無の隙間を駆けた。


「なにしてんだよ!」

「 En acarta estlaz floomer,fandel wiard Eldred'a floomer ime」


 呪いは炎を宿し、ファルシオンをかたどって手に納まる。エインの制止を振り切って駆け抜ける。切っ先が捉えるはリゼルダットただひとり。微笑に少しの驚愕を潜ませた彼女へ振り上げる。

 金属がこすれ合うような音が響き、蒼と黒の煌めきが飛んだ。


「やはりな……リゼルダット」

「なにを言っているのかしら……っ?」


 虚無の黒刀を振り払ったリゼルダットに、私はファルシオンを構えた。


「貴様の虚無は強すぎたということだっ!」


 開いた距離を即座に詰め、斬撃を繰り出す。虚無と炎が擦れあう。飛び散った火の粉は私の肌を、そしてリゼルダットを焼いていった。


「あら……どうもありがとう……っ」


 軽口を叩いているが、その顔には余裕はない。私からの斬撃に、呪いを凌ぐので手一杯であるようだ。彼女が次の呪いを紡ぎだす様子はなかった。それもそうだろう。余裕がないのではない。できないのだ。

 最初の呪い。繰り出される呪いの数々。

 どれも共通していたのは、対象と、その周囲に呪いが及んでいる、という点だった。

 リゼルダットは虚無の神として、最強だった。最強すぎたのだ。だから、私の目の前で虚無を放つような真似はしない。自分が巻き込まれるのを防ぐために。


「E lycoris del crew,demus e ladia doran」


 吐き捨てた呪いは地に咲き誇る彼岸花となり、リゼルダットの足元を彩った。炎の花弁はリゼルダットを焦がす。その間も彼女が離れる隙は与えない。交わす剣。飛び散る火の粉と黒結晶。

 リゼルダットから鈍い声が漏れ、彼女は大きくのけぞった。

 今しかない。私は剣を構え、リゼルダットの背後に立つエインに目配せする。


「眠れ、リゼルダット」


 蒼と黒の烈火がリゼルダットを包まんとする――その時だった。


「――Entwain」


 歌うような、軽やかな呪いだった。

 ――私とエインの体を貫いたのは。

 衝撃に視界が一瞬真っ暗になり、激痛に世界が輝いた。真っ白な世界。目を凝らすと、やがて映ったのは、大小さまざまな黒い結晶柱群。そして、腹を黒の結晶柱に貫かれているエインの姿だった。ぬらぬらと赤い光沢が零れる口元は、空気を求めるように喘いでいる。

 私もまた、然りだ。

 脇腹と肩。結晶柱に貫かれた私は、引っかかるように宙に制止していた。身動き一つとることができない。足元に転がったファルシオンは、黒い影に飲み込まれていく。

 不意に、顎を白い指が撫でた。無理矢理に上げられた顔。正面で妖しく微笑むのは、リゼルダットだ。


「ねぇ、もう一度言ってくれるかしら? 私のこと、強いって」


 私は目を逸らした。それが返事だった。

 リゼルダットは強かった。動きさえ止めてしまえば、それでいい。だから、彼女は爆発的な虚無を捨てた。殺すためではない。狩るための道具に持ち替えたのだ。

 リゼルダットは不服げに鼻を鳴らした。私の顎に爪を立てると、覗き込むように首を傾けて微笑う。


「知ってる? ラフェールはね、片腕がなかったの。だから私を抱きしめられなかった……」


 そうして視線をふらふらさせると、彼女はある一点で止まった。

 私の右腕だ。


「……おい、やめ――」

「これは邪魔ね」


 リゼルダットの天使のような微笑を残して、視界は真っ白に染まった。自分の悲鳴が遠くに聞こえる。右腕が焼けるように疼いた、否、そこに右腕はない。うっすらと色を取り戻した世界に転がったのは、結晶に貫かれた私の右腕だ。やがて、結晶は力を失ったかのように世界に溶けていく。

 先程まで収まっていたはずの腕が、地面でぴくりと跳ねた。


「クソったれが……っ」


 その真っ赤な唇に人差し指を添えてうっとりと目を細めるリゼルダットを睨む。くらくらして滲んだ視界では、彼女の赤と黒は吐き気がするほど綺麗だった。

 彼女はあぁ、と私の瞳をなぞる。


「涙なんて流さないで……私は貴方の笑顔が見たいのよ……」


 そうして彼女は私の顔を両手で包み込むと、力強く抱きしめた。もう離さない、逃がさないとでも言うかのように。

 貴方が示す意味に、もう私は含まれていないのだろう。


「イかれてやがる……!」


 がたりと体が沈む。私を貫く虚無の楔も溶けようとしているのだろう。そうすれば、今度こそ私も終わりだ。逃げる気力などない。おとなしくラフェールの依り代となるだけ。


「……クソったれが」


 最後にもう一度小さく呟いて、私はリゼルダットの肩を借りる。

 ふと、視線を感じた。

 目線を上げると、そこにはエイン。黒炎を揺らめかせながら、前傾姿勢に立っていた。

 その腹を貫く柱は、今にも消えかかっている――。

 私はエインの紅の瞳を見つめ、瞬いた。


「リゼルダット……最後に、いいか?」


 私の問いに首を傾げたリゼルダットを、私は左腕で抱きしめた。一瞬強張る彼女をいたわるように髪をかき混ぜると、彼女から困惑と緊張がほどけてゆく。もう離さないと訴えるかのように、瞳を閉じたリゼルダットを私はもう一度固く抱きしめた。

 リゼルダットの肩に顎を乗せて、荒い息を押さえながら私は囁く。


「この姿でも、僕を愛してくれるのかい?」


 私は目を閉じた。リゼルダットの恍惚めいたため息と、エインの視線を感じる。

 もう恐れるものはないさ。

 その言葉は、声に出さずとも伝わったのだろう。

 エインの真っ赤な、託すような瞳に私は――。


「えぇ、もちろんよ……!」


 夢に溺れたようなリゼルダットに、私は咳が零れた。流れた赤は、リゼルダットの肩を濡らす。とめどなく。ドレスを真っ赤に染める。


「貴方だってそうでしょう、ラフェール……ラフェール……?」


 リゼルダットが異変に気付いたらしい。だが、時はすでに遅すぎた。

 私から逃れようと身をよじるリゼルダット。だが、私は許さない。

 ――終わりにするのだ、リゼルダット。

 私は彼女が虚無を唱える前に、呪いを込めた。

 血みどろの舌で紡がれる、明確なる一単語。その意味は。


「――燃えろ(Tyute)」

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