第28話 意思


「……っ!」


 脇腹を襲った刺すような冷たさに、私は目を覚ました。あまりの痛みにのけぞりかけた。が、それは太く硬い腕に押しとどめられる。

 まだ朧げな視界の中では、黒鋼の中に赤だけが瞬いていた。


「もう少しだ。もう少し、我慢してくれ」


 柔らかな声音と細められた赤に、体から自然と力が抜けた。ほうっと大きく息をつき、目を閉じて黒鋼に身を委ねる。

 一体、どうしたというのだろう。

 貫くような痛みに下唇を噛み、私は脇腹に意識を差し向ける。

 治らない。それどころか、心なしか悪化しているような気さえする。血反吐を吐くなど、いつ以来のことだろうか――あぁ、初めて神の血を呑んだ時のことだ。思い返せば、いつだってそうだった。何もかも、始まりは全て、エルヴァーリオだった。


「……クソったれが」


 口をついて出た言葉は、本心からの恨み節だった。呪いは呪いでも、いつもとは違う、力なき呪いだ。空虚な、ただ空に消えてゆくばかりの、意味もない繰り言。

 薬の影響だろうか。さっと引いた痛みの代わりにやってくる、清涼感と眠気。鞄を漁りながら、エインは軽く笑った。


「エルもそんなこと、言うんだな」


 首をかしげると、彼は包帯を広げた。


「やっぱり、一応エルは王族だからさ。俺とは違うわけじゃん? だから意外だなって。エルも俺みたいなこと、言うときあるんだって思ってさ」

「なにを言うかと思えば……そんなことか」


 包帯を巻いていくエインに、私はふっと笑った。


「……確かに、城にいた頃は心がけていたさ。だが、今となっては、私には王位も、権威も、なにひとつ残っていないのだ。今や私はただの人間――いや、恐るるべきバケモノ、の方が近いか。そこに礼儀作法など、もう求められてなどいないさ」


 私はもう、人でなくなった。獣か、悪魔か、バケモノか。なんであれ、行儀を求められるようなものではない。なんの責任も枷も負っていない私に、制限など必要ない。

 包帯を巻く彼の腕がとまった。痛みも治まったので、半身を起こし、彼に目をやる。


「エルは……もう、諦めてんだな」


 その、仄暗く沈んだ瞳よ。

 伏し目はこちらを見ようとはしない。緩んだ口元に湛えられたのは、自虐の笑みか、私への侮蔑か。月光の仄白い光を受けた横顔は、いつにもまして苦しげに見えた。

 私は月を見上げた。青白い輝きに、私は反芻した。


「それは諦観というより、納得と呼ぶべきだろうな」


 隣国侵略。流された血。流される血。沸き立つ四大に、地を焦がす青い炎――。

 私を見る目は、いつだって真実を教えてくれた。あまりにも明確すぎる事実に、理解せざるを得なかった。

 私は、人ではない。


「この力は、人を名乗るには強大すぎた。人を殺めすぎた。どうあがいても事実は変わらぬ。私はそれを、受け入れたというだけのことだ」


 神の血を呷った私は、もう人間には戻れない。だから私は、納得した。神ではなく、悪魔として復讐を果たせばよいではないか。力を得たのに、使わずしてどうする。人でなくなった私に、人情など不必要なだけだ。民が私をバケモノに仕立て上げたなら、本当にバケモノになればよいではないか、と。

 あの頃を思い返し、私は吹きだした。そうだ、あの頃から清々しかった。清々しいまでに、屑だった。だからこうも簡単に力を受け入れることができたのだ。復讐鬼となり果てることができたのだ。

 ――だが。


「それでも俺は……人で、いたいよ」


 彼は、違う。

 絞り出されたような声は、私の胸に細い針のようなものを刺し残していった。エインを見ることもできず、私は月を見上げる。


「……俺は、人間だったんだよ……っ!」


 絞り出すような濡れた声に、私は思う。彼はきっと皆が言うほどにはバケモノではないのだ。その見た目が示すほど、嗜虐的ではないのだ。少なくとも、簡単にこの力に納得した私と比べては。

 私はあえてエインの顔は見なかった。


「……諦観も納得も執着も、どれも選択のひとつだろうよ」


 一言だけ告げて、私は巻かれじまいの包帯を手に取った。エインは、なにも答えなかった。

 彼の中ににあったはずの事実が揺らいでいる。自分の為そうとしていることが誠か、あるいは自分の存在が。

 あの賊になにを吹き込まれたのかは分からない。だが、あえて問うべきことでもなかろう。

 エインは人間であった。神の呪いを受けた。

 それが真実であると信じたいのは、彼だけではない。


「……ごめん。その……エルに、無茶ばっかさせて」


 唐突に口を開いたかと思うと、彼が口にしたのはそんな言葉だった。


「俺、自分のことばっか焦ってて、エルのことなんて、なんも考えてなくて……本当に、ごめん」


 その、伏せられたひどく申し訳なさそうな顔は、見ていて痛々しかった。自分を責めるその姿勢は、私の傷を焼いていった、

 本当に辛いのは、痛くて苦しんでいるのは、私ではない。本当に路頭に迷い、なにが真実かも分からず不安なのは、彼の方なのだ。

 だから、私は笑みを作った。少しでもエインを安心させたかった。気を病むな、と彼の背を軽く叩く。


「なに、傷が開いただけのことよ。貴公が責む必要はない」

「でも……」

「貴公は、」


 私はそこで一旦言葉を切った。エインと視線が交わる。

 その目の奥に、私は一片の美しい煌めきを見た。

 自然と零れた笑みのままで、私は彼に柔らかに告げた。


「貴公は、たとえ容姿がどうであろうと、人間だ。なにを急ぐ必要がある。なにを迷う必要がある。貴公は人間に他ならない。たとえなにが偽りであろうと、それだけは変わらぬ事だろう?」


 たとえ全世界の者がエインを指差し、バケモノだと揶揄しても。

 私だけは、彼こそが真の人間であると知っている。その一途さ。その人を想う気持ち。その人間であることへの固執。その目に瞬く、生の輝き。

 どれも、人でなくなった私には無いものだろう。


「……そっか」


 エインはふっと微笑った。


「ありがとな、エル。俺、ちょっと自信なかったんだ。もしかしたら……ってさ。でも、おかげで吹っ切れたわ。くよくよしたって変わんねぇ、あの塔に行けば、全て分かんだからさ」


 そう言って大火塔を望んだ彼の横顔は、いつものように自信で満ち満ちていた。そこに狂気なんて存在していない。迷いも不安も、全て消え去ったかのように清々しい。それを見て、ひどく切なくなるのはなぜなのか。


「どうした?」

「いや……なんでもない」


 取り繕うような笑みを返す。だが、うまく笑えているかはわからない。

 エインは首をかしげつつも、深く訊いてくることはなかった。少し眉根を寄せて、そうかと低く答えただけだった。


「……それより、さ。お前の方はどうだったんだよ。ラフェールって野郎について、なにかわかったのか?」

「あぁ、それは……だな、」


 言葉を飲み込み、まっすぐな瞳を向けるエインから目を逸らす。

 蘇るのは、あの男の言葉だ。

 ――黒炎の彼は、虚無より出でたのです!

 彼は、その心は、魂は、紛うことなく人間であるのだ。エインという一人の青年のものなのだ。だが、彼の姿は人ではない。――恐らくは、もとの姿というものも正しい表現ではないのだ。この黒鋼の姿こそ、今の彼にとっての、本来の姿なのだから。

 私は、伝えなければならない。彼に、真実を。その目に映しがたい、残酷な真実を。


「なんか……あったのか?」


 視線を戻すと、エインはひどく暗い顔をしていた。凹凸の著しい顔のせいで、陰影がはっきりと映る。

 胸が、とくんと鳴った。

 私は首を振り、小さく笑った。


「少し、エルヴァーリオのことを思い出しただけだ。

 ――そう、シルクハットの胡散臭い男が言っていることは、本当だろう」


 オルド大火塔、その最深部に眠る、呪いを解く鍵。

 エインはぱっと顔を上げた。彼の顔に光が差したように見えたのは、炎のせいだけではあるまい。彼はいっぱいに笑みを湛えると大きく頷き、篝火に枯れ枝を放り投げた。


「じゃ、今日はもう寝ようぜ。火の番は俺がしとくからさ」

「なら、頼む」


 私は立ち上がった。エインはより自分に自信が持てたみたいだ。やはり、彼に辛気臭い顔は似合わない。どんと構えていてくれる方が、私も安心して背中を任せられるというものだ。なんて考えを起こした自分を笑いながら荷台に向かおうとしたとき、エインが呼び止めた。


「なぁ、エル」


 振り返ると、目元を垂らしたエインの姿があった。黒鋼の顔に気遣いや自虐の色が滲んでいるような気がする。

「……今日は無理させてごめんな。じっくり休んでくれよ、頼むから、な?」

 そのぬくもりに、私は笑みを形作った。


「……お言葉に甘えよう」


 そして、エインの次の言葉を待たず、荷台に乗り込んだ。

 木戸を閉め、寝転がって空を仰ぐ。


「なにをしているのだ……っ!」


 誰にも聞かれないほどの小さな呟きは、個室の静寂に重々しく響き渡った。髪をくしゃくしゃと掻き乱す。掻き乱されたのは、髪だけではない。

 エインは、胡散臭い男の容姿については私に告げてはいない。

 ……あの返答は、シルクハットに燕尾服の男が、エインの言う男であるという事実の裏付けに他ならない。

 そして彼は、騙されたとも知らずに、訪れると信じてやまない未来に目を輝かせる――。


「駄目だ……っ!」


 苦心の声が漏れる。そうして私は闇の中、一人うずくまった。

 絶望の日々に差し込んだ一筋の光。憎悪の雲を払う、その先に見えた輝かしい未来。そこに向かおうと、エインは羽を広げる。決して出会えることのない、虚偽の楽園だとも知らず。

 ありもしない世界に依存し、躍起になり、翼をはためかせる。そんな彼から、翼を毟り取るような真似――。


「……できない」


 かつての私なら、そうではなかっただろう。だが、今の私にはできない。真実を知ったら、彼はどうなる? オルド大火塔に眠る鍵に縋ってきた彼が、無意味なことだと知ったら? ――嫌だ。私は震える体を抱きしめた。見たくない。彼の顔に溢れる希望が、絶望に変わる瞬間など。


「どうすれば良いのだ……っ!!」


 私が伝えずとも伝えようとも、真実はいずれ彼の前に現れる。それがどういった結末を与えようとも、気にすることなく真実はやってくる。

 伝えるべきか。真実がその姿を現すまで、知らぬを貫き通すか。


「私は――」


 木戸の隙間から、一筋の月明かりが伸びていた。私はそれを掴もうとして、手を引っ込めてしまった。眩しい。その冷たい眩さから逃れるように、背を向けて腰を丸めた。

 ヒビだらけの体には、黒炎の蝕むような痛みがじりじりと復活し始めていた。

 私はひとり――いや、おそらく彼もだが、眠れぬ夜を痛みと過ごした。

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