第23話

 その夜、全ての宿の仕事が終わると、メロディは自室には戻らずに中庭に出た。

 今はもう自室の窓を開けても、ポーケントッターと話すことは出来ない。

 彼と語るには、宿の中庭に出る必要があった。

 たったそれだけのことなのに、メロディはポーケントッターとの間に少しだけ距離が出来てしまったように思え、寂しかった。

 最初はあんなに鬱陶しく思えていたのに……。


 中天には蒼い月が煌々と輝いており、鉄巨人の姿を白く浮かび上がらせている。


「起きていますか、ポーケントッターさん」


「ハイ、起キテイマス。メロディサン」


 少女は巨人を見上げ、巨人は少女を見下ろした。


「こんばんは、ポーケントッターさん」


「コンバンハ、メロディサン」


 夜の10時を過ぎ、潮騒の音がポートホープの人々を安らかな眠りの世界に誘う時間。

 宿の若女将と長逗留する鉄の巨人は、静かに話をする。


「……ティアハ、ドウシテイマスカ? チャント寝テイマスカ?」


「ええ、ちゃんと寝ています――話していないのですか?」


「ドアヲノックシテモ、出テ来テクレナイノデス……」


「きっと……あなたと話をするのが怖いのでしょう。あなたがまた自分を置いて戦争に行ってしまうのではないかと……そのことをあなたの口から聞かされるのではないかと、怯えているのです」


 メロディは、ティアの小さな胸の内を慮って、心を痛めた。

 そして同時に、その痛みはティアだけでなく、自分自身のためにも感じていることが分かった。

 そう、メロディ自身もポーケントッターが戦場に出ることを怖れていた。

 ポーケントッターが自分の側を離れて危険な戦場に出ることを、メロディ自身も怖れていた。


「戦争には……行きませんよね?」


「エエ、行キマセン。アンナ怖ロシイ思ヲスルノハ、モウ懲リ懲リデス」


「よかった……それを聞いたら、ティアも安心するでしょう」


 メロディは微笑んだ。

 ポーケントッターの言葉に、何よりも自分が安心している。

 しかし、すぐにポーケントッターが沈黙していることに気づき、その顔色は曇った。


「……もしかして、悩んでいるのですか?」


「……侯爵夫人トハ、三年間ニワタリ苦楽ヲ共ニシ、生死ヲ分カチ合イマシタ。アノ方ガマダ13ノ子供ダッタ頃カラデス。ソノ方ガ、ワタシノ力ヲ必要トシテイルノデス……悩マナイト言ッタラ嘘ニナリマス」


 ポーケントッターは苦しげに言った。


「……ポーケントッターさん」


 メロディは、ポーケントッターが自分が考えていたよりもずっと深く悩んでいたことを知り、ショックを受けた。

 何よりも、誰よりも、愛娘であるティアのことを第一に考えるポーケントッターなら、一も二もなく、侯爵夫人のあんな無茶苦茶な申し出は断ると思っていたのだ。


 それなのに……。


「デスガ、ワタシトッテハ誰ヨリモ娘ガ……ティアガ大事デス。例エ侯爵夫人ニ失望サレ、軽蔑サレヨウトモ、ワタシハアノ娘ノ側ヲ離レタリハシマセン」


 悩ミ、心苦シクモアルガ、答エハ変ワリマセン――と、ポーケントッター。


「その言葉……ティアに言ってあげて下さい」


「エエ、明日学校カラ帰ッテキタラ、チャント話スツモリデス」


 しかし、ポーケントッターの明確な意思を聞いた後もなお、メロディの心をかき乱す不安が消えることはなかった。


◆◇◆


 蒼い月が輝く夜、眠れなかったのはメロディだけではなかった。


 ティアリンクは、メロディが中庭でポーケントッターと話している間に部屋を抜け出し、三階の客室に下りていった。

 この宿で一番上等な部屋の前にくると、ドアを叩く。

 こんな時間に客を起こすなんて、メロディやポーケントッターに知れたら叱られるだろう。


 ……コンコン、……コンコン、


「……誰だ?」


 小さいノックだったが、客室からはすぐに返事がした。

 中の客も、まだ眠ってはいなかったらしい。


「ティアリンクです。お話があります」


 鍵の開く音がして、ドアが内側に開いた。


「入るがいい」


 身体の透けて見える薄いワンピースの寝間着に身を包んだスカーレット・クロスフォードが顔を出し、ティアを招き入れた。


「……失礼します」


「お前も眠れないのか、ティアリンク」


「……」


「わたしもだ。こんな月が蒼い日は、どうも寝付かれない」


 見ると窓の鎧戸もカーテンも開け放たれ、月の光が眩しいほどに室内を照らしている。


「燭台を灯すのはやめて、お前もこの月の光を楽しむがいい」


 月光はネグリジェの下のスカーレットの肢体を浮かび上がらせ、ティアの目には、ほとんど全裸でいるように見えた。


「レディ……バーミリアル」


「スカーレットだ」


「……え?」


「パルキアの駐屯地で初めて会ったとき、そう呼んで良いと言っただろう。忘れたのか」


 それはまだ、ティアが今よりもさらに幼かったときのことだろう。

 ティアは覚えていなかった。

 だが、今はそんな昔話を語りにきたわけではない。

 ティアは意を決して言葉を発した。


「スカーレット、あなたはどうして、いつもティアのパパを連れて行ってしまうのですか? お願いします、ティアのパパを戦争には連れて行かないで下さい! ティアからパパを取らないで下さい!」


「……ティアリンク」


「ティア……ティア、あなたが嫌いよ。大っ嫌い。あなたなんか、早くパルキアに帰ってしまえばいいのに」


 最初は冷静で丁寧だったティアの口調が、すぐに感情の籠もった年相応の調子になった。


 蒼い月光が、幼い少女の瞳に浮かぶ大粒の涙を煌めかせる。

 スカーレットはティアのその涙を見て、口元を引き結んだ。

 そして思った。

 なんと、なんと幸せな娘だろう――と。

 自分はかつて一度でも、このように誰かに向かって生の感情をぶつけたことがあっただろうか?


「お願い、スカーレット……パルキアにはあなた一人で帰って……ティアのパパは連れて行かないで……」


 ティアは自分より遙かに身分の高い大貴族の少女に向かって哀願した。

 しかしティアのその哀訴も、バーミリアルの領主であり、北方軍総司令官の重責にあるスカーレットには通じなかった。


「……すまぬ、それは出来ぬ」


「ど、どうして……」


「バーミリアルには、ゴドワナには、ポーケントッターの力が必要だからだ。国あっての民。お前の父は、その国を守る力がある。個人の意思に係わらず、力ある者は戦わなければならぬのだ。それが力ある者の責務であり、宿命だ」


 スカーレットの言葉は冷厳だった。


「お前にも、いずれ分かるときがくる……人は、生まれ持った運命には逆らえぬのだ」


 ティアはぐっと押し黙った。

 それは、ティアがこの町に、このポートホープに、この『春の微風亭』に来るまで、思っていたことであった。

 しかし、メロディに出会い、サンディスに出会い、マートに出会い、クレアに出会い、そして何より父であるポーケントッターと再会し、その考えは変わった。


 運命には逆らえる。


 運命は変えられる。


 人は、人は幸せに――。


「違うわ……」


「ティアリンク……」


「違うわ! 運命には逆らえるわ! だって、だってティア知ってるもん! 運命には逆らえるって、運命は変えられるって、人は――人は幸せになれるって! あなたなんか大っ嫌い!」


 叩きつけるように叫ぶと、ティアは泣きじゃくりながら客室を駆け出ていった。


「……」


◆◇◆


 教室に、終業を知らせる鐘楼の鐘の音が響いた。


「はい、それでは今日の授業はこれで終わりです。また明日」


 教師がそう言うや否や、教室の中がはしゃぐ学童たちで一気に騒がしくなる。


「ティアちゃん、帰りましょ」


 隣席のクレアが鞄に荷物を詰め込むと、ティアに声を掛けた。


「……」


「ティアちゃん?」


「……え?」


「授業、終わったよ。帰りましょ」


 クレアは心配した。

 自分に言われるまで、ティアは授業が終わったことに気づかなかったようだ。

 ティアは、今日一日ずっとこんな調子だった。

 きっと、昨日『春の微風亭』に現れた、あの赤毛の怖い貴族のせいだと思った。


「う、うん」


 クレアに言われて、ティアも自分の荷物を鞄に入れた。


「ティアちゃん、今日クレアのお家に寄って遊んでいかない?」


 校舎を出たとき、クレアは元気のないティアを誘ってみた。

 数ヶ月前の聖火祭で半焼した木造校舎は、すでに修復を終えて元の姿を取り戻している。


「ごめんね、今日は早く帰って、パパとお話しなくちゃならないの」


 ティアは今朝学校に来る前に、ポーケントッターから、大切な話があるから早く帰ってくるようにと言われていた。


「そうなの……」


「……ごめんね」


「ううん、いいの……」


 そのまま二人は黙って、丘を下っていった。

 クレアは悩んだ。

 ポーケントッターのことをティアに聞いて良いものかどうか、考えた。

 でもクレアは、敢えてティアにそのことを聞いてみることにした。

 自分がティアなら、話を聞いて欲しいと思ったからだ。


「ねぇ……ティアちゃんのパパ、また戦争に行くの?」


「……ティアのパパ――」


 クレアの問いに、ティアが少しの間を置いて、答えかけたときだった。

 突然、複数の馬の嘶きが聞こえ、二頭立ての箱馬車が突っ込んできた。

 そして、二人の前で急停車すると側面のドアが開き、蛇ように伸びた手がティアの身体を掴んで馬車の中に引き込んだ。


「――きゃあっ!?」


「テ、ティアちゃん!」


「この手紙をポーケントッターに渡せ。必ずだ」


 馬車の中でティアを羽交い締めにした仮面の男が、クレアの足元に赤い蝋で封をした手紙を放った。


「い、いや、助けて、クレアちゃん! ――パパ! メロディ!」


 ティアの悲鳴が、バタンと閉じたドアに遮られてくぐもる。


 その時にはすでに馬車は急発進し、後には震えて立ち尽くすクレアが残されただけだった。


「あ、ああ……」


 ティアちゃんが……ティアちゃんが……。


 その直後、クレアの中にこれまでに生まれたことのなかった、熱い気持ちが灯った。


 ――キッ! と表情を引き締めると、足元に落ちていた手紙を拾い上げて走り出す。



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