4 後輩は俺を前から後ろから攻めてぐちゃぐちゃにする妄想をしているらしい

 足をくじいた日、結局俺は足を引きずりながら自転車を押して、何キロか歩いて家に帰った。次の日頑張って病院にいったので、学校についたのは昼を過ぎてからだった。クラスのやつらは弁当なんぞぱくついていて、俺は足を引きずりつつ自分の席についた。


 午後の授業ふたつをやっつけ部活に向かう。美沙緒さんは真面目な顔で、入門書を眺めて首をひねっていた。あんまり難しいことを訊かれても答えられないのだが、ここは先輩として、

「なにか分からないことでもあった?」

 と訊ねてみる。美沙緒さんは、

「意味が分かれば簡単なんですけど、なかなか考えながら読まなきゃいけなくて――あの、定跡ってあるじゃないですか。定跡って、場合によってその手順通りに進行できないですよね」

 と、首をかしげている。俺は淡々と説明する。


「そうだね。相手が攻めの手を指してきたらこっちも攻めるべきだし、守りの手を指してきたらこっちも守らなきゃならない」


「じゃあ、本に書いてある定跡、できないじゃないですか」


「あー、有名な川柳があるよ。『定跡を 覚えたはずが 弱くなり』ってやつ。定跡って、ぜんぶそのまま指すんじゃなくて、参考にして活かすことを考えたほうがいいんだと思う」


「ふむ。それじゃあわたしにはまだ早いですね。それから……先輩は、いわゆる将棋ガチ勢なんですか?」


 いきなり謎なことを聞かれた。俺は、

「いや、なにをもってガチ勢っていうのか知らないけど、たぶん違うと思う。アマ初段取れたら満足しちゃうんじゃないかな。たぶんまだまだずーっと先なんだけど。エンジョイ勢だよ」


 そう答えながら、棚から盤と駒を出してくる。


「そうなんですか……あの、つまんない話なんですけど、聞いてもらっていいですか?」


「いいよ。どうしたの?」


「わたし、『人生エンジョイ勢』なんだと思うんですよね」


「人生エンジョイ勢?」また謎な言葉が出てきた。言葉の先を促すと、美沙緒さんは恥ずかしそうな顔で、

「わたし、弟がいるんですけど、弟は周りからすごく期待されてる秀才で、きっといい高校に入って、それできっといい大学に入って、家業を継いで、お嫁さんをもらって、子供をもうけて、幸せな一生を送ると思うんですよ。わたし、これを『人生ガチ勢』だと思うんです」

 と、そう言ってさらにつづけた。


「それで、わたしみたいにだれからも期待されなくて、適当に就職して食べていくけど、やりたいことをやりたいだけやれて、その代わり家族を得るとかそういうガチ勢にとって当たり前の幸せ、たとえば結婚とか子供とかを諦めることを、『人生エンジョイ勢』って言うんだと思うんですよ」


 人生エンジョイ勢、思ったより随分暗い内容だ。言葉のノリからもっと楽しいもんだとばかり思っていた。美沙緒さんは長い睫毛を伏せて、

「だから、結婚とか子供とか、自分には無理だと思うんですよ。そんな責任を問われることができるわけがない。一人で楽しく面白く生きていく。そう思ってて」

 と、小さな声で言う。


「そ、そんなことなんでいま決めちゃうんだい? 今焦って決めることじゃないじゃないか。生きてたらどんな出会いがあるか分からないよ?」


「たとえば、先輩みたいな……?」


 美沙緒さんの瞳がうるんでいる。熱っぽい視線で俺を見ていて、

「ああ、でも……左手薬指に先輩とおそろいの指輪をして、先輩に……いや旦那様に『あなた、赤ちゃんできたの』って言う気分は体験してみたいですね……」

 とあらぬことを言いだした。俺は飲んでいたコーヒー牛乳を噴きそうになった。


「ま、まあ、それはいいから指そうよ。ね?」


「はぁい」美沙緒さんはすっかり慣れた手つきで、盤に駒を並べ始めた。明らかに上達が早い。俺なんか一年生の夏くらいまで、上手に掴むことが出来なかったのに。


 美沙緒さんは、「わたしにはまだ早い」と言った割には、うまいこと定跡の形を理解していて、こちらの手に応じつつ矢倉を器用に組んできた。端的に言ってとても成長著しい。


 対する俺はよく分からない、うまい人にみせたら「新手だな」と言われるようなヘンテコな囲いになってしまい、もたもたしているうちに負けてしまった。


「美沙緒さんは筋がいいね」と褒める。美沙緒さんは照れたような顔をして、

「先輩が、定跡は応用するものだって教えてくれたから……」と恥ずかしそうに笑った。可愛い。美沙緒さんはとにかく可愛いのである、ドスケベな中身を除いては。


 俺と美沙緒さんのレベルでは感想戦など望むべくもないので、盤に駒を並べ直す。先輩として次は勝ちたい。


「はあ……」美沙緒さんはため息をついた。


「どうしたの?」いやな予感を覚えつつ美沙緒さんを見る。


「ごめんなさい。また先輩を性的な目で見てました。メスイキしたら可愛いんだろうなーって」


 わりとマジでコーヒー牛乳で噎せた。メスイキって高校一年生の女の子の語彙にあっていいんだろうか。変態さんにも程ってもんがあるぞ。


「メスイキ……って意味分かって使ってる?」


「もちろん。ドライオーガズムというやつですよね。絶大な快感をもたらすという。先輩がそれでぐっちゃぐっちゃのとろんとろんになってるの想像するだけでご飯三杯いけます」


 なにをオカズにご飯食べてるの美沙緒さん……。あっ、ご飯というのは比喩か。リアルにオカズにしているということか。え、女の子もそういうことするの。いや、白河先生が女にも性欲はあるって言ってたからその可能性はなきにしもあらずだ。


 ドンヨリする。


「あっ、ご、ごめんなさい。変なこと言っちゃいました」


「いや……気にすることじゃないさ。さて、もう一番指そうか。振り駒しよう」


 そう言い、振り駒をしようとしたところで、いささか建付けのよくない将棋部の部室のドアが開いた。


「おーす。やってるかぁ」

 顧問の日下部先生である。いっけん体育教師に見えるが、理科、主に生物の先生だ。


「あ、ども、お疲れ様です」頭を下げる。美沙緒さんも小さく頭を下げた。


「新入部員の春野美沙緒、可愛いって聞いてたけどマジだったかー。いやー木暮に春野はもったいないなー」


 この日下部先生という人は、授業も丁寧だし真面目で優しい、素晴らしい先生なのだが、人間の見た目や恋愛についての感覚が昭和から平成初期で止まっていて、安直に可愛い顔を褒めたりそうでない顔をけなしたりする。なので一部の意識高い系の生徒からは「シーラカンス」というあだ名をつけられている。もちろん本人はそんなこと全く知らない。


「あの、先生。そういう……見た目をどうこうっていうの、言わないほうがいいです」

 と、美沙緒さん。


「なんでだ? 俺に褒められるの、いやだったか?」


「そういうことじゃなくて、誰かの見た目を褒めるってことは、誰かの見た目をけなしているってことだ、って、国際企業で働いてる人の意見がツイッターで流れてきました」


「ツイッター? そんなのやってんのか、春野が。てっきりティックトックとかいうやつでかわいい動画バンバン作ってるのかと」


 誤解である。だが美沙緒さんの見た目ではそう思われても仕方あるまい。美沙緒さんは、アイドルですと言っても信じてもらえる美少女なのである。美沙緒さんは考え込み、

「……なんていうか、そういう人前に立つようなこと、やりたくないので……盛っててもネットに顔を流すとか、怖いですよ」と、そう答えた。


「そうかー。それはいい心がけだな。あ、頼まれてた雑誌買ってきたぞ」

 俺が先生にお願いしていた、スポーツ雑誌の棋士特集号を、先生は俺にほいと渡した。


「先生もなー、本当のところは教えらえるようになりたいんだが、まだどうにか二面やってる状況でなー」


 二面、というのはおそらく某有名棋士が監修した将棋ゲームの話だろう。ステージ名じゃなく「二面」と表現するあたり、いにしえのゲーマーという感じだ。


「じゃ、あんまり遅くならないうちに帰れよー。先生は生徒指導部のお仕事でっす」

 そう言って日下部先生は部室を出ていった。美沙緒さんは安心した顔で、


「よかった、また先輩と二人きりになれた。先輩を前から後ろから攻めてぐちゃぐちゃにする妄想ができる」と、そう言うのだった。前から後ろから攻めてぐちゃぐちゃにするって……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る