16.神殿跡地





 何も見えない。暗く沈んだ意識を、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。温かい感覚と肉体が戻ってくると、カザリはようやく目を開けられた。滑り込んできたのは、柔らかい光だ。


「あ、あ」


 痛みを感じるのどを掴んで、少し撫でる。そうしながら、ゆっくりと体を起こした。視点が高い。合せた長椅子を寝台代わりに寝かせてくれていたらしい。また、あの白い貫頭衣を着ている。体に痛みはないが、体を動かすと突っ張るような感覚があった。


「ようやくお帰りかい、ダンナ」


 長椅子に座った、呪い師が歯を剥いて笑いかけてくる。たださえ白い顔が、より白く見えるのは疲労のためだろうか。

 立ち上がるが、そのまま寄りかかるようにカザリの急造寝台にもたれかかった。


「よく寝こけやがって、どこをほっつき歩いてたんだか」

「ご、ごめん」

「いいさ、約束通り戻ってきたんだから」


 ぺしぺしと、頭を力なく叩く。そうしてから、呪い師は礼拝堂に作ったかまど、その上にある深鍋から、お湯を一杯、椀に汲んで飲んだ。火は絶やしていないようで、離れた寝台からでも温かく感じる。他にも衣類の干し用のヒモなどが増えていて、生活の品が大分増えているようだ。


「ダンナも飲むか」

「う、うん」


 彼女は手に持った椀にもう一杯、白湯を注いだ。静かに渡されたその椀を受け取ると、カザリはふうふうと静かに冷ましながら、のどをいたわる様にゆっくりと飲んだ。

 呪い師は何も言わず、それを眺めてきた。ぱちぱちと薪の爆ぜる音、それに混じってトロルが寝息が聞こえてくる。相変わらず

 ふぅっと一息ついた。彼女に椀を返す時に、ようやくカザリは他の人たちの姿が見えないのに気がつけた。


「みんな、は?」

「アルテムは連れてきた女の治療している」


 口の端を上げて、礼拝堂の奥を親指で差した。中庭に続いているはずだから、外で何かしているのだろうか。


「まだ戻って来なくてな、儀式が長引いてんだろ。んで、キエンはその見張りだ。あの神官様は目立つからな」

「そう、みんな、無事かあ」


 にへら、と笑いかけたが、ぱんっと指で鼻先を弾かれた。


「ダンナ、アンタが一番重症だったんだぜ。無茶するなっていっただろ」


 呪い師はカザリの髪をわしりわしり撫でた。骨のように細い指先には力があまり感じられない。思わず、カザリはその手を取った。冷たい手だった。抱き込むように、下に降ろす。抵抗はなかった。


「ごめん」

「謝ってばっか、だな。ダンナらしいけどよ」


 いつもの勢いはなく、語気も弱々しいものだった。


「ぼ、僕が、向こうであったことを話すよ」

「やっぱり、魂だけ、どこかに行ってたのか。道理で目が覚めないわけだ」


 ふんっと鼻息を鳴らして、握っているカザリの手のひらを逆手で包む。


「ダンナは温かくていいな、アタシは手先がすぐ冷えてなあ。羨ましい」

「そう、かな」


 誰かの手なんてまともに握ったことはないから、よく分からない。彼女の手を温めるように包み返す。


「よせやい」


 こそばゆい、とばかり照れたように笑う。そしてカザリの手からするりと離れると、いつも通り、笑い方をにたりとしたものへと変えた。


「で、ダンナ、あっちで何があったんだよ」


 大仰に腕を動かし、問いかけてくる呪い師に、カザリはぽつり、ぽつりと話を始めた。あの海の怪物と相打ちになった後、牢獄であったこと。


「お、お、起きたら牢獄にいて、そこにソルティー、ああ、あの銃を使う人が、いて、助けて、くれた」


 カザリのまとまらない言葉に、うんうんと静かに、頷きながら呪い師は聞いてくれた。自分の下手な絡まった説明を呪い師は、ほどくように問いかけてくれた。

 それが、カザリにはたまらなく、温かく感じられた。その感覚に伝うように、口を動かしていく。


「なるほどな」


 カザリのたどたどしい話がようやく終わると、呪い師はふぅっと長い息を吐いた。


「そのジジイはやべえな。出来れば関わりたくない」


 老人ザイオンのことに唸ると、威嚇するようにカッカッと歯を噛み鳴らした。そうしてから、足で床を叩く。彼女の影が粘性を帯びた。影からは、ぷかぷかと袋やら、獣の頭蓋骨や亀の甲羅などが浮かび上がっては沈む。ふんっと鼻息を噴き出すと、また足で床を叩く。すっと影が平坦なものに戻った。


「しかし、とられたのにも気が付かないってのは腹立つな」

「もともと、あの人の、ものだったから」


 歯を剥いて唸る呪い師をなだめるようにカザリは言う。それに、ふぅぅっと長い息を吐き出した。


「だろうな、そうでもなきゃ自信無くすぜ」


 呪い師は自身の白い髪をわしゃわしゃとかいた。顔を隠すように、すっと黒い頭巾を被る。


「そのジジイは力ある存在だな、あんまり名前で呼びたくねぇ類の、な」


 こくりと同意した。そうして、もらった羽ペンを取り出した。そして、そのことにカザリは自身が戸惑った。自分が、どこからこのペンを出したのか分からないからだ。


「へえ、紐づけがされてら。よくやるな」

「ひもづけ」


 間の抜けた声で、言われたことをそのまま返す。


「アンタのものになったんだよ。だから、呼べば来る。ま、アルテムの大剣と似たようなもんさ」


 ひょいっと呪い師が、手からさらうと、ぱっと羽ペンが消えた。そして、いつの間にかカザリの手に収まっている。正直、便利というより、不気味な感じがする。


「そいつは霊鳥の羽か何かだろう。ま、印を書いたところに移動するって奴だな」

「それは、いい、ね」

「だろ、あとで書き方を教えてやる」

「うん」


 あの薄暗い道はすぐ迷いそうであるし、そういう物品があるのは安心だ。


「あとは風の印か、まあ、取っ掛かりぐらいならできるか。呪いを覚える気はあるか」

「マジナイを、僕が」

「そうだ、風の印、それは呪詛の起点になるものさ。元々のダンナにゃあ、なかったモンだな」


 つうっと額を撫でながら、彼女はいう。流れるように呪い師は自身の顎に手を当てて、じぃっとカザリを見た。カザリは慎重に舌を動かし、目を合せて真っ直ぐに答える。


「覚えたい」

「後悔するなよ」


 笑わずに、呪い師がいう。それに、カザリは答えた。


「きっと必要になる。だから、やる」


 それに、観念したとばかり、わしゃわしゃと髪をかいた。それによって外套の頭巾がずれ落ちた。


「分かった、そうなるとは思ったがな」


 弱い声で、彼女は答えた。そうしてから息を大きく吐き、吸う。周囲をもう一度、見回した。相変わらず眠っているトロル以外、ここには誰にもいない。彼女は何度か、目をつむった後、体を寄せて、ささやくように言う。


「我が名はレンカーサ、オルムの名を次ぐもの」


 言い切ると恥ずかしげに彼女は笑う。


「まあ、しきたりだから、言っておく。簡単な教えでも、アンタの師匠になるには代わりねぇからな」


「他のやつには、漏らすなよ。家のしきたりだからな」

「わ、わかった」


 こくこくとカザリは頷く。


「ダンナは真名が余所に出ているからな。アタシの次いでいる名を分けてやる。それが守りになるだろうよ」


 オルムという名のことだろうか。カザリは頷いた。


「これからは僕はログ村のカザリ、オルムの名を次ぐもの」

「不用意に名前を出すなって」


 また、ぺんっと鼻先を叩く呪い師レンカーサ。いつもより少し強いのは、カザリの不注意のせいだろうか。


「まあ、確認は大事だったがな。その名前を自分でよく意識するんだ、今はそれだけでいい」


 そう言い切るとカザリの体を押し込むように寝かせた。体は思ったより弱っていて、簡単に力負けして、横にされた。


「しばらく休めよ、ダンナ。そうすりゃあ、風の印も新しい名前も、馴染むはずさ」


 そう言うとレンカーサは話は終わりとばかり、近くの長椅子に横たわった。それを見るとカザリの意識もうつら、うつらと閉じていった。

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