第10話 駆け抜ける

 寝静まった村を駆け抜けて、森へ出た。村の外へ出るのは、かなり久しぶりかもしれない。それこそ初めてこの世界に落ちてきた日以来だ。


 夜の森は思っていた以上に寒くて、震えそうになる。自分の吐く息が白く視界を曇らせる。右も左もわからない、凍り付くような真っ暗な森。その中を、ピアスの青い光だけを頼りに走っていく。


 まだ全然走っていないのに、もう息が切れていた。おかしいな。情けないな。二カ月くらい走ってないと、こんなに体が追い付かなくなるものなのか。魔素のせいもあるんだろうけど、体が重くてついていかない。悔しさに歯を食いしばる。


 へこたれるな、俺。メアとおばあちゃんが待ってる。行ってエレンの無事を確かめないと。


 手足が震えている。寒いから? 上着をもう一枚羽織るか、手袋でもしてこればよかっただろうか。自分でもわかっている。そんな簡単に凌げる震えじゃない。


「怖いんだよな、俺」


 自分が一番よくわかってるんだ、そんなこと。あんな風に啖呵を切った今でも怖い。今自分がいる場所が――少し知らない場所に足を踏み出せば死ぬ可能性のあるこの世界が怖くて、情けないくらいに震えてる。屋上から飛び降りたあの時よりもよっぽど怖い。


 それでも絶対に足は止めない。肺が痛くて、体が震えて思うように動かなくたって、足だけは動かし続ける。青い光の先をじっと見据え続ける。


 暗くて深い森の中を進むには、一筋の光じゃあまりに心もとない。何度も木の幹にぶつかったり、蔦に足を取られたりした。蔦を引きちぎってその先へ足を踏み入れた時、


「……ッ!?」


 突然、刺すような痛みが胸を貫いた。思わず胸の辺りを押さえてうずくまる。

 息を吸うたびに肺が鋭く痛む。苦しい。普段走っている時に感じる痛みとはまったく違う。


 俺は痛みに顔を歪めながらも、顔を上げた。うっすらと光に照らされている周囲が、紫色に濁って見える。


「魔素か……」


 どうやら、とうとう魔素が充満している地帯に踏み込んだらしい。近くの幹に掴まって、何とか立ち上がろうとする。


 ここまで来たら、エレンも近い位置にいるだろう。あと少しだ、頑張れ、立て。


 それなのに体は動かない。このままここに留まっていたら死ぬってこともわかっていて。そんな状況の中に、進むことも逃げることも出来ずに囚われている。


「エミリ」


 咄嗟に口をついて出たのは、彼女の名前だった。幹を掴む両腕に、力を込める。


「力を貸してくれ、エミリ……」




 九月も終わりの夕方。見慣れた住宅街を歩いていると、ふとエミリが家の前で立ち止まった。振り向いて足を止めた俺に、エミリがゆっくりと歩み寄ってくる。


 ソーダの爽やかな香りが、ふわりと鼻をくすぐる。エミリは俺の耳にそっと口を寄せて囁いた。


『陽翔。大好きだよ』


 そして――。




 そこで、ハッとして現実に引き戻された。今俺がいるのは、魔素に侵された森の中。九月下旬の住宅街じゃないし、隣にエミリもいない。


 俺は額を押さえて呟いた。


「なんだ、今の……」


 記憶だ。今まで思い出すことのなかった記憶が、突然蘇ってきた。妄想とかではない、と思う。不自然に欠けていた記憶のピースが、カチリと音を立ててはまったような確信がある。今まで俺は、記憶のピースが足りない不自然さにも気づくことがなかったけど。


「はは……っ。なんでこんな大切なことを忘れてるんだよ、俺」


 あまりにポンコツすぎて笑えて来た。たとえ脳みその空き容量がなくなってたとしても、絶対にはじき出しちゃいけない記憶だろ。どうでもいい数学の公式とかを大量に削除すれば良かったのに。


 笑いながら立ち上がろうとしたとき、俺は不思議なことに気が付いた。

 肺の痛みや息苦しさが、綺麗さっぱりなくなっている。体が動かないなんてこともない。


 突然蘇ってきた記憶と、それと同時に消えた魔素の苦痛。


「もしかして、本当にエミリが力を貸してくれたのか……?」


 自分でもそんなわけはないと思いながらも、口にせずにはいられなかった。

 

 この現象が何なのかはさっぱりわからない。無理やりに結論づけるなら、死の間際に走馬灯を見て、火事場の馬鹿力でも発動したってところだろう。でも、すぐ隣に間違いなく感じるのは、彼女がいるかのような安心感だ。


 魔法が存在する世界なんだから、それくらいの奇跡が起こったって何もおかしくないよな。


 そんな奇跡を信じてみるのも悪くないなと思って、俺はまた笑う。さっきまで体中に蔓延っていた恐怖すらも消えていた。


「ありがとう、エミリ」


 そんな届くわけもない感謝を呟いて、また地面を蹴った。体が軽い。俺の走りに呼応するように、青い光もするすると伸びていく。そして、


「エレン!」


 光が弾けた。辿り着いたその先には、エレンが居た。地面に膝をついていたエレンが、ハッと顔を上げる。その目が大きく見開かれる。


「陽翔? どうしてここに……」

「お前を捜しに来たんだよ。今おばあちゃんが大変なことになってて……」


 そこまで言ったところで、俺に向かって何かが飛んできた。咄嗟に掴んで手の中を見ると、綺麗になったペンダントがあった。

 

 ペンダントを投げたエレンが、切実な声で訴えてくる。


「それを持って今すぐ引き返せ! 今ならまだ間に合う!」

「何言ってるんだよ。エレンも一緒に……」

「いいから!」


 歩み寄ろうとした俺に、エレンが叫んだ。その剣幕に気圧され、そしてエレンの痣に気づいた俺は、思わず足を止めてしまう。


「頼むよ、陽翔。僕の勝手で君まで死なせるわけにはいかない。早くここから逃げてくれ」


 そう話すエレンの痣は、青黒く染まっていた。おばあちゃんと同じ、死を感じさせる色だ。


 僕の勝手とか、そんなこと言うなよ。そう言おうと思ったのに、声が出なかった。何か嫌な気配がする。すぐ近くで何かが蠢いているような、異様な気配が。


 俺がその気配の正体に思い当たったのと、エレンが絞り出すように叫んだのは同時だった。


「魔物がいるんだ……!」


 その声に呼応するように、紫色の靄で覆われた怪物が姿を現した。見た目は甲殻類に近くて、手足が十本はある。そしてその先には、巨大な鋏や針がついていた。


 その、とてもこの世のものとは思えないような悍ましい姿に、俺は絶句する。これがメアが言っていた魔物。そりゃエレンも逃げろって言うわけだ。こんな奴相手に生き残れる気がしない。


 それでも、気が付くと俺は地面を蹴っていた。恐怖とか諦めとか余計な感情は全部捨てて、魔物に向かって走り出す。


「ここまで来て、ノコノコ逃げ帰れるかよ……っ!」


 エレンもメアも、本当にお人よしだ。二人とも会って二週間足らずの俺を庇おうとしてくれる。そんないい奴らを見捨てることなんて、やっぱり出来ない。


 魔物は今にもエレンに襲い掛かろうとしていた。まるで世界がスローモーションになっているかのように、すべてがゆっくりと動いて見える。


 すんでのところで、その間に滑り込んだ。エレンを庇うように両腕を広げる。


 ――エミリ。見守っててくれよな。


 そしてその直後、俺の腹に魔物の針が深々と突き刺さった。


 


 


 


 

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