——お伝え


 大家の男の子が久しぶりに帰ってきていた。


 わたしがアルバイトから帰宅すると、アパートの前のところで、仁王立ちでタバコを吸っていた。それで、煙を空に向かってプハーと吹き出した。

 彼はちょうど二十歳くらいの若い男の子だけれど、このアパートの大家である。

 彼はわたしを呼び止めて、わたしの部屋のちょうど上に住む住人の方に家賃を払うように言ってきてくれ、と頼んだ。

 また、煙を空に向かって吐いた。


「いないと思うんだけれどね。でも、一応、全員の部屋を調べてくれ。……まず君から」

 はあ。

 わたしは財布を取り出して、彼に家賃を払った。

「じゃあ、他は頼んだ」


 けれど。

 それは、わたしの仕事でしょうか? 


「それはわたしの仕事でしょうか、って思っただろ?」

 と彼が言った。


「ええ、はい。……すみません」


「住人どうしで問題がおきるのを防いだり、問題が起きたとき対処したり……。あとは、コミュニティーを保つのが俺の仕事だ。つまり、江戸の長屋だな。長屋の大家さんも、同じ立場だったらしいが、住人どうしのコミュニケーションを大切にしていた」

「はい」

「相手を知っているのと、知らないのとでは、思いやりに差が出るだろ」

「はい」

「だからだ」


 なんとまあ、にくたらしい若者。

「なんとまあ、にくたらしい若者、って思ったか?」


「いいえ」


 彼は笑いながら、煙を吐いた。

 けれど確かに、わたしには知らない住人もいる。それは依頼された通りで、わたしのちょうど上に住んでいる方。顔も見たことがなかった。

 それ以外の住人はおおかた知ってるのだけれど。


 京太郎がちょうど学校から帰ってきたので、彼に人生経験だとたぶらかして、一緒に家賃の催促に付き合わせた。

 ちょうどいい機会なので、この際、このアパートと、このアパートに住んでいる方々を紹介する。




 一階には一つだけ部屋がある。階段の隣にあるけれど、そこには大家さんが住んでいる。といっても、ほとんど不在。たまにこうやって帰ってくる。

 階段はアパートの右端にあって、登ると廊下に出るけれど、その道路側に面した壁には窓が並んでいて、その反対側に扉が並んでいる。二階に四部屋。三階に三部屋。


 わたしは二階の一番奥。

 わたしの隣は空室である。(誰か、住みたい方がおられたら是非)

 その隣が京太郎とマリンちゃん。

 そしてその隣が秋盛くん。いつも本から文章を切り出して、いろんなところに貼っている子。

 秋盛くんがいなかったので、三階へ上がった。


 三階には三部屋ある。

 今度は逆に、階段の近くから説明する。

 まず最初、ばんえんさん。伴というのが苗字で、円の木という名前らしい。滋賀県からここに来た人で、たぶん二十代後半。でも、彼はとても若く見えて、大学生と言っても通じる(けど、三十五と言われても信じる)。一度、廊下にドデカイ観音菩薩立像があって驚いたが、彼のものだった。そのように、彼は仏教マニアである。それだけでなく、ヒンドゥー教マニアでもあり、キリスト教マニアでもあり、鉱物とか楽器とか妖怪とか、その他もろもろ。もしかしたら森羅万象、全てのマニアと言えるかもしれない。旅好きらしく、いつもいない大家よりもっといつもいない。帰ってきたとき、お土産をくれる。この前は煙をくれた。瓶詰めの煙であった。嬉しかった。

 もちろん彼もいなかった。


 その隣が二部屋をぶち抜いてつくった広い部屋で、夫婦が住んでいる。菊丸さんという。

 日記の夫婦と言えば、勘づく方もおられるかもしれない。お二人ともちょうど三十で、ここで出会ったらしい。それでここに住んでる。壁をぶち抜いて作った大きな部屋である。

 二人とも出かけていて、いなかった。ご主人は仕事であろうが、奥さんはどこに行ってるのでしょうか。奥さんは、仕事はしていないと思う。


 最後に残ったのは、ちょうどわたしの真上の部屋。大家くんはここに住んでる方のことを言っていた。

「はやくすましてよ?」

 と京太郎は面倒くさそうに言った。廊下の反対側にもたれて、足を鳴らしている。

「うん」

 わたしは、チャイムを鳴らした。

 すると、

「開けてくださーい」と中から女性の声がした。


 わたしは扉を開けた。

 虎がいた。

 そしてそっと扉を閉めた。


「何してるの?」

 と京太郎は、わたしを見た。彼は後ろにいたので、扉の中まで見えなかったのだろう。

 言葉を失っているわたしを横目に今度は彼が扉を開けた。

 そしてそっと閉めた。


「虎がいた」と彼は言った。

「そうでしょ」

「動いてたよ。口を開けてた」

「嘘。わたしは、そこまでは見えなかった。動くんだ」

「うん。生きてた。絶対、生きてた」


 わたしはもう一度、扉を開けた。

 すると、すぐ目の前、玄関と所まで虎が来ていて、二人とも飛び上がって驚いた。

「すみません、驚かせてしまって」

 と、謝ったのは、その虎であった。



「虎……なんですか?」

 わたしたちは招き入れられた。そして今、京太郎と並んでソファに腰掛けて、出されたジャスミンティーを一緒に飲んだ。

 彼女は、ナオソフィアと言う名前らしい。単に「菜緒」と名乗る時もあるらしく、だから菜緒さんと呼べばいいらしい。


「ええ。そうなんです」

 と菜緒さんは答えた。


「いつからなんですか?」

「いつから?」と菜緒さんは笑った。「もちろん、生まれた時からですよ」

「あ、そうですね」


 京太郎は、ちゅーちゅー静かに飲んでいた。ストローを用意してくれたのである。


「じゃあ、なぜ、その、喋れるんですか」

「なぜって、そりゃあ、人間ですもの」

「虎じゃないんですか?」

「人間だと、虎じゃいけないの?」

「たしかに、だめってことないですね……ええ。じゃあ、人間であり、虎である。虎であり、人間であると、そういう訳ですね」

「さようで」


「それであの、要件なんですが、家賃の方を。ええ、大家に頼まれまして」

「すみません、そうですね。もう一ヶ月経ちましたか」


 早いですねぇ〜、と彼女は棚のところまで行くと、取手に爪を引っ掛けるとそれを引いて、中から封筒を咥えて出した。


「これです」

 と菜緒さんは器用に、机の上に封筒をそっと置いた。


「ありがとうございます。すみません、急に訪ねてしまって」

「いえいえ、お気になさらずに。また来てくださいね」

「ええ」


 バイバーイと京太郎は手を振った。わたしもお辞儀をして、部屋を後にした。


「どうだった」

 と大家が、家賃を受け取りながら聞く。


「どうってことないけど、虎だったわ。さすがにすこし驚いたけど、優しかった。あれだけいい人なら、別にトラブルなんて起きないでしょ」

「虎だけにね」

「まあ、でも紹介してくれてよかったわ。また話してみたい」

「これ。お願い」


 彼が差し出したのは、一枚の紙であった。

 何かと見てみると、卵、とか、アップルジュース、とか書いてある。買い出しのメモである。


「行かいでか!」

 とわたしは突き返した。

 彼はニヤニヤ笑いながら、一人で出て行った。

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