——カットアンドペースト


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・たゞひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意志といふやうなものがあつてあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによつて行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。

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・「私は賭けるわよ」と彼女はいいました。「みんなの前でこのテーブルクロスの中におしっこしてみせるって」

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・野から野へ、村から村へ、軍隊は、一年また一年と、ますます遠くまで進み続け、どこまで行っても、向きを変えよとの命令が下されることはなかった。こうして、待ちに待った凱旋の知らせがまもなく届くだろうと賭けた人々は、そのたびに、賭けに負けてしまった。度重なる戦闘、勝利、そしてふたたび勝利、また戦闘……。いまや、軍は想像を絶するほどの遠方の、発音するのも難しいような名の土地を進み続けていた。

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・猫の黒い毛並みを撫でながら、この接触も幻想であり、人間は時間のなかに、連続のなかに生きているが、魔性の動物は現在に、瞬間の永続性のなかに生きているのだから、彼らはいわばガラスでへだてられているのだ、と考えた。

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 わたしの真っ隣にひきこもりの学生が住んでいる。

 秋盛くん。

 大学生らしい。

 彼が日常、学校にも行かないで何をしているかというのを、このアパートの住人ならおおよそ誰でも知っているだろう。


 それはこうである。


 彼はまず古本屋へ赴き、本を買う。わたしは一度、大阪天神橋筋商店街の古本屋でばったり出会ったことがある。どういう審査で彼が本を選んでいるのかは不明であるけれど(安いというのはもちろん確実に箇条に入ってるだろう)、獲物を部屋へ持ち帰ると彼は、「奇跡に出会える!」とか「運命的な邂逅があるかもっ!」とか声かけをして適当なページでひらく。

 そのページに気に入った文章があったらば、彼はそのページを引き破って、それからハサミでその文を切り取るのである。


 いつの間にか聞こえていたが、その掛け声がなんであるか知るまでずっとモヤモヤしていた。彼が夏のある日、エアコンが故障したらしく、階段に座ってそれをしているとき、初めて正体を知った。彼は夏より熱くその作業をしていた。


 切り取った紙辺は部屋の壁に貼ったり、ノートに貼ったり、あるいはアパートの壁に貼ったり、気に入る場所がなければ街中へ探しに行き、どこかに張り付けて帰ってくる。「すきとほつたほんたうのたべもの」とか「ぷふい、」とか「ドン・ファン地獄へ行く」とか短いものもある。



 ラッコちゃんは眠っているようだった。わたしと交代でシフトが入ってる方がいるので、交代して帰る前にわたしはラッコちゃんのいる個室へ寄って、戸を静かにそっとあけた。


「ねえ、わたしもう帰るけど」

 と紙声で言うと、

「うぅ〜ん」

 ともう起きる気配なしだったので、置いて帰ることにした。


 アパートに着いたのは十一時前。

 わたしが通るとき、ちょうど隣の部屋のドアが開いて秋盛君が出てきた。


 彼は硬い芯のあるけれどその周りは無関心を装いたい自意識の柔らかい膜とそれに照れを混ぜて、最後に偶然による逃れられない後押しという管を通した視線をわたしに向けていた。


「なんですか」

 となるたけ彼を刺激せぬようコミカルに言ってみる。

「これ、あなたの部屋にはっつけてもいいか」

 と彼は言った。


 ああ、なるほど、これからはわたしたちの部屋にも彼のカットアンドペースト文化が押し寄せてくるのだ。


 このムーブメント。わたしは少し楽しみである。


 一体どんな文章がわたしの部屋に加わるのであろうか。


 鍵を回してドアを開け、彼を中へ招いた。文学ビーボーイはわたしの部屋をすがめた目で見まわした。わたしの部屋は質素であるから、面積には困らないはずだ。

「どこでもいいよ」

 と言ってから彼はあちこち目を近づけて、ついに場所を決めたようだった。


 それは窓と直角になった壁の窓際で、床からすぐ上の場所だった。


「これ、剥がれてきたらどうすればいいの?」

「邪魔になったら、剥がして捨ててもいい。貼り終わったら僕は関係ない」

「りょーかいです」


 彼が出ていったあと、わたしは床に寝転がって、それに顔を近づけて読んでみた。


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・私は骨つきの方の鯵をしゃぶりながら風呂屋の煙突を見ていた。「どんなに叱られていたか」何という乱暴な聞き方であろう、私は背筋が熱くなるような思いを耐えて、与一の顔を見上げた。与一はくずぬいて箸を嘗めていた。私は胃の中に酢が詰まったように、——瞼が腫れ上がって来た。

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 林芙美子、だと思う。

 わたしってそんな印象なのかしら……。

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