——多層空間


「ッチ。どけろよ」

 と男の人は口の中で言って、そのとき立ち読みしていた若い人を押し退けると並んでる本を眺めて数冊選んだ。


「いや、立ち読みしてる奴がいるんだよ」

 と嫌味っぽく、聞こえるか聞こえないかの声で言った。


 彼は電話をしていたのだ。

 そして彼は横へずれて、また本を眺める。

 若い人はその彼を少し睨んだ。


 ブックオフ三条店でのこと。

 わたしは久しぶりに漫画でも読んでみようかしら、と思い立ってやってきた。二階である。三条店は四階まであって、それぞれに別々な並びで売ってある。


 けれど漫画は小説に比べて長いので大変である。わたしはあまり漫画に明るくないと言うのと重ねて、選び損ね、もう何分も棚の前をうろちょろしていたが、そういう光景に出会った。


 その男の人はなおも電話相手に、

「ったく、立ち読みなんかすんなよ。そんな奴がいるから、業界に金が回らなくなるんだよ。そうするとあれだろ……また完成度の低いアニメになるだろ。ほんとに作品が好きなら、ちゃんと金を出すべきなのに」

 と籠にぽんぽん漫画を入れていた。


 まあ、経済状況とかもありますし。とわたしは思うと同時に、それにしたって古本屋で買って意味があるのだろうかとも思った。

 でもたぶんそれは、電話の相手が伝えてくれるだろう。



 わたしはそれから漫画はあきらめて、坂口安吾やミラン・クンデラなどの珍しく安い本を買って部屋に帰り、それからさっきの出来事を分解して紙に書いてみた。


一、 物体——地面、本棚、本、[わたし・男A・男B]の肉体、携帯電話

二、行為——押し退ける。睨む。電話する。見る。

三、感情——「邪魔だな」という嫌悪、非難「なんだよ、立ち読みくらい」という不服「あまあそれくらい」という感想。それに付随するあらゆる精神の動き、揺れ


四、波——音、空気振動、光

五、物理的な力——重力、押す力、摩擦、密度

六、状況——男Bが立ち読みしていた。男Aが男Bを押し退けたのをわたしが見ていた。電話していた。電話することによってAとBでの会話が成立しない。わたしは今思い出して分解してる。Bの経済状況。


 七、意味——漫画は読むもの。電話は通話するもの。立ち読みは買わずに読むこと。怒りとは……怒ることとは……買うとは……会話するとは……会話することによる影響……経済とは……思い出すとは……

 八、価値——本の価格。冊数。アニメの面白さ。時給

 九、価値観——立ち読みは良くない。買うのが正義。押し退けるのは良くない。経済状況とかありますし


 十、時間——言わずと知れたあれ。未来、二人のこの後、わたしがそれから帰って思い出す。過去、二人の経歴、思い出、わたしの朝ごはん

 十一、自我——その時みていたわたし自身。憤ってる彼自身。読んでた彼自身。思い出してるわたし自身。それぞれの視線。音、匂い、空気を感じる

 十二、因果——ここにいる三人が、ここにいるという偶然、そうさせた力


 この世界はいったい何層なのだろうか。

 けれど、これが世界が多次元であることの意味かもしれない。このほかにもこの世界を構成する層はありそうだが、もう思いつけなかった。

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