第七話 戦国編

 時代は十六世紀初頭、戦国時代の初期。

 北に六甲山を頂く摂津の菟原(芦屋)は、兎や狸の楽園であった。平地に住む地侍たちや農民たちも、六甲山のゴロゴロ岳に集落を築いていた狸たちと共存共栄を果たしていた。

 奪吻公は当時「狸将軍」と呼ばれ、家族や仲間たちと六甲山でのんびり暮らしていたのである。

 だが、世は日本屈指の大戦乱の時代――戦国時代へと突入。

 のどかで平和だった芦屋もまた、武士たちによる血で血を洗う激しい戦場と化した。

 生涯禁欲独身を貫いて修験道の修行にいそしみつつも天下を掌握していた「半将軍」管領細川政元が暗殺されたことから端を発し、室町幕府管領の細川家は、細川澄元派と細川高国派に分裂して内紛を開始。

 両軍は、阿波と京の中継地点となる芦屋一帯を激しく奪い合うことになった。

「神通力を身につけて空を飛べる天狗になりたい」という中世人らしい夢を抱き山岳信仰に夢中だった半将軍細川政元は、人語を話し妖怪にしか見えないゴロゴロ岳の奇妙な狸たちをもお目こぼししていた。むしろ「お狸さまの領域を侵すべからず」と狸たちを保護していたのである。

 だが、その半将軍の死とともに、動物も妖怪も存在を許されていた日本の中世は終焉を告げた。

 ある日の夜。

「将軍の兄貴! 松ぼっくりを集めてきましたぽこ!」

「大将! 今夜は満月たぬ。宴会を開くたぬ!」

「お父さ~ん、抱っこしてほしいぽこ~。みそを食べさせてほしいぽこ」

「わかったわかった。康子もすっかりお年頃になったたぬ。そろそろ嫁ぎ先を決めないといけないたぬな」

「まだ早いですよあなた。よほど狸ぶりのいい殿方でなければ嫁にはやれません」

「灘五郎の地侍が康子と結婚したいって言ってますよ、父さん。康子の尻尾の美しさに夢中だとか」

「人間が狸に求婚? 変わった男もいるたぬね。それはそれでいいかもしれないたぬ。里の人間と山の狸の絆がますます強まるたぬ」

「ぽこおおお? 康子は狸のお婿さんがいいぽこ! 人間は肌が剥き出しで怖いぽこ!」

 狸たちは、六甲山系の鷹尾山に繰り出していつものように宴会を開いていた。

 しかしその狸たちの縄張りだった鷹尾山に、そしてその鷹尾山の麓の芦屋に細川高久方の瓦林正頼軍が突如として攻め入り、「狸たちを駆除せよ!」「阿波から攻めて来る細川澄元を防ぐ城塞を山頂と麓に築く!」と火矢をいかけ、森を燃やし、狸たちを「斬り捨て御免」とばかりに殺しはじめたのである。

 平和に暮らしてきた狸たちには「戦争」という概念はない。一方的な虐殺となった。

「たいへんだああ、大将! 武士だ! 武士が狸狩りを開始しやがったあああ!」

「この一帯の狸を駆除して山に城を築くって言ってるぜ!」

「そんな? お、お父さん!?」

「あなた。京ではずっと武士同士が戦をしていると聞きますが、とうとう芦屋まで……」

「康子! 康江! 康夫! 幻術を用いても多勢に無勢。ゴロゴロ岳まで避難するたぬ!」

 こうして狸たちは鷹尾山と芦屋から駆逐され、ゴロゴロ岳周辺まで押し込められてしまった。なぜ人間同士で戦っているのか理解できないたぬと狸たちが呆然としている間にも、鷹尾山と芦屋はたちまち武士たちによって城塞化されていく。

 餓えに苦しみながら、狸たちは戦争が終わる日をじっと待った。

 だが、戦争が激化するごとに、狸たちを生かしてきてくれた自然環境は容赦なく武士の手で破壊されていく。

 食糧難に続いて、最後の命綱とも言える水の手までが断たれた。

「たいへんだ大将! このあたりの水を全部鷹尾山の城塞の堀に流し込む仕掛けを、人間の武士たちが……! 山は神域だってのに、なんてことをしやがる!」

「……お父さん……もう……喉が渇いて……お腹がすいて……みそ……みそが食べたい……」

「康子? 康子? しっかりするたぬ! このままでは全滅するのを待つばかりたぬ……!」

「もう見ていられません! 父さん。僕は長男として、地侍の灘五郎たちのもとに傭兵として参戦します。この戦を終わらせないと、妹も母さんも仲間も飢え死にしてしまいます! 弓矢の腕はからっきしですが、狸得意の幻術を用いればきっと戦力になれます!」

「待つたぬ。康夫、待つたぬ! われらは狸。人間の戦に関わってはならないたぬ! われらが幻術使いだと武士に知れれば、それこそ根絶やしにされる運命。半将軍さま亡き今、狸を保護してくれる武士はもういないたぬ!」

「もちろん人間の姿に化けて戦いますよ、だいじょうぶです! 人間の命は奪いません、幻術で混乱させて芦屋から撤退させてみせます!」

「……あなた……」

「……仕方ないたぬ。息子が参戦するのならば、一族の長として余も参戦するたぬ! 康江よ、康子を頼むたぬ。必ず水を、そして山を取り戻してくるたぬ」

「嫌な予感がするぽこ……お父さん……行かないで……」

「康子、お前を飢え死にさせはしないたぬ。必ずみそを持って帰ってくるたぬ。約束するたぬ」


 幾多もの小競り合いが続いた後、ついに芦屋川の河原で、両細川軍の決戦が開始された。

 狸将軍とその息子、そして彼らに付き従う狸たちは皆人間に化けて灘五郎の地侍衆に加勢したが、いずれの軍の総大将も「細川」であり、狸たちにとってはやはりなんの意味がある戦いなのか理解できなかった。ただ、古い付き合いがある地侍たちに加勢しただけである。最後まで人間の命は取らなかった。

 いずれが勝利したかは、狸将軍にはわからなかった。

 ただ――数万もの大軍勢がひしめいての激しい戦闘と足軽たちによる凄まじい略奪と放火によって、芦屋一帯は見るも無惨な焼け野原と化してしまった。ゴロゴロ岳に籠城していた狸たちもまた、腹を減らした足軽たちに「食べ物」と見なされ、「狩り」の対象となった。大怪我を負って息絶えた息子の亡骸を背負い、腰に「参戦報酬」としてもらったみそ袋をぶら下げながらゴロゴロ岳に戻って来た狸将軍は、仲間たちが全滅しているさまを呆然と眺めるしかなかった。

 すでに彼の妻も娘も足軽たちに食われ、皮と骨だけが残されていた。

「康子? 康江? お前たち……! なぜだ。なぜ人間たちはこんな真似を……なぜこれほどに大勢で集まって命を奪い合う。なぜ……人間に狩られて食われるのは狸の宿命たぬ。しかし、これは……武士どもは……人間は、命をなんだと思っているんだたぬううううう!」

 呪ってやる。人間どもを。余から家族と故郷と仲間のすべてを奪った人間どもを呪ってやるたぬ!

 彼が激情のあまり息絶え、執念だけで蘇生して、人間の唇に取り憑いてその身体を乗っ取る妖怪「奪吻公」となったのはこの瞬間からだった。

 妖怪となっても狸としての矜持は捨てない。食糧にしない生き物の命は取らない。だが人間に憑いて「言葉」を操ることで、憎い人間の武士どもをもっともっと争わせてことごとく滅ぼしてやるたぬ!

 奪吻公が芦屋に跋扈し「狸妖怪大将軍」を名乗って人々を騒がせはじめた頃、一人の高僧が彼の根城ゴロゴロ岳を訪れ、そして信楽焼の中に彼を封印したのだった。

「汝はこれほどの憤怒を抱きつつも人の命を奪わなかった。故に魂までは滅さぬ。焼き物の中で眠るがよい。いずれ、汝の心の傷を癒やす人間と出会うことになろう」

 その高僧は、奪吻公を封じる際に、そう言い残して立ち去っていた――。


 そして現代。数百年の時を経て封印を解かれた奪吻公は、松平元康を見るなり亡き娘・康子の面影を思いだしていた。人間の娘でありながら、どこか狸に似ていた。松平家が先祖代々、信楽焼の制作を副業としてきたからだろうか。あるいは奥三河出身の松平家には、もしかしたらはるか昔から狸の血脈がわずかながらに受け継がれているのかもしれなかった。

(……康子……)

 気づいた時には、奪吻公は元康の唇に取り憑いていた。

 松平家が今川家の一族に代々使用人としてこき使われ続けてきた一族で、元康が幼い頃から苦労し続けていることも、瞬時に知った。取り憑くと同時に、その人間の記憶を読み取れてしまうためである。

 万事鷹揚な狸とは違う。いにしえより人間には凄まじい階級差、身分差がある。戦国時代もそうだった。だが、今の世界には、戦国時代とは異なる形ではあるが、さらなる格差が存在するのだ。人間はいまだに人間同士で階級を築いて富を奪い合い争っている! そして元康は生まれながらに「下級」なのだ、己の支配者に反逆するという発想すら持てない支配される側の人間なのだと奪吻公は知った。

(余は、康子を守れなかった。だが、この娘だけは――今川家からこの娘を自由にしてやりたい。この娘を、今川邸の主君にしてやりたい――人間が言うところの「下克上」を果たさせてやりたい。さもなくば、この娘は幸せになれないたぬ!)

 こうして奪吻公は、今川邸を奪い取り「元康の王国」を築くと決意したのだった。

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