02.僕の天使は名前も声も美しい

 さざめく連中の視線が、集中する。腕を組んだ少女は涙を堪え、毅然と顔を上げた。


 たった一人の少女を取り囲んで笑い物にするなんて、この国の貴族はおかしい。なら、間違いなく爵位剥奪に値する行為だよ。それもこんな美しい天使を傷つけるなんてね。


 王太子に僕から話しかける必要はない。ただ、彼女にこの夜会を辛かった思い出にして欲しくなかった。僕と出会った記念日だよ。『愛する人と出会った思い出の場所』として覚えてもらわないとね。


「ここでいいかな?」


 こくんと頷く少女を、テラス近くの長椅子に座らせる。当然、僕はいきなり隣に腰掛ける無作法はしない。彼女の前に膝を突き、薄絹とレースに覆われた手を捧げ持った。


「僕のエスコートを受けてくれてありがとう。なんと呼んだらいい? 僕の天使」


「天使ではなく、ベアトリスですわ」


 わずかに目を見開く。


「美しい名前だね、君にとても似合う。トリシャと呼んでも?」


「……はい」


 愛称で呼びたいと思い、強請ってみる。幸いにして一般女性に好まれる顔立ちに生まれたため、微笑んで答えを待った。彼女は僕の肩書きに気づいてるみたいだ。


 鈴が鳴るような声という表現があるが、トリシャは少し違う。例えるなら、朝の小鳥の囀りだろうか。心地よく耳に届いて、邪魔にはならない。心地よさを残して消えていく。どこまでも僕の好みだった。


「おい」


 後ろから不躾な声がかかるが、ここは無視を決め込んだ。いや、違うな。僕は彼女の声だけ聞きたくて、周囲の雑音を遮断していた。


「トリシャ、隣に腰掛けても? 初対面で厚かましいかな」


 困ったような顔を作り、頷いて欲しいと指背を撫ぜる。優しく促す僕の顔を見ながら、トリシャははにかんだ笑みを浮かべた。


「長椅子の端と端でよろしければ」


 腰を抱くほど親しくない。彼女の提案はもっともだった。初対面なのだから当然だ。淑女であるトリシャの前で、僕は紳士でありたい。肩や腰を抱き寄せるのは、婚約者に昇格してからだろう。


「では失礼するよ」


 腰掛けて顔を上げた僕の視界に、拳を叩きつけようとする金髪の猿が見えた。


「おいっ! 無視するな」


「危ないっ」


 己の身を投げ出して僕を庇おうとしたトリシャの腕を引っ張り、僕の下に抱き込んだ。淑女の肌に傷を残したら申し訳ない。それに、トリシャは僕の大切な存在だ。目の前で傷つけられる趣味はなかった。


「無礼者っ!」


「控えよ」


 ずっと無言で僕を守る騎士達が先に動く。僕自身が拳を受け止める必要はなかった。騎士達は剣の鞘で狼藉者を押さえる。


「乱暴でごめんね、ケガはなかった? この国は野蛮で困るな。トリシャのような天使が住まうに相応しくないよ」


 ぼやいて身を起こし、僕の膝へ頭を預ける形になった天使に手を貸す。慌てて長椅子の端に逃げたトリシャが、真っ赤な顔で乱れた髪を手櫛で直した。


 侍女を呼んで直した方が……いや、髪がほつれた姿も色っぽい。すごく素敵だ。目の保養だからこのままにしようか。他の男の目に触れるのが癪だけど、トリシャが僕の手を取っている間は許してあげる。


 顔を上げた僕は、双子の騎士の心配そうな視線に気づいた。


「ああ、悪かった。抜剣許可を出しておけばよかったか」


 本当に残念だ。剣を抜いていれば、この男の首を刎ねて……ああ、僕の悪い癖だね。そうじゃない。僕の大切な天使を泣かせた男を、一撃で楽にするなんてあり得ないだろ。


「ご無事ですね? 陛下」


「この程度の輩に剣は不要にございます」


 双子の騎士は、護衛対象である僕の無事を確かめた。それから鞘で打たれて呻くこの国の王太子を、睨みつける。


「な、何を……貴様ら、全員殺してやるからな!」


 叫んだ王太子の声に、貴族達がざわめいた。ああ、僕の名前を口にした奴がいる。正体がバレちゃったみたいだ。僕には都合がいいけど……口元に笑みが浮かんだ。

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