第2話 今日の僕はついてない

「隆司、隆司」

 遠くで母さんの呼ぶ声が聞こえる。うるさいな。眠いんだ。もう少し寝かせてよ。僕はベッドに潜り込んだ。

「隆司。いつまで寝てるの。遅刻するわよ。早く起きなさい」

 遅刻? 僕は慌てて頭の上においてある目覚ましに手を伸ばした。もう8時だ。

 まずい。いつもは5時に起きて、受験勉強をしているのだが、今日は全く起きれなかった。このままでは遅刻だ。学校の始業時間は8時30分。家から学校までは走って20分はかかる。

 僕はベッドから飛び起き、階段を駆け下りて、洗面所に飛び込んで顔を洗う。

「朝ご飯はどうするの?」

 母さんがキッチンから出てきて渋い顔をしている。

「いらない。遅刻する」

「ちょっと、朝ご飯を食べないと力が出ないわよ。遅刻してもいいから食べていきなさい」

 母さんの声を背中で聞きながら、僕は部屋に入り、制服を着てカバンを持って玄関に出る。

「行ってきます」

 玄関を勢いよく飛び出した。8時10分。いつもはもう20分ほど早く出るのだが、この時間なら走れば十分間に合う。自転車で行けば、余裕で間に合うだろうが、うちの学校は駐輪場の関係で自転車通学は認められていない。校則を破るわけにはいかない。

 僕が全速力で走っていると、ちょうど家と学校の中間ぐらいのところで、前面に有名なネズミのキャラクターのついたピンク色のトレーナーを着て、ピンク色のズボンを穿いて赤い靴を履いた3歳ぐらいの女の子が「ママ、ママ」と泣き叫びながら歩いているのとすれ違った。

 たとえ、遅刻するとしても、僕はこういうのを放っておくことができない。戻って行って、その子の前に回るとしゃがみ込んだ。

「どうしたの?」

「ヒック、ヒック、ママがいないの」

 どうやらママとはぐれたらしい。

「お名前はなんていうの?」

「チイちゃん」

「チイちゃんは何歳?」

 チイちゃんは右手の指を3本立てる。どうやら3才のようだ。

「じゃあ、お兄ちゃんと一緒にママを探そうか?」

 チイちゃんが頷いた。僕はチイちゃんを抱きあげた。チイちゃんは暴れもせずにおとなしく抱かれる。

「チイちゃんの家はどっちか分かるかな?」

「うん。あっち」

 チイちゃんは学校の方を指差す。チイちゃんが指差した方に歩き出して、1分も経たないうちに「ここ」と、また指差した。そこは女性専用マンションだった。

 前に母さんと一緒にこのマンションの前を通った時、『ここは女性専用マンションで、家賃がかなり高いって近所の人が言ってたわ。お金持ちのお嬢様とかがきっと住んでいるんだろうね』と、言っていた。

 その女性専用マンションに男の僕が入っていいんだろうか? 僕はマンションの前で立ち尽くしてしまった。

「ここ。ここ。入って。入って」

 チイちゃんが叫び出す。仕方なくマンションの自動ドアの中に入った。マンションは二重扉になっていて、中にもう一つ自動ドアがあった。中の自動ドアは前に立っても開かない。横を見ると、オートロックの操作盤があり、鍵を鍵穴に差し込むか部屋番号を押して呼び出しをして、部屋から開けてもらわないといけないようだ。

「チイちゃんはお部屋の番号分かるかな?」

 チイちゃんは首を横に振る。3歳の子にそこまで期待するのは無理か。

 思案していると、何人かのOL風の女性や学生風の女子が胡散臭さそうに僕を見ては通り過ぎる。だんだん気まずくなってきた。ふと上を見ると、操作盤の斜め上の天井あたりに監視カメラがあることに気がついた。セキュリティがしっかりしていると母さんが言っていたので、ひょっとしたら誰かがこのカメラの映像をマンションの中で見ているのではないか。僕はカメラに向かって手を振り、チイちゃんを指差した。

 だが、しばらく待っても誰も出て来ない。ダメかと思い、諦めかけたとき、ホテルのフロントウーマンのような格好をした女の人が出てきた。

「何かご用ですか?」

「この子が外で泣いていて、ここに住んでいるっていうんですけど、分かりますか?」

 チイちゃんの顔をフロントウーマンに見せた。

「おねえしゃん」

 チイちゃんがにっこり笑う。

「チイちゃん。また、ママに言わずに勝手にお外に出たの? 待ってて。ママを呼ぶから」

 フロントウーマンが操作盤でチイちゃんの部屋を呼び出してくれる。

「大変ね」

 僕の後ろを誰かが声をかけて通った。振り返ると、うちの高校指定の紺のコートを着た女子の後ろ姿が見えた。誰だろう。このマンションに住んでいる女子がいるとは聞いたことがない。

「バイバイ」

 チイちゃんはその女子のことを知っているのか背中に向かって手を振っている。

「すぐ下りてくるそうなんで、少し待っててください」

 フロントウーマンが振り向いて言う。しばらく待っていると、30代半ばぐらいの髪を腰まで伸ばした女の人が出てきた。

「チイちゃん、また勝手にお外に出て」

 女の人はチイちゃんを見て怒ったような顔をした。

「ママ」

 チイちゃんが手を伸ばす。僕はその女の人にチイちゃんを渡した。

「本当にありがとうございました。よく言って聞かせます」

 女の人が頭を下げる。

「いえいえ」

 僕は時計を見る。もう8時22分。ここから学校まで走って10分はかかる。まずい。

「急ぎますんで」

 僕はそう言うとマンションを出て、全速力で走る。死ぬ気で走ればひょっとしたら間に合うかも。しばらく走ると、先ほど声をかけてきたと思われる僕より長身の女子の後姿が見えてきた。そんなにゆっくり歩いていては遅刻するよと思いながらその女子を抜いていく。

 今は人どころではない。死ぬ気で走り、あと1分というところで校門が見えて来た。これならギリギリ間に合う。だが、学校の前には国道があって、渡らなければ、学校には着かない。そして、国道に着いた時、ちょうど信号が赤に変わってしまった。信号無視などもともとする気はないが、車の量が多く、信号無視をするなど不可能だ。信号はなかなか変わらない。イライラしながら足踏みをして、待つうちに学校のチャイムが鳴り始めるのが聞こえてきた。

 まずい。鳴り終わるまでに校門を通らないと遅刻になってしまう。信号が青に変わったとたん猛ダッシュをする。まだチャイムは鳴っている。僕が横断歩道を渡り終えたと同時にチャイムの音が消えた。校門が無情にも閉じられていく。

 校門の前に立っている生徒指導の先生がニコニコ笑いながら、僕を見た。

「はい。アウト。なんだ澤田じゃないか。澤田が遅刻とは珍しいな。何かあったのか」

「いえ、単なる寝坊です」

 迷い子の家探しをしていましたと言い訳をしたいところだが、チイちゃんのお母さんやフロントウーマンに迷惑がかかるかもしれないのでそんなことは言えない。

「そうか。あとで反省文を出しとけよ」

 反省文は書きます。何十枚でも書きます。だから、遅刻したことを無しにしてくれないよな。

「はあー、分かりました」

 先生は僕の名前を手帳にメモしてから校門を開けてくれた。

 うーっ。唯一自慢の無遅刻無欠席が途切れてしまった。

「石野。また、遅刻か。何回目だ」

 先生の呆れたような声が後ろから聞こえてくる。

 何かボソボソ言う女子の声が聞こえた。きっとあのマンションに住んでいる女子だろう。

 石野って言うのか。石野ってどこかで聞いたことがあるような気がするが、思い出せない。

 教室に入って、窓側一番後ろの自分の席に座ると、机に突っ伏した。

「どうした、隆司。遅刻か? 珍しいな」

 僕の前に座っている山崎紀夫が振り向いた。紀夫は小学校、中学、高校の12年間で9回同じクラスになったという僕の人生のほぼ半分を一緒に過ごしたと言っても言い過ぎではない人見知りの僕にとっては気安く話ができる唯一の友人だ。

「ああ、最悪だ。今まで続いていた無遅刻無欠席が……」

「それだけこだわっているならなんで遅刻したんだ?」

「迷い子の家探しをしていた」

「お前らしいな。たしか、小学校と中学校の時もそんなこと言って遅刻したよな」

 紀夫が笑う。僕は小学生の時も中学生の時も遅刻をして、無遅刻無欠席を逃している。

「あれは違う。小学校の時はOL風の人が定期を落としたって言うから一緒に探してたんだ。中学の時はおばあさんが駅への道が分からないって言うから駅まで送ったんだ」

「お前は本当に呆れるほど人がいいな」

「困った人を見たらほっとけないんだよ。あの国道の信号さえ青だったら間に合ったのに」

「まあ、悪い後はいいって、よく言うからな。きっとこれからいいことがあるよ」


 ところが、紀夫の言葉はまったく外れていた。次から次へと悪いことが起こる。慌てて家を出てきたために教科書を忘れていたり、せっかくやった宿題を家に忘れてきて先生に怒られたり、寝不足で頭がボーっとしていたためか体育の授業で転んだりと、さんざんな1日だった。

「やっと終わった」

 終礼が終わると、朝と同じように机に突っ伏した。今日は異常に長い1日だった。

「ハハハハハ。散々な1日だったよな」

 紀夫が鞄を持って、立ち上がると笑った。

「帰るのか?」

「いや、クラブに行ってくる」

 紀夫は陸上部に入っている。勉強はあまりできないが、身長180センチで痩せマッチョの紀夫は短距離が得意で、200メートルでは、あと一歩でインターハイに出場できるところまでいったことがある。ただ、3年生は受験があるので、クラブは夏休み前で引退することになっていて、紀夫も引退しているはずだが……。

 「カノジョと一緒に帰ろうと思って」

 そうだった。本来なら運動神経のいい紀夫はモテるはずだが、顔がサル顔でまったくモテない。僕と同じで年齢と同じだけのカノジョいない歴であった紀夫だったが、クラブの引退の日に2年生の後輩に告られて付き合い出したんだった。引退してからも、時々クラブに顔を出して、後輩たちと練習をしてからカノジョと一緒に帰ったりしている。

「そうか」

「隆司は帰るのか?」

「今日は図書委員会があるから、今から図書室だ」

「なんか今日はついてないみたいだから気をつけろよ」

 紀夫が笑いながら手を振って教室を出て行く。

 僕は大きな溜息をつくと、立ち上がり、図書室に向かった。

 僕は3年間図書委員をしている。図書委員など全然なる気はなかったが、1年生の時に澤田は本好きだから図書委員やれよとクラスメイトに言われてなったのがきっかけで3年間図書委員をやるはめになった。別に、僕は図書委員をやることが嫌ではない。クラスメイトが言うように本好きだし、図書委員の仕事といっても二週間に一度ぐらいに当番が回ってきて、本を借りに来た人や返しに来た人の手続きをして、返却を受けた本を書架に返すだけだからそんなに大変でもない。貸し出しや返却の手続きも本のバーコードと全校生徒や教職員が持っている図書カードのバーコードをパソコンに読み取らせればいいだけだから簡単だ。手が空けば図書室の本を読んでもいいことになっているので、本好きの僕にとってはうってつけの仕事だ。

 図書の管理などは司書資格を持っている先生が専属でやっているので図書委員が何かする必要はない。あとは月1回開かれる図書委員会に出席することぐらいだ。

 ただ、今年は僕にもう一つ役割が増えた。図書委員長になってしまった。図書委員長といってもすることは図書委員会の司会と月1回ある生徒会の会議に出席するぐらいだ。

 図書委員会の司会は司書の先生が必要な話をしてくれるので、後は『質問や意見はありませんか?』とか聞けば、意見や質問がある人がして、先生がそれに答えてくれる。生徒会でしゃべることもこんな本が入りましたとか、返却期限を守ってくださいとか決まっていることを言えばいいのでなんの煩わしさもない。クラブに入っていない僕にとってはちょうどいい暇つぶしぐらいに思えた。

 僕が図書室に入ると、すでに各学年の図書委員が集まっていた。しばらく待っていると、司書の先生が入ってきたのでいつもどおりに会議を始める。ひと通り先生の話が終わり、最後に「何か意見はありませんか」と聞いた。いつもなら何もないということで簡単に会議は終わるのだが、今日は違った。

「一つ忘れてたわ」

 司書の先生が思い出したように口を開いた。

「1学期に3年生の図書員が病気で休学しているって言ったけど、2学期に別の人が図書委員になったと聞いたんだけど、その人も当番に来ないんだけど。今日も来てないみたいだし。誰か知っている?」

 委員が1人休学しているという話は聞いていて、その分は先生がフォローすると言っていた。

「誰だよ? その新しい図書委員って」

「本当よ。私たちも委員だから嫌でもやっているのに。サボるなんて」

「そうよ。そうよ」

 ほかの委員たちが口々に文句を言いだす。図書委員は各学年の全クラスから1人ずつ出ている。全学年6クラスあるので、委員は全員で18人。その18人を2人ずつに分けて当番を回している。

「それって3年D組じゃないの? たしか、2学期から石野さんに代わったって聞いたけど」

 誰かが言った。

「石野さんって、私はよく知らないんだけど、誰か知っている人いる」

 先生が教室を見渡す。

 よりによって石野さんか。3年生全員の顔が渋くなる。

 うちの学校は私立で、不良やヤンキーというたぐいの生徒は1人もいないという大変珍しい学校だ。

 そんな中で石野さんは異色の存在だった。石野さんとはクラスが違うから直接は知らないし、噂しか知らない。

石野さんは2年生の時にうちの高校に転入してきた。どこから転入してきたのかなぜか誰も知らない。

 石野さんは転入初日から目立っていた。身長170センチ近くあり、切れ長の目で、鼻も高く、薄い小さな唇の美人顔にギャルメイクをしていて、手足も長いモデルのようなスタイル、腰まである髪の毛を明るいブラウンに染め、制服は着ているもののスカートは膝上30センチという下着が見えるのではないかという短さで登校してきたらしい。

 これはあくまでも噂だが、髪の毛を染めていることやスカートの長さ、メイクの濃さは、さすがに校則違反だろうと先生の間で問題になったそうだ。

 だが、うちの高校は自由な校風というのを売りにしていて、もともと素行の悪い生徒がこれまでいなかったこともあり、校則が曖昧で身なりについては「高校生らしい身なりをすること」となっているだけだった。

 だが、「高校生らしい」というのは曖昧過ぎる。高校によっては私服OKのところもあり、膝上30センチのスカートでも何も言われない高校もあるらしいし、意見は多々あるだろうが、髪の毛を染めている高校生もいるので、髪を染めているから高校生らしくないとも言えない。メイクもうちの高校でも薄くだがしている子もいるので、どこまでのメイクをしてはいけないという基準もない。

 いっそうのこと校則を変えたらどうだという意見も出たらしいが、石野さんを狙い撃ちするような校則変更はまずいのではないかということと、これもあくまでも噂だが、石野さんの転入には理事長が関係しているということで、黙認になったということを聞いたことがある。

 石野さんは入学してからも授業態度や生活態度もあまりよくなくクラスの中でも浮いた存在だという噂だ。

「担任の先生を通じて、委員会や当番に出るように言ってもらっているはずなんだけど……ひょっとしたら、うまく伝わってないかもしれないから、同じ3年生の人で、誰か石野さんに説明に行ってくれないかしら。3年生の人で石野さんと親しい人はいない?」

 先生が3年生の顔を見回す。石野さんと親しい人は3年生はおろかこの学校中を探してもなかなかいないだろう。男関係が派手だという噂もあるから、ひょっとしたら男子の中には知り合いがいるかもと思ったが、誰も名乗りを上げない。

「委員長がいいと思います」

 3年生の1人が声を出した。

「そうね。委員長も3年生なんだから、委員長が適任だと思います」

 僕以外の3年生の全員が賛成の声を上げている。みんなの視線が僕に集中した。

「えっ、僕?」

 僕は石野さんのことをまったく知らない。当然喋ったこともない。遠くから見たことはあるが、背の高い子だなと思っただけだ。

 いや、すれ違ったことはあるか。チイちゃんのマンションと通学途中の道で。

 だが、ただそれだけだ。そんな僕が行って石野さんが話を聞いてくれるだろうか。

 だが、みんなが僕に押し付けようとしているのは明らかだ。それも相手が石野さんなら仕方がないか。それに僕は委員長だ。当然の役目だろう。

「分かりました。でも、当番に来てもらえるかどうか分かりませんよ」

 話しに行けと言われれば行くが、ちゃんと当番にきてくれるかどうかまでは責任を持てない。

「それは仕方ないわ。とにかく行ってみて。もし、だめなら担任の先生と話をして、委員を他の人に変えてもらうことも考えてもらうわ」

「はい。分かりました」

 しかし、本当に今日はついていない。

 さらに、明日はあの石野さんと話さなければいかないかと思うと、気が重い。

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