第6話

 私はなくなった煙草を買いにコンビニまで向かったが、その道中、飲み会の場での詩織の発言を思い返していた。詩織は、「その頃の私はいなくなっちゃってる」とハッキリと言っていた。みんなが思うようなすごい人ではない、でも、高校卒業してから変わっちゃってさ、でもなかった。彼女は、高校生時代の自分を周囲に聞くことを通して、今の自分ではなく、過去の自分を知ろうとしていた。彼女は、高校生時代の自分が確かなものではなくなってしまう何かを経験した、私はそう考えた。高校卒業後、彼女の身に起きたなにかによって、すでに経験済みの、確かな事実のみが残る過去が揺らいで、薄れてしまった。だから彼女は、信頼できない自分ではなく、過去の自分を知っている第三者に話を聞き、自分の記憶を補充しようとした。彼女が飲み会に参加したのは、そもそもこの過去の補完作業を進めるためだったのか。

 ほどなくしてコンビニについた私は、レジへと直行し、いつもよりタールの重いアメリカンスピリットを頼んだ。初めて買ったときのように、私は店を出て間もなく外箱のフィルムを剥がした。蓋をぱかっと開ける。すると中はまだもう一枚紙の中蓋が折りたたまれており、彼女をすぐにお目にかかることができない。私はじらすようにして、ゆっくりとその紙を除けた。ぎっしりと敷き詰められた煙草は、お互いがお互いを固定して、簡単には取り出すことができない。近づけて匂いを嗅ぐと、やはり紅茶のような、甘い香りがする。私は取り出す一本に狙いを定めると、爪でカリカリと引っかき、突破口ができた部分を強く摘まんで引き上げた。フィルターの一部が押しつぶされ、中からするすると一本の煙草が出てくる。その一本の周りの数本が付随して持ち上がり、出鱈目な音が鳴るチューブラーベルのようであった。私はそれらを指でとんっとなかに戻し、器用に片手で中蓋の紙を折りたたんで外箱の蓋を閉めた。

 ポケットの中からライターを取り出し、口にくわえた煙草に火を点ける。一吸い目をふかすと、いつもより淀みの強い感触の煙が口の中に溜まっていくのがわかった。強い息でそれを吐き出し、今度は弱い息でじっくりと煙草葉を燃焼させて吸い込んだ。一度煙草を離し、そのままの口の形で舌を使って外気を口内に取り入れる。口当たりがマイルドになったところで、ほっ、と素早く肺に落とし込む。どっしりとした重たいキック感と一緒に、気道が一瞬大きく広がったような感覚。息を吐き出すとき、思わず声が漏れた。私は、軽く一酸化炭素中毒を起こして考えがまどろむ世界の中、ふらふらと自分のアパートへと戻るのであった。



 長いと思っていた二か月間も、終わってしまえばあっという間だった。私はこの夏、休みらしいことと言えばお盆に帰省し、旧友と再会したくらいであった。もともと夏休み以前の生活も、ほとんど休みのようなものであったため、余計に休みらしさを感じることもなく大学一年生の夏を終えた。この夏を通して私に残ったのは、以前より少しマシになった生活習慣と、詩織との思い出だけだった。とりわけ詩織と過ごした夜のことは私の脳裏に強烈に焼き付けられ、その証拠に、私はしばしば彼女の夢を見るようになっていた。

 彼女は夢の中で、なぜかあの日北川が着ていた黒のワンピースを身に纏っていた。そして私と彼女は、彼女の整頓された部屋の中にいて、お互いを見つめ合っているのだった。

「詩織、俺お前に会いたかったよ、ずっと」

「今の私は、君が会いたがっていた私とは別人かもよ?」

「それでも構わない。証明できないことは仮定するしかない。そうだろ?」

「じゃあどうしたら納得してくれる?私はどうやってそれを証明すればいい?」

「今の君が、かつての君とは本当に別人であるということを?」

 彼女は困ったような顔を見せて、本棚のある所まで歩いていく。しゃがみ込み、数冊手に取って綺麗なテキストをパラパラとめくる。それから、ぼろぼろになった『星の王子さま』をじっくりと読んで、何かを閃いたように、軽い足取りで私の前へとやってくる。

「それじゃこうしない?これから私は君の今座っているベッドでいつも通り寝始める。そしたら、君はそこのクローゼットの中に隠れて待っているの。これから毎日、欠かさずそうして。いつかきっと、君は目にすることになる。夜明けまでの間に、誰かが私の部屋に入ってきて」

「ベッドですやすや眠る詩織を殺して、別人と入れ替えてしまう、絶対的な証明を」

 詩織は優しく微笑んで、ベッドの中へと潜っていく。私は言われた通り、彼女の使っている、柔軟剤の柚子の香りが充満するクローゼットへと潜む。

 夢の中でのことなのか、現実世界でのことなのか、よくわからない曖昧模糊とした意識の中で、私は朝を向かえる。彼女の部屋にいた私はいつの間にか自分の部屋へと戻っているのだった。夢の中の彼女の態度にはいくつものバリエーションがあった。時として、彼女は風邪をひいて弱気になっていたり、生理がきていると言って、話している途中で「痛たたっ」とお腹を押さえながら座り込むときもあった。しかし、どんな時であろうと、いつでも彼女の服装は、薔薇の刺繍が印象的な、あの黒レースのワンピースであった。

 夢から醒めた私は、夢の続きを確かめるために、毎回彼女に電話をしたい思いに駆られた。何度も通話アプリを開き、「詩織 さんに発信しますか」の最後の選択画面にまで行っていた。だが最後の最後で、いつも私はかけることができなかった。詩織ともう一度話し、私の疑問が解消されてしまうと、二度と彼女の夢を見ることができない気がした。私はどうしても彼女に会いたかった。私は、彼女と会うために、むしろ彼女を自分から遠ざけていた。

 二学期が始まってすぐのうちは、入学したての頃よりも意欲的に授業を受けていた。一度正された生活習慣は、その慣性が働き私の授業態度を良好なものにしていた。相変わらず授業は毎週つまらない課題が出されるだけのものであったが、寝る以外特にすることがなかった私は、その課題をこなすことで時間を潰した。

 だがそれも長くは続かなかった。私は詩織に会いたい気持ちを抑えきれず、授業をさぼってよく眠るようになった。その私の気持ちに応えるかのように、詩織が夢に出てくる回数は確実に増えていった。しかも、ただ出てくる日が増えただけでなく、今までよりもリアルに、そして鮮明になっていくのだった。彼女がシャワーから戻ってきたときの柚子のような香りも、はっきりと感じることができた。彼女はベッドに入ってからも、もう少しだけお話していこうよ、とクローゼットに向かう私を引き止めて、初めて恋をしたときの事を嬉々として私に話すときもあった。

 私は彼女から、誰かを好きになった、という話を聞いたことがなかった。バレー部では成績優秀で、学校行事には積極的に参加する。男女分け隔てなく接する彼女は、春の日差しのように温かく、誰からも好かれていた。しかし、彼女は告白されることこそあれ、誰かと付き合っている、というような噂は一度もなかった。その処女性がかえって思春期の男子を刺激し、妄想の中で彼女を汚す輩もいた。私は、そんな彼女の初恋の話を、ベッドで無防備に横たわる彼女の口から直接聞いた。無論、それは夢の中の出来事であったが、「今日の私を絶対に忘れないでね」と何回も念を押す彼女を見ていると、私は今にも息を吹き返しそうなリアリティを、ひしひしと感じるのであった。

 十一月、いよいよ紅葉も散っていき、本格的な冬の兆しを感じさせる、ある寒い夜、私は詩織にようやく会える、と興奮しながら床に就いた。その日の夢も、始まりは同じだった。彼女との短い問答があった後、彼女はベッドに、私はクローゼットに入った。いつもであれば、クローゼットの暗がりにいる私はいつの間にか眠りに落ちていて、微睡みの中でまぶしい光に起こされるはずだったが、その日は違った。私がクローゼットの隙間からじっと彼女を見ていると、彼女は安らかに寝息を立てて熟睡し始めた。すると、部屋の扉がゆっくりと開き、誰かが忍び寄ってくる音が聞こえた。私は息をのみ、彼女が言っていたことは本当だったのだ、と戦慄を覚えた。その影は一歩、また一歩と寝ている彼女に近づき、上から彼女を見下ろした。そして、おぼろげな月明かりによって、その影の顔が浮かび上がった。

 それは私だった。

 詩織を見下ろすその私は、クローゼットから様子をうかがっている私の存在に気づき、にっこりと笑うと、人差し指を口元に当て、しーっ、と子供のように舌を出した。なおも状況が飲み込めていない私を差し置いて、その私は詩織の首に手をかけた。気配に気づいた彼女は目を覚まし、首にかけられた私の手の上に自分の手を重ねた。嬉しい、あなたにだったら私、喜んで殺されるよ。なんて幸せなんだろう、私。あは、嫌だ、ちょっと濡れてきちゃったかも。それに対して私は何も返さず、ぐっ、と力を入れて彼女の首を絞めた。彼女の目はみるみる充血していき、うるんだ瞳からは涙がこぼれた。かはっ、と乾いた咳をする彼女から、蹴られ、ひっかかれてもその力を弱めることはせず、彼女の足がピンと伸び痙攣したのち、完全に静止するまで、私はずっと彼女の首を絞め続けていた。

 目を覚ました私は、転がっている瓶に足を取られそうになりながらトイレへと向かい、激しく嘔吐した。吐いても吐いても止まらず、体中の体液という体液をすべて出し切ったような気がした。何本もネバついた唾が糸をひき、便器と私とを蜘蛛の巣のようにつないだ。私はそのまま倒れ込み、嘔吐きながら泣いた。口の中に涙が入ってきて、痛いほどの酸味と混じり、その味の気持ち悪さに私はまた吐いた。吐くために顔を便器の中へと近づける。便器の淵の黒ずみが見え、今の自分の醜さに比べたらこの黒ずみの方がまだ綺麗だと思った。

 その日を境に、彼女の夢を見ることはなくなった。

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