第3話

「まあ適当に座ってよ」

 詩織の部屋は、およそ女子の部屋と識別されるものではなかった。もこもことしたカーペットもなければ、手ごろなクッションもない。ただ、ベッドとデスクと、本棚に多少の本があるだけで、ビジネスホテルよりもさらに質素な部屋だった。ベッドに腰掛けるのは気が引けたので、私は学習デスクに付属した、緩くカーブを描いたL字のチェアに座った。

「私先シャワー浴びちゃうね」

 彼女はテキパキと着替えやタオルを用意して、パタン、と部屋を出ていった。しばらくすると、シャワーの流れる音がしてきた。いつの間につけていたのか、エアコンが稼働していた。水と風の音が絶えず聞こえてくる。じっと動かないでいると、この無機質な部屋の一部になってしまいそうだった。不安に駆られた私は、この部屋で唯一彼女の色がでている本棚を物色することにした。木目調で、腰くらいまでの高さのその本棚には、主に彼女が大学で使っているテキストが入っていた。彼女は心理学科に進んだと聞いたので、てっきりその類のテキストが多いのかと思っていたが、本棚のラインナップは、経営学、化学、法学、とジャンルを問わず様々なテキストが並んでいた。何冊か手に取ってパラパラとめくってみると、どれも折り目やマーカーなどもなく、新品同様、綺麗な状態で使われていた。カバーによれなどもなかったため、私は大学生協の新入生向け教科書コーナーに来たのかと錯覚するほどであった。だから余計に、一冊だけヤケていてボロボロになっている『星の王子さま』が目立っていた。中を見なくても、外観だけで彼女にとってその本が一番デリケートな部分であることが分かった。

 本棚を物色し終えた私は、先ほどの椅子に戻り、今度は机に向かってみた。机の上にはノートパソコンが一台おいてあるだけで、他にはなにもなかった。興味をなくした私は、スマートフォンを取り出し、随分前にアカウントを消した写真投稿アプリを開いた。匿名でアカウントを作り直した私は、時折こうして気になる人を探してみるのだった。詩織の名前で検索すると、彼女はすぐに見つかった。そのSNS上で彼女は、誰もが羨む生活を送っている女子大生だった。入学前にすでにサークルに入っていたようで、その友人たちとカフェ巡りをしている写真。誕生日プレゼントでもらったというデパ地下コスメの写真。リプライ欄にはコメントが続き、実に楽しそうだった。今日の飲み会の様子も、ストーリーとして三十秒くらいの動画にまとめられて投稿されていた。お酒を飲んでいたと推測されそうなシーンはカットされ、久々の再開を心から喜ぶ私たちの姿が映っていた。

 蛇口を閉めるきゅっきゅっという音が聞こえ、ほどなくして髪を丁寧に拭きながら彼女が部屋に戻ってきた。彼女からは柑橘系の匂いがした。

「お待たせ。新しいタオルと、適当な服お風呂場の出たとこのかごに入ってるから使って」

「ありがと。ついでに歯も磨いてくる」私はそう言って、ここに来るまでの間に買っておいた歯ブラシセットとパンツをもって、彼女と入れ替わりでお風呂場へと向かった。

 彼女のすぐ後に入ると、彼女が入っていた時の温度感がまだ残っている状態で入ることになる。私にはそれが、ばつが悪い思いがして、歯磨きをしてお風呂場が冷めるのを待つことにした。トラベル用の小さいハミガキ粉のチューブを押し、歯ブラシの上部がすべて覆われるくらいの量を出す。私は歯を磨きながら、なぜ私が着られるような服が詩織の部屋にあるのかを考えた。彼女の普段の様子を知っていれば、この部屋に来た瞬間とてつもなく機械的な雰囲気に圧倒され、適当な理由をつけて帰ってしまうだろう。誰かが置いて行ったものだとは考えられなかった。私でさえ、ここに来る前に駅のベンチで詩織の今まで知らなかった一面を知らなかったら、この部屋に泊まることはできなかっただろう。考えてもはっきりしないもやもやと一緒に口の中のものを水に流し、私はシャワーを浴びることにした。小さな浴槽もついているバスは私のアパートのそれよりも広々としており、シャンプーをしていても肘が壁にぶつかることはなかった。

 シャワーから上がり、身体を拭いていると、詩織がドライヤーで髪を乾かす音が聞こえた。詩織が普段使っている洗剤を使い、詩織の匂いがするタオルで髪を拭く。誰のかわからない灰色のスウェットがなければ、私は完全にこの部屋全体に擬態してしまうところであった。詩織は水を飲みに中から出てくると、

「サイズ、ちょうどいいね」と私を一瞬見てそう言い、愛想のない黒のマグカップで水道水をごくごく飲んだ。

「あ、そうだ。着てた服、全部私のと一緒に洗濯始めちゃったけど、よかったよね」

「うん、ありがと」私は、自分が今日どんな服を着ていたか思い出せなかった。

 詩織のベッドまで移動し、断りをいれずにドライヤーを使った。戻ってきた詩織がなにか言ってほほ笑んだが、ドライヤーの音にかき消されて何を言っているのかわからなかった。髪を乾かし終えたとき、自分がごく自然にベッドに腰掛けていることに気が付いた。詩織はしばらく立った状態でスマートフォンをいじっていたが、それをデスクの上に置くと、私の隣に座った。

「なんか、さっきのベンチみたい」

「また水買ってきてあげようか?」

「水はいらないけど、あの時みたいに話をしようよ」

「詩織が、毎日別人に入れ替わっているかもしれない、っていう話?」

「そう。それから、自分を考えれば考えるほど、誰かわからなくなってしまう話も」

 彼女は、私と話をすることで、今日という日を絶対的なものにしようとしている。私もまた、底なしに背進する自分の存在を、彼女の中に見出そうとしている。

「高校生の時の俺たちはさ、こんな話題、思いつくことすらなかった」

「思いついたとしても、とてもじゃないけど言えなかったよね」

「それもそうだ。こうやって久しぶりに詩織と話していると、高校生の時に俺が知っていた詩織は、詩織の一つの側面でしかなかったんだなって思ってさ。当たり前のことに、心底驚くよ」それは、私の抱いた率直な感想だった。

「惜しいな。でも実はそんなありきたりなことじゃないんだよ、本当は。私が高校生の時に周りに見せていた、天真爛漫な私は、間違いなく完全に私だった。裏も表もなく、当然側面なんて複雑な構造もなかった」

 だが、あの時の彼女が完全に詩織であったとするなら、今目の前にる彼女は、全くの別人であることになる。それくらい、あの時の詩織は陰りを全く感じさせない存在だったし、今の詩織はにごり酒のように、魅力的だが不透明で、中を透かして見ることができないような存在となっていた。

「でも、人間なら誰だって二面性があると思う」飲み会で次から次へと嘘を重ねていた私はいわば表であり、心の内を詩織に話す今の私はどちらかといえば裏に近かい。私は元来、そのように人間は多面的な存在であるという認識でいた。

「確かに、本音と建前とを使い分けて、まるで二つの人格があるかのように振舞う人もいる。接する相手が家族か友人かで、話し方も二人称も変わる。でも、そのどれをとっても、紛れもなく私は私だし、あなたはあなたなの。私は、私という鎖を完全に断ち切ることはできない」

「本音と建前があるなら、見かけの自分と誰にも見せたことがない自分とがいるなら、確固たる自分というのはやっぱり存在するんじゃないの?」

「ううん、やっぱりどちらの自分も、同じくらい確かな自分なの。偽の自分だと思っている自分は、真の自分だと思っている自分によってのみ存在できる。同じように、真の自分は偽の自分によってのみ存在できる。お互いが支えあって、せめぎ合って、求めあってるんだよ」

「普通のジンジャ―ハイに対して、真のジンジャ―ハイがあるみたいに?」

「そう。私達は、普通のジンジャ―ハイを知っているから、真のジンジャ―ハイを真実だと思える。でも、どちらもジンジャ―ハイである以上、絶対にジンジャ―ハイからは逃れられない。ただのハイボールになりたくても、一度入れられたショウガを取り除くことはできない」

「経験した事実をなかったことにはできない」

「時には、炭酸みたいに、時間が経つと抜けていっちゃうこともあるけどね」詩織はそう言うと、本棚に向かった。本棚に唯一ある小説の、『星の王子様』を手に取ると、そのまま私の方へ振り返った。

「この本、私すごく好きなの。小さいころ親戚のお姉ちゃんからもらったんだけど、もう何回読んだかわからないや」

「俺も小学生の頃読んだことあるよ。内容ほとんど忘れたけど」

「朗読してあげようか?」冗談交じりで彼女はそう言ったが、詩織の、はりのある声で聴いてみたいと思った。

「この小説に出てくる、キツネがね、こう言うの。“いちばんたいせつなことは、目に見えない”って。さすがにここくらいは覚えてるんじゃない?」私は軽く頷いた。

「私はね、これは間違いだと思うの。ほら、キツネって人を化かすっていうじゃない?フランスでどういう象徴の動物として考えられているかわからないけど。それでね、キツネは王子さまに間違いを教えて、だましてるんじゃないか、って思うんだ」

「随分ひねくれた読み方をするんだね。それを聞いたら、きっと小学生の俺は怒り出す」

「小さなころの君が怒るのも無理ないよ。だって、キツネは私みたいな読み方をする人を攻撃するように、洗脳しているんだから」

「詩織はどうしてキツネの言っていることは間違いだと思うの?」

「いい質問だね。高校生の頃さ、数学で、命題がどうたら、って単元やったの覚えてる?」

「懐かしいな。真か偽か、っていうあれだろ?」

 詩織は、私数学苦手だったんだけどさー、と言いながら、本を片手に再び私の横に座った。

「その中でさ、元の命題と、対偶の命題の真偽は一致する、っていう法則があったじゃん」私はまだ詩織の心意をわかりかねていた。

「ここで問題です。“いちばんたいせつなことは、目に見えない”という命題の対偶を答えてください」詩織はふふん、と鼻をならして、手品を披露する前に、観客の私に種も仕掛けもないことを確認させるように迫った。

「自信ないけど、“目に見えるならば、いちばんたいせつなことではない”、かな」数ヶ月前まで必死で勉強していた内容は、すでに私の頭から抜けてしまっていた。

「正解です。簡単すぎた?じゃあ、ここで問題ではなく質問です。“目に見えるならば、いちばんたいせつなことではない”、この命題は、真だと思いますか?」

「概ね合ってるんじゃないかな。仮に偽だとすると、目の見えない人は“いちばんたいせつなこと”を見つけられない。でも、俺にはそうは思えない」

「でも、目の見える人が、その“いちばんたいせつなこと”を詳細に説明してあげればいいんじゃない?人間はお互いに足りないところを補い合って生きているんだし」

「それだと完全には伝わらない。言葉には限界がある」

「言葉で表現できないものを、どうやって“いちばんたいせつなこと”として理解するの?」

「それはきっと、言葉とか感覚というのを超えて理解するものなんじゃないかな。観念的に、抽象的に」

「あるいは形而上的に?」

「あるいは」

 詩織は私の答えに納得したように、なるほどなるほど、と私の答えを反芻するようにうなずいた。

「でも私にはわかる。“目に見えるならば、いちばんたいせつなことではない”、っていうのは、真だとは言い難い。だって、今この瞬間、目の前に広がっている景色が、私にとって一番大切であって、世界にとってこの時間、この空間こそが真だから」

「俺の見えない部分はどうなるの?俺が今すぐにでも詩織を押し倒したい、と考えているケダモノだとしたら、それでも目の前に映る誠実そうな俺こそが真だと言える?」

「なに、私のこと押し倒したいの?それに自分のこと誠実そうって」詩織は笑って茶化した後、また真面目な顔に戻って言った。

「それでも、私は変わらずこの瞬間を真と言うよ。見えない部分とか、考えられないことは、存在することを仮定することはできるけど、証明はできない。それらのことが明らかになってしまえば、証明する必要もなくなる」詩織はそっと本を床に置いた。

「いいんだよ、君が考えていることを行動に移して。私にとっては、それが真だから。君が私とそういうことがしたい、っていう気持ちは偽物?」

 私はそう言われて、心の中でふつふつと彼女を汚したい気持ちが湧いてくるのを感じた。彼女の言葉が私の耳から侵入し、脳に達して、シナプスに直接働きかける。私は糸で操られるかのように、詩織の肩に両手をのせて、そのままゆっくりと枕の方へ寝させるようにして押し倒した。

「こうやって、キツネにも教えてほしかったな。ずるいよね、自分だって偶々理解できただけなのに、全然教えてくれないんだもん」目の充血はとっくに収まっていたが、彼女の目はやはりとろりとして潤っていた。

「詩織の話にのっただけで、俺は別に詩織とそういうことがしたいわけじゃない」

「でも現に私は押し倒されているよ」

「俺がこの体制をやめて、またさっきみたいに座りなおせば、証明できるか?」

「それは、押し倒してみたものの、あと一歩の勇気が出なくてやめたヘタレの証明にはなるね」

「あまりにも自分本位だ」

「私だけじゃなくて、世界もきっとそう判断する」

 私は、彼女の豊潤な唇にキスをした。そうすることで、彼女とキスをする気がないことを示そうとした。口を離して一度身体を支えている手の位置を変えようとしたが、彼女は私の首に腕をまわし、頭を浮かして続けざまにしてきた。私の下唇を彼女の厚い唇で挟み、緩急をつけて食む。そのまま弱い力で、彼女の口の中へと私の下唇が吸い込まれていく。ぬるっとした感触の彼女の舌が、口の中で左右に動いている。私はくすぐったさから身を捩り、そのまま彼女の上へと体重を預ける。彼女は私の首の後ろに回していた腕を一度離し、今度は細い人差し指で私の耳を軽くひっかくように撫でる。ぞわぞわっとするような、微妙な電気が脳天から腰にかけて走る。私が吐息を漏らして口を半開きにすると、彼女の舌が今度は私の上顎を愛撫する。そのお礼に、私は彼女の舌を口全体を使って包み込み、優しく吸い上げる。彼女は、んっと甘い声を出し、腰をくねらせて私の右足に両足を絡めた。耳をいじっていた人差し指が耳の穴に入れられ、私は彼女に聴覚を奪われた。激しさを増すキスの、ちゅぱ、じゅる、っという水音が脳内に反響する。脳みそのしわ一つ一つに、彼女の体液が浸透していくような感覚。脳みそは限界まで彼女の体液を含み、頭がどんどん重たくなるのを感じる。彼女が吐息を漏らす度、心臓がどくっ、どくっと強く打つ。脈拍が早くなり、彼女の出す声が、水音が、息遣いが、私の体内を循環していく。彼女から送られてくる艶っぽい情報は、私の体に蓄積さえていき、体中に充満するが、なおも止まらなかった。私の陰茎はかつてないほどぱんぱんに膨れ上がり、彼女が足を動かす度にパンツの裏側が擦れて、その一瞬の刺激で果てそうなほどであった。

「こんな夜を過ごしても、この経験を今まさにしている私は、明日別の人になっちゃってるかもしれない。どうせ殺されるなら私、あなたがいいな」詩織はそう言って、私の首筋を舐め、軽く力を入れて吸った。


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