第3話

 気がつけば佳純が家に来て1ヶ月が過ぎていた。相変わらずただの幼なじみのまま、日々を過ごしていた。トントンとリズムのよい包丁の音で目が覚める。起き上がりキッチンを見ると佳純の後ろ姿を見つけて少しほっとする。


「おはよう」


「あ、慎ちゃんおはよう」


 ごめん起こしちゃった? と相変わらずの笑顔を慎太郎に向ける佳純。この笑顔を自分のものにしたい。でも慎太郎にはそんな勇気がなかった。今日も美味しそうな朝食がテーブルに並べられている。幸せなのに素直に喜べない自分が許せない。いただきますと声を合わせ、いつものように向かい合わせで朝食を食べる。


「美味しい」


「慎ちゃんがいつも美味しいって言って食べてくれるから嬉しい」


 屈託のないその笑顔を見ると肝心なことが何も言えなかった。


「今日夜が遅くなるから飯はいらないし、先に寝てていいよ」


 慎太郎は家を出る前に見送ってくれる佳純にそう言った。慎太郎は今日、会社の飲み会に参加する予定だった。


「飲み会? だったよね」


「うん。なるべく早く帰るようにはするけど」


「そう、分かった」


 佳純はそう言うと気をつけてねと笑顔で手を振る。慎太郎も同じように手を振り、扉を閉めた。



 あまり気の乗らない飲み会だが、付き合いだから仕方ない。飲み会に行くぐらいなら佳純とテレビを見て過ごしていたい。わいわいと騒いでいる同僚達を見ながら慎太郎はぼんやりと考えていた。


「ところでお前彼女出来たのか?」


 ぼーっとしていたら仲の良い先輩からそう聞かれた。いつも聞かれたらいないと即答するのに今は出来なかった。


「出来たら言いますって」


 そう言ってとりあえず誤魔化すと先輩は慎太郎の肩に手を回す。


「そろそろ結婚も考えないといけない歳だぞ?」


「まだ俺25っすよ?」


 慎太郎がそう言うとそんなこと言ってるとすぐ歳とるぞと先輩が言う。


「……まぁ、そのうち」


 慎太郎はそう言ってグラスに入っているビールを飲み干した。


 慎太郎だって何も考えていないわけじゃない。でも佳純に気持ちを伝えたとして、もしもOKじゃなかった場合、きっとこの生活は終わってしまうだろう。そうなるぐらいなら何もせずにこのまま過ごす方が幸せだと思った。


「おかわりお願いします」


「おぉ、今日は飲むねぇ」


 そう先輩に言われながらも慎太郎はビールを流し込んだ。まるで自分の心の穴を埋めるように。


 それから慎太郎は結構な勢いで飲んでしまった。色々考えていたらついお酒が進んでしまった。結局酔っ払った慎太郎は家が近い後輩の女の子、武田たけだ 智香子ちかこに付き添われて帰ることになった。


「先輩、大丈夫ですか?」


「大丈夫、大丈夫」


 そう言うと肩を貸してくれている武田さんが心配そうに慎太郎の顔を見る。


「武田さんもわざわざごめんね」


 情けない先輩で申し訳ないと思いながらそう言うと私は大丈夫ですと武田さんは前を真っ直ぐと見た。


 少し沈黙が流れる。武田さんはいつも真面目に仕事をしていて、クールで物静かなイメージがあった。あまりこうやって2人っきりで話すこともないので何を話そうかと思っていたら武田さんの方から沈黙を破った。


「私、先輩に聞きたいことがあるんです」


「何?」


 そう言うと真っ直ぐ向いていた武田さんは俺の方を向いた。


「先輩って好きな人とかいるんですか?」


「え?」


 てっきり仕事のことだと思っていた俺は全く見当違いの質問にたじろいでしまった。


「あ、別に聞いてみただけなんで……」


 そんなことをしている間に俺の答えも聞かずに武田さんはまた真っ直ぐと前を見る。


「武田さんはいるの?」


「いますけど……」


 街灯に照らされた武田さんの顔が少し赤くなっている気がした。この子もこんな顔をするのだと少し意外だった。


「誰? 営業部の誰か? 絶対誰にも言わないから教えてよ!」


 そう言うと絶対教えませんと武田さんは顔の前で手を振っている。それから何度聞いても教えてくれることはなかった。結局武田さんは家の前まで付いてきてくれた。


「ほんとありがとうね、それじゃ」


 そう言って慎太郎は鍵を取り出そうとする。しかしなかなか鞄の中から鍵が取り出せず、結局武田さんに手伝ってもらい、やっと鍵を開けて家の中へと入る。


 玄関の扉を開ければ電気がついており、中からパジャマ姿の佳純が出てきた。


「慎ちゃん……おかえり」


「佳純ただいま……ってまだ起きてたの? 寝てていいって言ったじゃん」


「だって慎ちゃんなかなか帰ってこないから」


 そんな会話を佳純としていると慎太郎の肩を持っていた武田さんがボソッと呟く。


「先輩、彼女いないって言ってたじゃないですか」


「え? ああ、彼女じゃなくて幼なじみだよ」


 そう言うと武田さんは煮えきれないような感じだった。佳純はそんな武田さんを見て少し会釈をする。それに合わせて武田さんも少し頭を下げた。


「武田さんありがと! また明日!」


「……お疲れ様でした」


 武田さんはそう言うとお辞儀をして足早に帰っていった。



 慎太郎はリビングまで歩き、ソファに倒れ込むように寝転がった。その様子を無言で佳純は見ていた。


「あの子、誰?」


 無言だった佳純が口を開いたかと思ったら慎太郎に向かってそう言った。


「同じ部署の後輩の女の子、心配だからって送ってくれた」


 そう言うと佳純の顔が一瞬曇ったような気がした。


「……あの子のこと好きなの?」


 いきなり何を言い出すのか思わずソファから落ちそうになった。そんな慎太郎に佳純は続ける。


「ちなみにあの子は慎ちゃんのこと好きだと思うよ」


「何でそんなこと分かるんだよ」


「女の勘」


 それだけ言うともう寝るねと佳純は部屋のドアを開ける。


「私ってただの幼なじみなんだね」


 バタンと扉が閉まる音だけが部屋に響く。


「佳純……」


 あんな佳純を今まで見たことがなかった。佳純がなぜあんなことを言ったのか、佳純が何を考えているのか、慎太郎は分からず頭を抱えた。


 あんなに酔っ払っていたはずなのに気がつけばもう酔いは覚めていた。

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