アニメファンがキャラソンを心待ちにする理由

「大河君、どうしたの?」


 華音の今にも萎れてしまいそうな声が、俺の耳にやっと届く。暗くて顔はよくわからないが、虚ろな顔で俺を見ているような気がした。

 ひょっとして、俺のハーモニカの音色を聞かれてしまったのだろうか。音が発散してしまい、何ひとつまとまらないまま、何も伝えることのできない、そんな音色。こんな調子で作曲なんてできるはずない。ただそれをもし華音に聞かれてしまったのだとしたら、華音はまた元気を失ってしまうかもしれない。俺はそんな華音の顔をもうこれ以上は見たくなかった。


「なんでもねぇよ」

「…………」


 俺の返答に対して、華音からは何もなかった。無言のまま、何も届かない。


 藤沢駅北口広場の、駅から一番遠い端っこの方。時間は十九時ともなるとやや静けさが漂っているが、俺はいつもこの場所でハーモニカを吹いている。この先に階段があり、俺や華音の住むマンションへ行くには必ずこの前を通る必要がある。なるほど。華音は今日の収録が終わって、たった今藤沢へ戻ってきたばかりなのだろう。俺の弱りきった脳は、ようやくそのことを理解したんだ。


 華音は相変わらず黙ったまま、その小さな円らな瞳で俺の顔を見つめていた。

 ……あれ? なんで黙ったままなのだろう?


「どうかしたのか?」


 どうやら様子がおかしかったのは、俺の方だけではなくて……。


「わたし、やっぱり歌いたいよぉ……」


 弱く今にも潰れてしまいそうな声。それは俺の声ではなく、華音の声だった。

 俺は右手でハーモニカを握りしめたまま、左手で華音の右肩に触れる。細くて冷たくなっていたその身体は、少し震えているようにも感じられた。少しだけ俺の左手に力を加える。するとほんの僅かばかりではあるが、華音の右肩が柔らかくなったことを確認する。


「何があったんだよ?」

「二週間後までにね、わたしの歌の収録をするんだって」

「二週間後!??」


 さっきと立場は逆転してしまっていたが、俺と違って、華音は弱々しい声音で正直に答えてきた。


「うん。アニメの制作会社の方が、もう待てないんだって」

「でも、お前はまだ……」

「もしわたしがそれまでに歌えなかったら、わたしの分だけ歌はなしになるって」

「…………」


 アニメ『六頭分のケーキ食べられますか』の主人公の六人姉妹、その六女である六海の分だけキャラクターソングがないということか。でも、そんなことって……。

 六人姉妹のうちの一人だけキャラクターソングが存在しないなんてことがあったら、世のアニメファンはどう思うだろう。そもそもキャラクターソングのアルバムとして、そんなの成立するのか? ……その責任全てを委ねられてしまったのは、華音だということになる。完全なキャラクターソングアルバムとしてこの世に生み出していくには、華音の歌声は絶対不可欠となりそうだ。


「わたしだけ歌えないなんて、そんなの絶対に嫌っ!!」

「華音……」


 華音はその場で立ち尽くしたまま、小さな悲鳴を吐き出していた。

 俺と華音は一体どこへ向かっているのだろう。俺は曲を作れず、華音は歌を歌えない。ぐるぐるとあちこちへ彷徨ってみても、結局は行き場所が見つからないまま、また元のこの場所へ戻ってきてしまっている。こんな調子で二週間後に収録なんてできるのか。

 だけど華音は絶対にそれを許さないだろう。そもそも華音は歌手になりたくて声優を始めたはず。ところがその大好きな歌を歌えないばかりに、せっかく掴み取った声優の仕事に大きな支障を与えている。……いや、そもそも声優の仕事って歌を歌うことだったのか?と当然そう思わないこともない。歌が歌えないと声優にもなれないなんて、一体いつの世からそうなってしまったというのか。

 とはいえ、ファンは待っているんだ。アニメの一つのコンテンツとして、アニメの中の一部分として、その声優たちの歌声を、きっと待っている。待っているに違いないんだ。


 ……という話でよかったんだよな???


「なぁ華音」

「…………」


 俺がそっと声をかけると、華音は黙ったまま上目遣いで俺の顔を見つめてきた。いつもの小動物の顔。確かに言葉こそ弱々しいが、ただその小さな瞳の中には間違えなく力強さが残っていた。

 俺と違って逃げることもせず、問題とちゃんと向き合ってる。だとしたら……。


「なんで俺と華音は、前に進めないのだろ?」

「前……?」


 その問題の本当の正体というものは、結局何なのか……?


「俺はピアノが弾けなくて、華音は歌を歌えない……その理由って、結局何だろ?」

「そんなの、理由なんてあるのかな?」

「俺は何かあると思ってる。そうでないと辻褄がどう考えても合わないんだ……」

「辻褄……?」


 こんな俺の仮説なんて、確証があるわけではない。華音に半信半疑があったとしても、それは仕方ないことだと思っていた。だけど華音は俺の話を聞こうとしてくれる。届くかはわからないけど、それでも可能性があるのだとしたら……。


「俺が書いた曲、『月神の讃歌』には、曲自身にそんな力はないってこと」


 華音はきょとんとしている。こんなわけのわからない話をされてもそれはそうか。


「あの曲が騒がれた頃、専門家とかいう偉い先生が言ってた気がするんだ。あの曲には脳内のドーパミンを大量に分泌させる可能性を秘めているって。でももし仮にそうだとしたら、あの曲自体にはその時の気持ちを高揚させるだけの力しかなくて、ピアノが弾けないとか歌が歌えないとか、そんな負の要素を生み出す力はないはずなんだ」

「それって、他に原因があったということ……?」

「そうだと思う。例えば俺の場合、俺はあの曲を書いた後、全てを否定された気分になった。俺が誰かのためにと思って書いた曲が、人を殺めた原因にされてしまって、何もかもが嫌になった状態であの曲をピアノで弾き続けた。つまりそれってピアノであの曲を弾き続けたことが原因なんじゃなくて、問題だったのはその前提条件でもある……」

「それって要するにさ……」


 すると華音は突然すっと背伸びをする。それがあまりにも唐突だったので俺が一瞬躊躇すると、その間さえも許されないまま、華音の両腕が俺の背中まで伸びてきた。気がつくとその細い両腕で、ぎゅっと力強く抱きしめられている。


「ちょっ……華音??」


 華音の力に握り締められた俺の両腕は、じんと痛みを感じるほどだった。


「わたしは大河君の曲、大好きだよ! 『月神の讃歌』も……ううん、他のどの曲もみんな聴いてた。だってわたし、大河君のあのチャンネルが元々大好きだったもん!!」

「でもお前はあの曲のせいで……」


 すると華音は首を横に振る。


「だからさ。これで、曲も書けるはずだよね?」

「えっ…………?」


 唐突の華音の言葉の意味を、俺はまだ飲み込めていなかった。ゆっくりとその言葉一つ一つを解釈していって、ようやく全てを理解するには数秒を要してしまったくらいだ。それほど唐突で、何が起きたのかわからないくらい、俺は若干パニックになっていたんだ。


 それにしても、ここは藤沢駅前。こんなとこクラスメイトにでも見られたりしたら……。だけど華音にとってそんなことはお構いなしだったようだ。

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