第17話 愛の女神様 拾
和島茨は自身の事をあまり語ろうとはしない。否、他人に語るべきプライベートが無いと言うのが正しい。
今はそうでも無いけれど、過去などは語るべき思い出を持ち合わせてはいない。
人によっては彼の過去を忌むべきと断ずる者もいるだろう。それほどまでに、彼の過去は凄惨であり、また現代日本にはありふれたものだった。
茨は望まれずして生まれた子供だ。
望まれぬ妊娠。望まれぬ出産。その結果、和島茨と言う少年が生まれたのだ。
彼の世話は基本的に祖母がしてくれていた。両親は茨に無関心で、時折茨に己の怒りをぶつけていた。
幼児期はそこまで酷くは無かった。祖母が護ってくれていたのもあるし、両親は世間体だけはある程度気にしていたからだ。
しかし、小学一年生を終えようとした矢先に、茨の唯一の寄る辺である祖母が他界した。
そこからだ。両親の虐待に火が付いたのは。
事あるごとに殴られた。気に入らない事があれば蹴られた。ご飯は食パン一枚なんてざらだった。給食だけが、茨の主食だった。
世間体を気にしながらも、茨は暴力を受けていた。
元々笑わない子供ではあったけれど、輪をかけて笑顔を見せなくなった。
そんな生活も長くは続かず、両親が離婚をした。
茨は父親に引き取られ、父親が離婚前から隠れて付き合っていた女を含めた三人で暮らし始めた。
けれども、茨の日々は変わらなかった。
成長をするにつれて、茨の顔は前妻である茨の実母に似てきた。それが、父と義母の癪に障ったのか、よく顔を殴られた。
通っていた小学校では皆が腫物に触れるように茨を扱った。教師は表面上は茨に優しかったけれど、内心では爆弾を抱えてしまった事を嘆いていた。
クラスメイトは誰も茨に声をかけない。そこにはまるで誰も居ないかのように扱う。幾ら体面を装ったところで、茨の異常に気付く者はいた。顔に青痣を作って登校していれば当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
親だって、子供を面倒なものからは遠ざけたいはずだ。だから、子供に言ったのだ。和島くんとは関わらないように、と。
茨に寄る辺は無い。茨はどこに居たって一人だった。
そんな折、茨に転機が訪れる。
茨に妹が出来たのだ。
両親は妹に夢中になった。望まれて生まれた妹。望んで生んだ我が子。可愛い可愛い我が子。
両親は妹に夢中だった。茨の存在を忘れるくらいに。
いや、実際には茨の存在を忘れた訳では無いのだろう。両親の中で茨の優先順位が下がっただけに過ぎない。
その日から、茨は両輪の興味関心から外れた。
見向きもされない日々が始まった。
ぽつんとテーブルに置かれた五百円。それをポケットに入れて、茨はスーパーでご飯を買った。それが、茨のお夕飯だった。
殴る事も、蹴る事も、怒りを向ける事も、両親は止めた。そんな事をしている暇があったら、愛しい我が子に向き合う時間にしたかったからだ。
事務的に、茨の事は処理される。
祖母に愛された記憶は既に消え去っている。そんな事もあったな程度の認識。ただの事実として、茨は受け止めていた。
元々感情を表に出すような子では無かった。けれど、度重なる暴力に加え、親の無関心が茨の心から感情を消し去った。
クラスメイトが笑ってる。なんで笑っているのか分からない。
両親が怒っている。なんで怒っているのか分からない。
先生が困ってる。なんで困っているのか分からない。
子供が泣いている。なんで泣いているのか分からない。
なんで、喜怒哀楽を表に出せる? 何がそんなに君達を揺さぶるの
人が、他人が、茨には分からなかった。
「……生きながら死んでるね、少年」
通学路。下を向きながら歩いていると、不意にそう声をかけられた。
立っていたのは黒のセーラー服に身を包んだ少女。
暗い表情をしているけれど、その顔は整っており、自然と周囲の目を惹き付けていた。
「少年。何か辛い事でもあったのかい?」
それはこちらの台詞だと言いたくなるくらい、少女の表情は暗かった。いや、違う。近付けば分かる。少女の場合は驚く程に肌が白いのだ。それこそ、まるで血の気が無いように思える程に。だから、表情が暗く感じたのだ。
腰をかがめ少女は茨に視線を合わせる。
しかし、茨は直ぐに少女から視線を外して帰路を辿る。
「おや」
少しだけ驚いたような声音。
少女に特に興味も無い。そもそも、茨は他人に興味が無い。何も湧き上がらない。何もそそられない。
「ふむ」
少女は思案するように頤に手を当てる。
「……うむ、決めたよ」
そして何かを思いついたのか、少女は歩き出す。
少女は茨に追いつき、するりと茨の手を掴んだ。
茨が少女の方を興味の無い目で見やれば、少女は薄く笑みを浮かべた。
「行こうか」
それだけ言って、少女は茨の手を引いて歩き出した。
茨は特に抵抗はしなかった。両親は茨の事など気にしない。帰りが遅くなろうと、何処へ行こうとも気にはしない。だからこそ、多少の寄り道なんてしても構わないだろう。幼いながらに、茨は冷静に考えていた。
二人で歩き、やがてたどり着いたのは古びた一軒家。
「入って」
茨の手を引いて、少女は古びた一軒家に足を踏み入れる。
「此処、私の家なの」
「……お邪魔します」
家と言われ、とりあえず茨はそう言った。それくらいの常識だけは持ち合わせていた。
上がると、茨は二階のとある一室に通された。
「座って待ってて」
茨は少女の言葉通り、床に座って待っていた。
ほどなくして少女は飲み物を手に持ってやって来た。
飲み物をテーブルに置いて、少女は茨の隣に座る。
「さて。それじゃあ、少年の事を聞かせてくれるかな? 私、君に興味津々なんだ」
にっと少女は笑う。が、その視線の先は茨に向けられていなかった。茨からほんのちょっぴり外れたところを、少女は見ていた。
「さ、君のお話しを」
少し考えて、茨は口を開いた。
話す事にデメリットは無い。学校の皆は知っていて、その周囲の人も知っていて、近所だって茨の家の事は知っている。なら、話してしまっても問題は無い。
すでに知れ渡っている事を話したところでその範囲が少しだけ広がる程度だ。
だから、話した。自分の身に降りかかった事全て。
と言っても、簡潔にだ。知らない人に懇切丁寧に話してやる義理も無い。
しかし、それだけで十分だったのだろう。
「ふーん、そっか」
少女は一つ笑みを浮かべた。
「大変だったんだね」
「そうだね」
否定はしない。殴られたり蹴られたりして痛かったのは事実なのだから。
「そっか」
言って、少女はなんの脈絡もなく茨を抱きしめた。
「大変だったね」
よしよしと、少女は茨の背中を優しく叩く。
少女の言葉に、少女の行動に、何も感じ入るものは無い。
それは茨には染み渡らない。それで茨は揺さぶられない。
でも、少しだけ温かいと思った。
「ん、ぅ……」
抱きしめられ、背中を叩かれ、気付けば寝入ってしまっていたらしい。
起き上がってみれば、どうやら自分はベッドに寝かされていたらしいという事が分かった。
「あれ?」
部屋に少女の姿は無い。それどころか、先程の部屋とは別の部屋だった。
どういう事だろうかと思ってると、とんとんとん、と微かに足音が聞こえてきた。
スリッパの音では無い。木を踏みしめる音でも無い。ローファーの靴底が、硬い何かを踏みしめる様な、そんな音。
がちゃりと、部屋の扉が開かれる。
「ああ、起きたの?」
扉を開けたのは先程のセーラー服の少女だった。
「此処は?」
茨の問いに、少女は笑みを浮かべて答える。
「此処は君の部屋。今日から君はこの部屋に住むのさ」
「……え?」
突然放たれた少女の言葉を理解するのに、茨は数秒の時を要した。
此処が茨の部屋。此処に住む。そう言われても、茨の家は家族の住まうあの場所である。
「大丈夫。なんの心配もいらないよ。君は、私がちゃんと育ててあげるから。それにほら、プレゼントだって用意したんだよ?」
変わらず笑みを浮かべる少女。少女は後ろ手に持った何かを茨の前にかざした。
「……」
それを見て、茨は声が出なかった。
「どう? 嬉しいでしょ?」
少女が手に持っているそれは、およそ人が生きている間に見る事の無い物であった。
青白い肌に血走った目。乱雑に乱れた髪を無造作に掴む少女。そう、それは人の頭部であった。それも、ただの頭部では無い。茨が見間違うはずも無い。それは、茨の実母の頭部。
まごう事無く、切り落とされた母親の頭部。
何故、どうしてと疑問は尽きない。しかし、その中で一つだけ分かる事がある。
母親は確実に死んでいて、もう二度とその声を聞く事が出来ないという事だ。
「君が必要としないモノ、君が疎ましく思うモノ、君を苛むモノ。全部全部、私が壊してあげるね」
言って、少女は笑う。その笑みが壊れているという事に気付けない程、茨は愚かでは無かった。
そうして、少女との生活が始まった。少女はその所業が明らかになるまで、通算十一人もの人間を殺した。茨の家族もまた、彼女の手にかかった。まだ
彼女は殺した相手の頭部を持ち帰っては茨に見せた。だから、彼等が死んでしまっているという事は確信できた。何せ、証拠が目の前にあるのだから。信じないなんて選択肢は無い。信じるしかない。現実を受け止めるしか、無いのだ。
それは、およそ普通の人間にとってはあまりにも衝撃的な出来事だろう。ショックを受け、言葉を失くし、精神を病んでしまっても仕方のない出来事のはずだ。
しかして、その生活の中でも茨の感情は戻っては来なかった。それが誰であれ、彼女が何人の頭部を目の前に持ってこようが、全てがどうでも良かった。
誰が死のうが、誰が殺そうが、どうだって良かったのだ。
そんな日々が三年間も続いた頃、彼女は急に茨の前から姿を消した。そしてその翌日くらいに警察が彼女の家に押し入って茨を保護した。
この事件は大々的にニュースにも取り上げられた。茨の名前などの素性は隠されたけれど、被害者と周囲の状況を考えれば、この事件で攫われたのが誰であったのかは直ぐに検討がついた事だろう。
そんな茨の事情も考慮され、茨は父方の祖父母の家に預けられる事になった。
しかし、事件が終わった後、ようやく平穏が訪れた現在でも、茨の感情は閉ざされたままだった。
それは、今も続いている。
「そんな生活だったからかな? 喋り方とか結構柔らかくなるように練習したんだけど、どーにもまだ相手の感情が分からないんだぁ」
怒る事も、笑う事も、茨にはまだ分からないから。どんなに傷付いてるのかだって、茨には分からない。
痛みを感じないように心を閉ざして、傷を負ったとしても気付かないように目を逸らしていた茨には、感情が何たるかを理解できない。
「……貴方がそんな人生を歩んできたから、私だって大丈夫だって、そう言いたいの?」
確認の言葉。しかし、そこには隠しきれない刺がある。
「いや? 人の痛みなんて人それぞれだよ」
けれど、茨は笑みを崩さない。何せ、相手の刺に関心が無いからだ。
「そんなね、荒んでた時期にね、ホームズが言ったんだ。感情を他人任せにするな。お前が欲しい物はお前じゃないと得られない。望むなら、お前が行動に移すしかない。ってね。それが、ホームズからの貰い物だけど、僕なりの行動指針なんだ」
全てを話し終えてなお、茨はにこりと微笑む。しかし、今なら分かる。その笑みは形だけだ。そこに感情の色は何色も乗ってはいない。
此処は笑って言うべき場面だ。そう分かっているからこそ、茨は笑っているのだ。例えそれが、心の底からの笑みでないと分かっていても、茨は笑う。それが、自分のためだと分かってるからだ。
「毬さんは、今は不幸かもしれない。知らない人とセックスをして、知らない人と結婚をして、自分のあずかり知らないところで子供が出来て……多分、これは毬さんが望んでなかった事だと思う」
でなければあれ程取り乱したりはしないだろう。
毬が望んだのは、普通の人生だ。普通に生きて、普通に誰かと恋をして、普通に結婚をして。勿論、そんな順風満帆にはいかないかもしれない。けれど、望むだけならば本人の自由だ。
だから望んだのだ。普通の人生を。
それが叶わなかった。それが歪められた。だからこそ、取り乱した。
「だからこそ、自分で取り戻すべきだと思う。それが嫌なら、人は足掻くしかないって、僕はホームズに教えて貰ったんだ」
「……今更、取り戻したって……」
「それは取り戻してから決めれば良いよ。それとも、毬さんはこのままで良いの? 誰かに自分の人生を踏みにじられたままで良いの? それに怒りを覚えないの?」
「怒ってるわよ! じゃなきゃ、こんなに取り乱したりしない……!!」
「なら、その怒りはぶつけるべきだと僕は思う。自分の人生を奪った相手にぶつけてるべきだよ。その権利が毬さんにはある」
言いながら、茨は毬の手を取る。
「毬さんはどうしたい? 僕は毬さんの意思を尊重するよ」
「私が、どうしたいか……」
「正直な事を言えば、僕はなんだって良い。酷いなとは思うけど、僕の感情は揺すぶられてない。怒るべきだと思うけど、僕は怒ってない。万事、僕にとってはどうだって良い事なんだ」
変わらぬ笑み。しかし、そこには先程までは無かった酷薄さが見て取れる。
「けど、ホームズが言うんだ。誰かに寄り添える人になれって。だから、僕は君が逃げても立ち向かっても、君に寄り添うよ。僕に事件の解決とか、君の行く末を決める事は出来ないけど、寄り添う事は出来ると思うから」
どちらを選んでも良い。それは結局は他人任せな言葉なのだろう。
しかし、どちらを選んでも茨は毬の傍に居てくれるという事には変わらない。どちらを選んでも、茨は毬に寄り添ってくれる。
「毬さんは好きな方を選んで良いよ」
「私は……」
好きな方。それすなわち、毬が望む方。
一瞬だったか、それとも数分だったか。毬の脳裏に今までの事が過ぎる。
楽しかった事。困った事。辛かった事。悲しかった事。愛の女神様をする前の事。愛の女神様をしてしまった後の事。愛の女神様になってしまった事。
浅葱毬として生きた十六年。愛の女神様として生きた十年。その全てが、毬の脳裏を過ぎて行く。
「この十年も、こうなる前も、私は……それなりに楽しかったんだと思う。だって、笑っていられたから。笑う事が出来たから」
楽しかった日々は決して嘘ではない。過ごした時間は嘘ではない。交わした言葉も嘘ではない。
この十年間は、決して嘘なんかじゃない。死んでいたと思っていた。けれど、毬は確かにそこで暮らしていたのだ。けれど――
「でも、私は私の人生を生きたかった」
――それは、浅葱毬の人生ではない。
だからこそ、憤る。
「……許せない。私の時間を奪ったあいつを……私の自由を奪ったあいつを……!!」
「うん」
くしゃくしゃに顔を歪める。
涙を堪え、毬は茨を見据える。
「改めて、依頼をします……!! 私を……助けて……!!」
それが、毬の精一杯の悲鳴だと
いつの間にやら立っていた好が茨の肩を叩く。
「「任せて|(たまえ)」」
不敵な笑みを浮かべて二人は堪える。
証拠は全て出揃った。依頼も承った。後は、事件を解決するだけだ。
此処からが、怪異探偵の真骨頂である。
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