第32話 逢坂晴香


「大丈夫?」


「まあ、はい」


 俺の頬が手のひらの形に赤く腫れているのを見て、リビングにいた深雪さんが驚いたように言う。

 俺は冷蔵庫からお茶を取り出し、コップに注ぐ。


「あ、私もいい?」


「はい」


 深雪さんのも一緒にテーブルまで持っていく。

 どうして俺の頬が腫れているのかという話だが、今回に関しては完全に俺のミスなので言い訳はない。


『……ああ、えっと』


 考え事をしていた。

 ぼーっとしながら顔を洗おうと脱衣所のドアを開けると紗月がいた。訂正しよう、風呂上がりたてほやほやの紗月がいた。


『目を瞑ってください』


 ギロリと睨まれ、俺は咄嗟に従ってしまう。体が勝手に動きやがった。

 出ていけ、ではなく目を瞑れ、なのがミソだ。つまり、何かしらの制裁があるということ。

 けどここは甘んじて受け入れる。

 何せ、今回は一〇〇対〇で俺に非があるのだから。

 控えめな胸も、その真ん中で存在を主張するピンク色のあれも、引き締まった腰も、下半身も全て一瞬だけだが見てしまった。

 これは何をされても文句は言えない。

 そして、思いっきりビンタされたのだ。


「それでね、えっと、紗月ちゃんからの伝言なんだけど」


「はあ」


 その話はまたたく間に逢坂家内に広まった。またしてもカギをかけていないというミスはあったが、今回は下着姿ではなく真っ裸を見てしまっている。

 流石に申し訳ないとは思う。


「出ていけッ! だって」


 妙に演技がかった言い方で深雪さんが言う。一瞬深雪さんの意見なのかと思ってしまうくらいの迫真の演技だった。


「俺今日からホームレスですか」


「あ、いや、大丈夫だよ。でも今は顔を合わせるのがちょっと恥ずかしいんだと思うの。だから、この土日の間だけ時間をあげて?」


 ぶっちゃけ俺も気まずいところがあるのでそれは全然いい。土日だし、それにちょうど実家に戻りたいとも思っていた。


「そういうことなら、実家に戻ります。ちょうど戻る用事もあったんで」


 俺が言うと、深雪さんは手を合わせて「ごめんね」と言う。何も悪くないのに。

 ということで荷物をまとめて家を出る。この言い方をすると家出みたいだけどどちらかというと旅行のようなものだ。

 この時間だとぎりぎり電車があるらしいので、家を出て急いで駅へと向かった。

 二階の窓が一瞬音を鳴らしたように思えて振り返ったけど、そこに誰かの姿はなかった。


「気のせい、か」


 そして俺はおよそ四ヶ月ぶりに実家へと帰ってきたのだ。といっても家に親はおらず、定期的に清掃だけはされてるみたいだけど、中に入ると生活感はなかった。

 誰もいない家の中は怖いというよりも寂しいと思えた。

 疲れていたのでさっさと風呂に入ってベッドに横たわる。久しぶりの自分の布団は寝心地がよく、すぐに意識は遠のいた。

 土曜日は部屋の掃除をした。

 ある程度はされていたけど、やっぱり自分の手でしたいものなのだ。荷物は逢坂家に結構送ったから散らかってはいない。

 結局気合を入れて臨んだ結果、一日中格闘することになった。


「……あった」


 掃除ついでに探しものをする。自分の部屋の押し入れの中から見つけ出したのはアルバムだ。

 何冊もある中から小学生辺りの頃のものを取り出す。

 つまり何かと言うと、俺が逢坂家の人達と一緒にいた頃のアルバムだ。

 表紙をめくった一ページ目に、幼少期の俺と小さな逢坂三姉妹が写った写真があった。

 ビンゴである。

 ページを捲るといろんな写真があった。

 そこには花恋ちゃんや深雪さん、もちろん紗月との写真もある。今では考えられないが俺は中でも紗月と仲がよかったと聞く。半信半疑だったけど、それはどうやら本当らしい。

 いろんなイベントを共に過ごしていたので、三姉妹との写真は多かったけど、中でも紗月との写真は多い。


「あ」


 ある写真を見て俺は声を漏らす。

 その写真は紗月と二人で写っているもので、その場所があの神社だった。あのときの既視感は気のせいじゃなかったのか。

 花恋ちゃんとは行ってなくて、紗月と行ってたんだ。そりゃ花恋ちゃんの記憶にはないはずだよ。

 アルバムのページを捲るたび、懐かしい気持ちになる。こうして見返すと、少しだけど当時のことを思い出した。

 花恋ちゃんに虫取りに連れて行かれたこと、紗月と一緒にゲームをしたこと、深雪さんにおままごとを付き合わされたこと。

 俺は本当に長い時間を彼女たちと過ごしたのだ。

 何で忘れてたんだろう。


「確か、この辺に」


 アルバムを見終え、徐々に思い出してきた記憶を頼りに押し入れを探る。うろ覚えなので確かではないけど、俺の記憶が正しければ……。


「あった」


 クッキーでも入っていたような缶を引っ張り出す。これは小さい頃の思い出を押し込んだ、いわば宝箱だ。この存在を忘れていた。

 中には子供の頃に好きだったいろんなものが入っていた。ガチャガチャで当てた消しゴムや買ってもらったキーホルダー、友達から貰ったカード。

 そして、一枚の手紙。


「これ、確か」


 シールを剥がし、封筒を開ける。中の手紙を取り出して開いた。

 この手紙は逢坂のお母さん――逢坂晴香さんからもらったものだ。

 晴香さんは体が弱かったのか病院にいるイメージが強い。それでも体調には浮き沈みがあって家にいることもあったのだろうけど、俺が彼女を思い出そうとするとその背景は真っ白な病室だ。

 この手紙を渡されたときも、確か病院だった。


「なんて書いてたんだっけ」


 読んだ覚えはある。

 けど、あまり覚えてはいなかった。


『悠一。君がこの手紙を読んでいるということは、私はきっとあの世へと旅立ったのだろうね。なんて書き始めると面白みがあっていいのかもしれない、とか思いながら書いているけど、いかがかな?』


 今となっては洒落になってない。

 この当時の体調がどれほどのものかは分からないけど、これはどんな気持ちで書いたのだろう。


『冗談はさておき、珍しく私がこんなものを渡したから驚いたろうね。或いは戸惑ったのかな。いずれにしても、心配なんてものはしなくていいよ。ただ、この文脈をありのまま受け入れてくれるといい。なに、別に大層なことを書くわけじゃない。ただの、何だろうね、戯言なのかもしれない。さて、いつも皆に怒られるんだ、晴香は脱線して話が長くなるってね。許しておくれ、おばさんになるとお喋りが好きになるのさ』


 そのタイミングで一枚目は終わる。

 一枚目を後ろに送り二枚目を前に出す。この人これを書いてるとき何歳だったんだろ。


『実は先刻、余命がどうこうと宣言されてね。だからといってすぐにぽっくり行くわけでもないけど、一応君にもお願いしなければと思い、この手紙を書いたんだ』


 お願いって何だろう。

 読み進めれば分かることだから気にはしない。余命がどうこう言われてもここまで明るい文面を書けるのはさすがだと思う。いや、もしかしたら無理をしていたのかも。


『うちの娘たちは自分で言うのも何だけどお母さんっ子でね。もしもこのまま私が死んでしまえば、あの子たちは悲しみ、行きどころを失ってしまいかねない。もちろんパパはいるよ。けれど、私の役目はパパにはできないし、パパの役目を私が担うこともできない。だから君に頼むんだ。あの子たちにとって、家族以外で最も親しいのは君に他ならないからね。自信を持つといいよ』


 昔の写真を見ていても分かることだ。これを渡されて、頼まれて、でも俺はそのとき彼女達の隣にはいなかった。

 家庭の事情といえばそれまでだけど、晴香さんには申し訳ないことをしてしまったな。

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