蜥蜴だった頃は、起きると鼻先に小さな蝿が止まっていることが度々あった。

 同じことは今でもある。だが、鼻先に乗っているのは蝿ではなく小鳥である。今ではもう、蝿などどれほど目を凝らしても見ることはできない。目の前の小鳥すら、ようやくその姿を確認できる程度なのだから。

 しばらく見守っているうちに小鳥が飛び去ってしまうと、ようやく余は身を起こした。

 息子が寝たままずれ落ちる。憎たらしいことに、奴は余の胸を枕代わりに眠っていたのである。胸苦しさの原因はこれかもしれない。

 頭がぼんやりする。不思議な夢であった。いや、夢というには細かいところまではっきりと覚えている気がする。少女の声も、彼女の語った内容も、まるでさっきまで顔を突き合わせて話していたかのような現実味をもって頭の中に残っている。

 余は博識君を捜した。一刻も早く訊ねたいことがあった。

「〈ニホン〉ですか」

「うむ。知っているか?」

 余の問いに、博識君はしばし考えるような間を置いた。

「聞いたことがありますよ。たしか、ここよりずっと北にある島の名だったような」

〈ずっと〉という表現に、余はいささかげんなりした。

「〈ずっと〉とは、どのぐらい〈ずっと〉だね?」

「それはもう〈ずっと〉です。ずっとずっと、ずーっと向こうです」

 博識君は身振り手振りで、その距離がいかに果てしないものであるかを説明してくれた。その心遣いは感謝すべきものであったが、説明を受ければ受けるほど余が打ちのめされていったのもまた事実である。

「しかし、なぜその島のことを訊くのですか?」

「うん、いや、何……」

 突然質問を返されたことでどぎまぎしながら余は茶を濁した。〈夢で見た見知らぬ少女に会いに行こうとしている〉なんてことを知られたら、狂ったと思われるに違いない。余は自らに向いた話の矛先を逸らすべく、話題を戻す。

「それだけ遠いと、泳いでいくのはやはり無理かね?」

「いえ、そんなことはありません。海流に乗ってしまえば簡単です」

「カイリュウ?」

 耳慣れぬ単語に、余は改めて博識君の博識ぶりを実感する。

「そのカイリュウとやらにはどうすれば乗れるのかね?」

「沖まで泳げばきっと乗れるでしょう」

〈泳ぐ〉という言葉に、余は明確にげんなりした。やはり、この島からどこかへ行くには泳ぐことが必要不可欠なのだ。

 泳ぎの練習をしなければならぬ。こうなれば、腹を決めるしかない。

 全てはあの少女と、嘘つき呼ばわりされている彼女の父上のためである。

 その日から、余は泳ぎの練習を開始した。

 我ながら血の滲むような努力であったと思う。これまでの生涯であそこまで一つのことに取り組んだ覚えはちょっとない。

 何が自分をそこまで駆り立てるのか、余にも測りかねる。〈少女の父上の名誉のため〉を標榜しているが、果してそれだけだろうか。泳ぎながら自問するうちに、余はあることに気付いた。自分の中に、言葉では上手く言い表せぬ感情が渦巻いているのだ。喜びでも怒りでも哀しみでもない。胸を締め付けられる感覚があるが、決して不愉快ではない。むしろ、進んでその感情と接したいと思うぐらいである。

 余はこの感情の正体について、それとなく博識君に訊ねてみた。少女のことはついに隠した。

「それは歳のせいだよ、君」この無礼な物言いは親友である。傍で聞き耳を立てていた彼が口を挟んできたのだ。

「少し黙っていろ」

 そう牙を剥くと、奴は例の「おお、怖い」をしてみせた。余は改めて博識君に質問した。

「それはたぶん、恋ですよ」

「恋」返ってきた答えに、余は目が丸くなる思いであった。つい素っ頓狂な声を上げてしまった。

 その言葉には聞き覚えがある。男女の間に生ずる勘定のことだろう。以前博識君が話していた。だが、聞き覚えはあっても実際に自分の口から発したことはない。そのような感情は蜥蜴であった頃から抱いたことがない。

 静かにしていた親友が笑い出す。

「そいつはいい。一体君はこの島で誰に恋をしたというのかね? 僕か、はたまた博識君かい」

「馬鹿を言え」何が哀しくて顔の尖った男に恋をせねばならぬのだ。かといって博識君ならいいというものでもない。初めて〈恋〉を経験する余であっても、それが彼らに向けるような感情でないことぐらいはわかる。

 余は言葉を濁し、その場を後にした。寝床へ向かう道中も、少女のことを考え、胸を締め付けられた。

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