第19話東海道の大名

 六尺近くある大柄な雷次郎が怒ると、女子供でなくとも怯むだろう。

 それは生意気な子供も例外ではなく、その場に尻餅を突いてしまった。

 涙目になって、どうしようもなく怯えている。


「お、おい、大須賀……何しているんだ……起きてよ……」


 震える声で言ったのは、他人を頼る声。

 雷次郎は「どうしようもねえな、こいつ」と呟いた。


「性根が腐ってやがる。かなり甘やかされたようだな」

「ひっ!? な、何をする気だ……」


 傲慢な子供は後ろに這って逃げようとして――気づく。


「お前たち! 私を助けろ!」

「あん? ……なんだよ応援か?」


 雷次郎が振り向くと武士が数人こちらに駆けてくる。その後ろには馬に乗っている者もいる。

 子供は余裕を取り戻したのか「はっははは、残念だったな!」と雷次郎を嘲笑う。


「ざまあみろ! お前はあの者たちに斬り殺される! この私に逆らった罰――」

「ごちゃごちゃうるせえぞ! クソガキが!」


 堪忍袋が切れたのか、雷次郎は勝ち誇っている子供の脳天にがつんと拳骨を食らわせた。

 無論、頭蓋骨が割れるほど強くは殴ってはいない。しかし十分な痛みだったらしく、頭のてっぺんを抑えて悶絶する子供。


「い、痛い……痛いよう……!」

「な、なんてことを! 早くお逃げになってください!」


 それまで呆然と見ていた、子供に足蹴された女が顔を真っ青にして叫ぶ。

 しかし雷次郎は「お前さん、怪我はないか?」と女を気遣う言葉をかけた。


「わ、私のことなど、いいです! それより逃げないと――」

「何を怖がっているのか分からねえが、もう遅いみたいだな」


 ぐるりと雷次郎の周りを囲む武士たち。

 彼らが相当鍛えられているのは、所作で分かる雷次郎。

 これは無傷じゃ倒せないなと刀の柄を握る――


「お前たち。少し待ちなさい」


 静止を呼びかけたのは、後からゆっくり駆けてきた馬上の武士。

 壮年で鋭い眼光。何度も修羅場を切り抜けたと思わせる武将。

 雷次郎は刀から手を放して「久しぶりだな」と笑った。


「お前さんが駿河国にいるとは思わなかったよ――井伊直政殿」

「奇遇ですね。私も同じことを思いました」


 馬から降りた直政は雷次郎に頭を下げた。

 周りの武士たちは動揺を隠せない。

 何故なら徳川家の家老が、どう見ても遊び人にしか見えない男に礼を尽くしたからだ。


「さて。おそらくお忍びで来られたと推察いたします。雷次郎様」

「ご配慮、感謝するぜ」


 雨竜家の名を出さずに雷次郎と呼んだ直政。

 本多のじいさんが『若いくせに律儀な奴』と言っていたのを彼は思い出した。


「な、直政! 何をしているんだ! 早くこの者を斬れ!」


 甲高い声で子供が喚く。

 武士が動揺しているのを見て、雷次郎は「もしかして、このガキは」と言う。


「徳川家の若君か?」

「ええ。昨年元服された、徳川家のご嫡男、徳川勝康様です」


 雷次郎は内心、納得を覚えた。

 去年、江戸城を訪れた当主の信康が、父の秀晴に話していたことを思い出した。

 ――少しわがままに育て過ぎたと。


「はあ。他人の家の事情には口出ししたくねえけどよ。躾が足らねえんじゃねえか?」

「失礼ながら、あなたにだけは言われたくないですね――日の本一の遊び人殿」

「あはは。そいつは言えてるな。傑作だ」


 二人が軽口を叩いているのを見て、子供――勝康は「何をしておる!」と怒鳴った。


「早く斬れと言っているではないか!」

「若様。私はこのお方を斬ることはできませぬ」

「な、なに!?」


 呆然とする勝康に対し、直政は頭を下げて説明した。


「斬れば井伊家だけではなく、徳川家がお取り潰しになりますゆえ」

「……何を言っているんだ?」


 勝康は直政が冗談を言ったのだと思った。

 雷次郎も「そりゃ言い過ぎだ」と頭を掻いた。


「精々、戦が起こる程度だろ」

「まあそうかもしれませんね。それより、雷次郎様。この状況では、私が何もしないという選択肢はありません」


 井伊直政は徳川家家臣の中で、数少ない雷次郎が認める男だった。

 だから素直に「まあそうだろうな」と頷いた。


「ありがとうございます。それでは駿府城へ参りましょう」

「歓待するって雰囲気にはなりそうにないな」

「我が主君はあなたを気に入っていますから、悪くはなさらないでしょう」



◆◇◆◇



 駿府城、謁見の間。

 江戸城より規模は劣るが、内装はさほど変わらないほど奢侈で豪華だった。

 雷次郎は胡坐をかいているが、雪秀たちは正座をしていた。


「……浪人たちに囲まれていた女の人を見つけたら、どうして殿様の御前にいるのか、まったく理解できないんだけど」


 頭痛がするのか、光が頭を抱える。

 雷次郎は欠伸をしつつ「こればかりは俺も同じ気持ちだよ、光」と応じた。


「まさか、あの子供が徳川家の嫡男とは思いませんでしたね」

「なんだ雪秀。一部始終見ていたのか」

「ええまあ。雷次郎様に読唇術習いましたから。事情は分かっております」


 得意そうな顔をしていた雪秀だったが、凜の「私の話を真面目に聞いてなかったんですね……」という地獄の底から響くような声で真顔になる。


「り、凜。待ってくれ! 誤解なんだ!」

「あれだけ言葉を尽くしたのに……!」

「おい。その話は後だ――来るぞ」


 雷次郎の言ったとおり、奥の間の襖が開き、上物の着物を着た、恰幅の良い太眉の殿様が現れた。

 四人は頭を下げる。上座についた男は「面を上げよ」と言う。


「久しぶりだね、雷次郎殿。一年ぐらいかな?」

「ええ。久しぶりですね、信康様」


 にこにこと表情を緩ませる、東海道の大名、徳川家当主の信康。

 相変わらず気のいいおじさんみたいだなと雷次郎は思った。


「そこにいるのは、真柄雪秀だね。良き若者に育ったと見える」

「御高名な徳川様にそうおっしゃられると、嬉しく思います」

「そこの二人は知らないね。どなた?」


 少々緊張しながら「光と申します」と頭を下げる光。

 続いて礼儀正しく「凜と申します」と凜は言った。


「ふむ……そなたが光殿か。話は雨竜殿から聞いているよ」

「え? 雨竜殿とは……雨竜秀晴様ですか?」


 思わず訊ね返してしまった光。

 けれどすぐに無礼だと分かり「失礼しました!」と口元を押さえた。


「良いよ。直答を許す。しかし君は大変だねえ」

「……私の事情を、知っていらっしゃるのですか?」

「うん。きっと豊臣家もご承知なはずだよ。だから早く大坂に行きなさい」


 光はきりりと顔を引き締めて「かしこまりました」と頭を下げた。

 すると雷次郎が「ならなんで俺たちをここに引き留めるんですか?」と訊ねた。


「急いでいるって分かっているんでしょう?」

「その割には三島宿で大暴れしたらしいけど。まあいいや。実を言うと、雷次郎殿に頼みたいことがあるんだ」


 もう三島宿のこと知っているのかと雷次郎は思ったが、表情に出さずに「どんなことでしょう?」と言う。


「勝康のことだよ。結構、わがままに育ってしまってねえ」

「ええ。あまり好ましい性根とは言えませんね」

「はっきり嫌いだと言いなよ。まあ徳川家は代々、子供への愛情が薄かったから、そうならないようにと育てた結果がああなったんだ」

「信康様もはっきりと子育てに失敗したとおっしゃってください」


 この場にはもちろん、徳川家の武士が護衛のためにいる。

 雷次郎の言葉で全員が殺気立った。

 雪秀は思わず「言葉に気を付けてください」と注意する。


「いや、良いんだ。事実、失敗したのは確かだから。でも失敗したのは私であって、勝康自身は失敗していない。そう信じているんだ」


 信康は柔和な顔で周りの家臣たちの怒りを収めた。

 雷次郎は「それは分かります」と同意した。


「それで信康様。あなたは俺に何をしろと?」

「雷次郎殿に勝康を鍛え直してほしいんだ」


 これには雪秀と光、凜は驚愕した。

 雷次郎に嫡男、つまり後継者を預けると言っているのだ。


「俺は旅の途中です。まさか連れていけとでも?」

「うん。あの子も日の本知ったほうがいいと思ってね」

「…………」


 毒気のない、のん気な言葉に、流石の雷次郎も言葉を無くした。

 信康は「そういえば、君もわがままだったね」と矛先を変えた。


「そんな君を変えたのは誰だったっけ?」

「まあ、有楽斎様ですね。あの方がいなければ今の俺はありえない」

「同じことをしてほしい。君ならできるだろう?」

「……分かりました。いいでしょう」


 雪秀が言葉を挟む前に、雷次郎は了承した。

 信康は「ありがとう」と大名にしては軽すぎる礼を述べた。


「まあそんなに難しく考える必要はないよ。勝康に雷次郎殿の生きざまを見せてくれればいい」

「…………」

「君のおじいさんと同じようにね」


 その言葉に光はようやく疑問を覚えた。

 雷次郎のおじいさんって何者なの?

 それから一つに仮説に思い至る。

 もしかして、おじいさんがきっかけで、雷次郎は有名なのかしら?


 その仮説はある意味間違っていなかったが、正解ではなかった。

 あくまでも、信康は雷次郎という男を見込んで頼んだのだった。

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