第3話江戸城にて

 倒れた娘を雷次郎の屋敷――武家屋敷にある質素なものだ――に連れていくと下男や侍女は大層驚いた。何せ主人の背に疲労困憊で息も絶え絶えな娘がいるのだから。雷次郎は医師を呼べだの布団を用意しろだの素早く指示を出した。雪秀はその様子を見て、やはり生まれながらの大名のご子息だなと感心した。


 やってきた医師の話によると、ひどく衰弱しているが、外傷はほとんどなく、病にも罹っていないようだった。だからこのまま寝かせて、起きたら粥などの軽い食べ物を食べさせてあげなさいとのことだった。


 雷次郎は、私たちが看ますからという侍女の言葉を無視して、傍らに寝ている娘の容態を見ていた。気になることが多かった。何故、武家らしき女があれだけ乱れた格好をしていたのか。何日も風呂に入らず、ご飯もろくに食べてない有り様だったのか。そして何より、何故、最後に自分の父の名を呼んだのか。


「雷次郎様。この娘のことが心配なのは分かりますが、そろそろ城に向かいませんと」


 控えていた雪秀がはっきりと申し上げる。今日は雷次郎が家督を継ぐ日だ。彼自身、雷次郎と同じく娘が何者か気になっていたが、最も気がかりなのは雨竜家の存続である。雪秀自身、重臣の真柄家を継ぐ身として、主家の安寧は重要だった。


「ああ、そうだな。ちょっと親父に訊きたいこともあるしな。分かった、行こう」

「え、あ、はい。では急ぎ着替えましょうか……」


 雪秀が物心ついてからの付き合いであるが、こんなに素直な雷次郎は初めてだった。いつも嫌々言うことを聞いてくれていたはずなのに。雪秀は少しだけ怪しいと感じていた。


 正装に着替えると馬に乗って江戸城に登城した二人。次期当主と重臣の出迎えに、周りの武士はぴしりと背筋を伸ばして応じた。雷次郎は「楽にしていい」と短く言ってそのまま城内に入る。


 江戸城に来るたびに雷次郎はうんざりしていた。豪華な襖と高級な畳、そして奢侈な調度品。数年前に建てられた城だけど、ここまで豪華にする必要があるのだろうか? 以前訪れた大坂城も絢爛豪華だったが、江戸城は度が過ぎている。


 評定の間に入ると主だった重臣が揃っていた。雷次郎は作法に則って一番上位の上座に座る。雪秀は重臣の末席に座った。皆が平伏すると雨竜家当主の雨竜秀晴が入ってきた。


「皆、面を上げよ」


 静かだが威厳のある声。雷次郎たちが顔を上げると、いつも通りの無表情な顔がそこにはあった。

 雨竜秀晴は関八州を治める大大名である。口髭をたくわえ、眼光鋭く、目の下には隈が深く刻まれていた。四十代半ばだが顔には皺が無い。全身から覇気が漲っていると思わせる存在感があった。


「さて、今日集まってもらったのは他でもない。家督についてだ」


 さっそく本題に入る秀晴。重臣たちは少しの間、ざわつく。

 この場に雷次郎がいると言うことは、隠居なさるということだと誰もが思った。人間五十年と言われたこの時代、秀晴の年齢で家督を譲るのは当然の行ないとされた。


「私の息子はここにいる雷次郎――雨竜秀成しかいない。だから家督を継ぐのはこの者だ」


 重臣たちは、ああやはりと思った――のだが。


「しかし関八州を治めるにはまだ早い。よって今回は家督を継がせぬことにした」


 その言葉に重臣たちはどよめいた。それも当然だ、彼らは雷次郎が家督を継ぐことを賛同しに来たのだから。けれど当主は前言を撤回し、家督を継がせぬと言う。


「殿! 一体どういうことですか!?」

「話が違うではありませんか!」


 口々に発せられるのは非難を込めた抗議。もちろん、雷次郎が若輩者で遊び歩いているのは知っている。だがそれを承知で彼を支えようと決意していた。

 当然、雷次郎が跡を継ぐことに反対している者もいるが、対立候補がいない。秀晴の息子は雷次郎しかいないのだ。


「この件は雨竜家に預からせてもらう。皆、ご苦労だった」


 皆の声を無視して秀晴は奥の間に去ってしまった。

 しばらく喚いていた重臣たちは憤りながら帰っていく。

 その場に残ったのは――五人だった。


 一人は家督を譲ってもらえなかった雷次郎。彼は父親と同じ無表情で正座をしていた。

 二人目は重臣というより重鎮の家老、大久保長安である。既に老人な彼は何故かにこにこ笑っていた。

 三人目は家老の本多忠政である。水戸城城主でもある彼は静かに目を瞑って、何かを待っていた。

 四人目は老臣の島清興。既に隠居した身であるが、この場にいるのは雷次郎を慮っていたためだった。

 そして最後は真柄雪秀であった。彼は他の四人と違って、明確な理由があって残っていない。ただ呆然として退席できずにいたのだ。


「ふふふ。家督を継ぎ損ねたな」

「うるせえじいさん。さっさと棺桶に行きな」


 大久保がからかう口調で言うと、憎まれ口で返す雷次郎。

 他の三人はまた始まったと呆れている。


「ま、不肖の息子には関八州は重過ぎるということか」

「はん。欲深のじじいに関八州の内政は荷が重すぎるぜ」

「これでもわし、おぬしのおじいさんくらい優秀なんだぞ?」

「ふざけるな。おじいさまとてめえは比較にならねえよ。一遍死んで赤ん坊からやり直せ」

「わしの凄さが分からんとは。どうやら内政の才はないらしいな」


 剣呑な雰囲気が漂うが止める者はいない。

 昔から雷次郎と大久保の折り合いは悪いのだ。


「まったく。教育役として恥ずかしいばかりだ」

「教育役? じいさんに習ったのは屁理屈だけだよ。俺の――」


 そこまで言った後、秀晴がやって来た。

 慌てて姿勢を正す一同だったが、秀晴が「ああ、そのままでいい」と気楽に言った。


「何なら崩してもいいぞ」

「そんじゃ、遠慮なく」


 雷次郎が胡座をかくと雪秀以外の重臣たちも姿勢を崩した。

 各々が楽になると秀晴は「すまないな、雷次郎」と初めて笑った。


「お前に家督を継がせる予定だったが、急遽事情が変わった」

「別に構わねえよ。親父はいつも約束破るしな」

「昔のことを言うなよ」

「今だってそうだろう」

「まあそれは後にして、本題を言おう」


 秀晴は無表情に戻って、それから険しい顔で言う。


「お前の屋敷にいる娘。あれを大坂城まで送り届けてもらいたい」

「……よく知っているな。連れ込んで半刻も経っていないぜ」

「連れ込んでとか言うな。とにかく、頼むぞ」


 雷次郎は頭をかきながら「説明が足らないんじゃねえか?」と不機嫌に言う。


「あの娘、親父の名前を言っていたぞ。それにだ、どうして屋敷に入れたことを知っているんだ?」

「何を言っているんだ? 雪秀が佐助と才蔵の力を借りてお前を捜索しただろう」

「……見つかった後もか?」

「お前が素直に城に来るとは思えなかったからな」


 雷次郎が雪秀のほうを見ると、彼は物凄い勢いで首を横に振った。どうやら知らなかったらしい。


「信用がねえんだな」

「私はお前をお前以上に知っている。どうせ武家屋敷に行ってもなんやかんや理由付けて、登城するつもりなかったんだろう」

「……よくお分かりで」

「しかしまさか、あの娘とお前が出会うとは思わなかった」


 雷次郎はここで怪訝な顔をした。どうやらその口ぶりだと秀晴は娘の素性を知っているみたいだった。


「親父。あの娘のこと知っているのか? なら――」

「教えないよ。知りたいならあの娘から直接聞け」

「……ふざけているのか?」


 雪秀はやり込められている雷次郎を不思議な気持ちで見ていた。二人の会話を数えるほどしか見ていないけど、雷次郎がここまで子供扱いされているのは初めてだった。


「……なるほど。この主命のために、雷次郎様に家督をお譲りにならなかったのですね」


 本多忠政の冷静な言葉に秀晴は「そのとおりだ」と答えた。

 すると今度は島清興が言う。


「雷次郎には無理だ。別の者に任せたほうがいい」

「……島のじいさん。そりゃどういうことだ?」


 自分を侮らされたと思った雷次郎は島に詰め寄る。

 しかし島は冷静に言った。


「子供のように駄々をこねるなら、やっても失敗するだけだ」

「はあ!? できるに決まっているだろう! ていうか駄々こねてねえよ!」

「なら素直に娘を大坂城に送り届けろ」

「そ、それは――」

「できるんだろう?」


 言葉に詰まった雷次郎。

 雪秀は、なんだ、ああすれば良かったんだと自分の甘さを痛感していた。


「決まりだな。それでは雷次郎――ああ、ついでに真柄雪秀にも命ずる」

「ええ!? なんで私も!?」

「お前は雷次郎の兄弟分だろう?」


 秀晴は雷次郎とおまけの雪秀に命じた。


「あの娘を大坂城の豊臣秀勝様の元へ送り届けること。主命である。良いな?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る