スノードロップを君に

七海美桜

第1話 渡さない

 つややかな黒髪。震えるような長いまつ毛に濡れたような瞳。肌は白く、見ていると魂を奪われるような美貌の少年。彼は、毎夜俺の許に訪れる。何か話をする訳ではない、ただ黙って見つめ合い、俺は、彼のその白く美しい手を大事そうに撫でる。

 深夜に現れる彼は、日が昇り始める明け方になると姿を消す。俺はその瞬間がとても嫌いだった。


「おい、拓海たくみ。お前大丈夫か?」

 大学の近くのカフェ。頼んだサンドイッチを半分しか食べずうつらうつらと寝そうになっていた俺に、友人の健斗けんとが声をかけてきた。彼の眼鏡越しの瞳は、心配そうに俺を見つめていた。

「悪ィ。最近寝れなくてさ」

 俺は、誤魔化すようにそう答えて珈琲を飲んだ。口にした珈琲は、もう冷たくなっていた。

「昼夜逆転の生活なんて、身体に悪いぞ?ちゃんと夜寝ろ――――って、次の講義始まるぞ」

 スマホの画面を見た健斗は、慌てて席を立った。俺もこれ以上食事が喉を通る気がしなくて、それを残して健斗に続いた。


 俺が彼の幻を見るようになったのは、人助けがきっかけだった。自動車が突然歩道に乗り上げて、高校生たちが歩いている所に突っ込んだのだ。たまたまその前を歩いていた俺は、慌てて事故現場に駆け寄った。

 軽症の学生たちの中、気を失ったらしく瞳を瞑る美しい少年を目にした俺は、一瞬見惚れてしまった。女の子かと思ったが、ズボン姿だ。同性に興味がある訳ではなかったが、俺は一目で彼に惹かれてしまった。

 慌ててスマホで救急車と警察を呼び、額から血を流す彼に「大丈夫か?」と声をかけ続けていた。救急車が到着すると、彼のことが心配な俺は一緒に付き添って病院に向かった。

 治療室に運ばれた彼を待合室で待っていると、連絡を受けたらしい彼の両親が現れ、俺に礼を言ってきた。彼は、まだ目を覚まさない。頭を打ったためだとか、医者が俺達に説明をする。命に係わる怪我ではないという事だけは分かった。

 俺は彼の両親と一緒に、眠ったままの彼の姿を見に病室に向かった。

 眠るその姿は、本当にため息が零れるほど美しかった。そういえば名前をまだ聞いていなかったことに気が付き彼の両親に尋ねると、「津田つだつばさといいます」と教えて貰った。

「これから、目が覚めるまで見舞いに来てもいいですか?」

「ええ、勿論喜んで」

 彼の父も母も、涙を流しながら喜んでくれた。


 その日の夜、寝ようとした俺の前に「翼」が現れたのだ。俺は翼が死んでしまったのではないかと心配したが、彼は静かに微笑むと俺の手を握ってきた。

「翼か?大丈夫か?」

 そう声をかけても、彼は何も答えない。俺の手を握る翼の手はひんやりと冷たかったが、こんなに美しい彼に触れているのだと思うと何も話さなくても満足だった。

 そうして、一晩中そうしていると明け方に翼の姿は薄くなり消えて行った。

 俺はその日の講義が終わると、慌てて翼の病室に向かった。夕暮れの静かな個室で、翼は点滴をされたまま変わらずに眠りについていた。翼が死んでしまったのではないかと思っていた俺は、ほっとしてその美しい顔を眺めた。そっと彼の頬を撫でると、何処か安らぐ温かさだった。暫く彼の寝顔を見ていた俺は、「明日も来るよ」と声をかけて家に帰った。

 すると、また寝る前の深夜に翼は姿を現した。


 翼との奇妙な生活は、二週間ほどになる。昼間は病室で俺の一日の話をして、バイト。そして短い睡眠をとると、夜に現れる翼と会話のない時間を過ごす。

 俺は一日彼と過ごせている事に喜んでいたが、健斗は心配そうだった。

「お前、顔色良くないぞ?大丈夫なのか?」

「ちょっと寝不足なだけだ、大丈夫だよ」

 俺は、翼に恋していたのだ。まるで初恋を知った少年の様に、翼に夢中になっていた。それが少し恥ずかしくて、やはり健斗に話すことはなかった。


「今日も目が覚めなかったな。明日こそ、君と話したいよ」

 翼の頬に触れて、俺は名残惜し気に立ち上がった。毎日訪れる俺に、翼の親は随分感謝しているようだった。よほど大事な息子らしい。俺のよこしまな思いを悟られぬように、俺は気を付けていた。

『……』

 病室を後にしようとした俺に、誰かが声をかけた気がした。振り返るが、翼は寝たままだった。首を傾げながら、俺はバイトに向かう為に立ち上がろうとした。

「こんにちは、野崎さん。今日も有難う」

 ノックの後病室のドアが開いて、翼の母親が姿を見せた。この時間帯は俺が見ているから休むように、と気遣った言葉を翼の両親に話していた。彼らの心配をしている振りで、俺は翼との時間を邪魔されたくなかったのだ。だが、翼の両親はそんな俺により感謝していた。

「今日も、目を覚ましませんでした。でも、明日期待しています」

 俺は、彼の母と俺自身を励ます言葉を口にした。この言葉も、何度口にしただろう。

「そうね…翼だけでも生きていて欲しいわ…」

 翼「だけ」でも?俺は、ふと違和感が頭をよぎる。

「それは…」

 尋ねようとした俺の耳に、声が聞こえた。

『…やっと、迎えに来たよ』

 途端、くらりと視界が揺らいだ。翼の母親の悲鳴が聞こえるが、俺の意識は深い闇に落ちてしまった。



 静かな空間だった。明るいような気もするが、暗いような気もする。何とも形容しがたい雰囲気だ。

『…拓海さん』

 聞きなれない声音だった。少年らしい、少し高い声。俺はその声の方に顔を向けた。

「翼!!」

 倒れたような格好の俺に、翼が俺を覗き込んで笑いかけていた。俺は翼が俺の名前を呼んで笑いかけている事に、嬉しくて飛び起きた。

「翼、目が覚めたんだな?よかった…」

 思わずその華奢な体を抱き締めて、俺はうっすら涙を滲ませる。翼は俺の背に腕を回すと、ぎゅうと抱き返してくる。

『あなたのお陰で、目が覚めました。有難う、拓海さん』

 ずっと黙ったままの翼が話しかけてくれている。俺は、この時を待っていたんだ。

「良かった、本当に良かった…」

『拓海さん、僕貴方が好きなんです』

 翼の言葉に、俺は心臓が高鳴るのが分かった。俺の気持ちは翼に届いていたんだと、嬉しくて抱き締めていた翼を俺の正面に向ける。

 すっかり見慣れた、綺麗な翼。

「お、俺も好きだよ!俺も翼の事ずっと好きだったんだ…!」

『嬉しいな。じゃあ、拓海さん僕と一緒に来てくれますか?』

 翼は、輝くような笑顔を浮かべた。その笑顔に、俺も嬉しい笑みを浮かべて見返した。

「勿論だよ、翼。俺は君とならどこまでも行くよ」

『待って、拓海さん!!』

 不意に、違う声が俺の名を叫んだ。俺はびっくりして、そちらに視線を向けた。――――なんと、そこに翼がいた。何か黒いものに阻まれて此方に来れない翼が、必死に俺に向かって声を上げている。

『拓海さん!それは僕じゃない!そっちに行っちゃ駄目だよ!!』

「え…?なんで?翼はここに…」

 思わず腕の中にいる翼に視線を向けた。こちらの翼は冷たい目で向こうの翼を見ていたが、俺の視線に気が付くとにっこりと微笑んだ。

『僕が本当の翼だって、拓海さんは信じてくれますよね?』

 俺は、困惑した。二人の翼の出現に、頭の中が混乱していた。どちらかが俺を欺いているのか?

『駄目だ、しょう!!拓海さんを連れて行かないで!!』

 翔?俺は向こうの翼の言葉に思考が止まる。翔とは、誰だ?

『拓海さん、僕に話してくれましたよね!?目が覚めたら拓海さんのバイクに乗せてくれるって!冬の海を見に行こうって!!』

 それは、俺が寝ている翼に話していた言葉だった。バイクが趣味の俺は、元気になったら翼を後ろに乗せて海に行こうと話しかけていたのだ。

「君は…」

 腕の中にいる少年を、俺はゆっくり離して後ずさった。よく見れば、寝ている翼にあった口元の黒子ほくろがなかった。

『――――あと少しだったのに…』

 翔、と呼ばれた彼は俯いて涙を一筋零した。

『僕は、必死に想ってくれているあなたが好きだった…夜に見つめ合って、心を通わせてくれた僕を一途に想うあなたが…一緒に来て欲しかった…』

 立ち上がると、翔は泣き笑いを見せた。その表情に、俺は傷付けてしまった事を悲しく思ってしまう。しかし、彼は翼ではない。

「ごめん、俺は翼が好きなんだ」

 ようやく黒い何かから解放された本当の翼が、俺の許に駆け寄ってくる。その彼を、俺は抱き締めた。

『ごめん、翔。僕が生きていて、拓海さんも手に入れて』

 翼の言葉に、翔は身を屈めて俺の顔を両手でつかんで掠めるような、触れるか触れないかのキスをした。

『…次は、拓海さんを連れて行くから…』

 翔の言葉と共に、視界が揺らいだ。俺は再び闇に放り投げられた。




「!先生、目を覚ましました!」

 瞳を開けた俺は、翼の母親の言葉で覚醒した。どうやら、俺は翼の病室で倒れてしまったらしい。睡眠不足と栄養失調、極度の体調不良と診断されていた。「そんなになるまで、翼の為に…」と、翼の母は涙を流していた。

「それよりも、翼の病室に!」

 俺は看護師の手を振り切って身を起こすと、点滴の管を抜いて立ち上がって翼の病室に向かった。何故か、翼が目を覚ます気がしていたからだ。あの黒いもやのようなものが、翼の覚醒を邪魔していたような気がしていた。

「翼、翼!」

 俺は、翼の名を何度も呼ぶ。翼の母親と医師も追いついてきて、俺と翼を不安そうに眺めていた。

「……ん…」

 はっとして、俺は翼を見つめた。医師と母親も驚いたように翼の許に寄る。

「…拓海、さん…」

 ゆっくり瞳を開いた翼は、俺を真っ直ぐに見て笑顔を浮かべた。俺はへなへなと床に腰を落として、母親は翼の名を呼んで泣き医師は看護師を呼び病室は騒がしくなった。



 俺もしばらく入院することになり、翼の横にベッドを並べて貰った。そして、翼から翔の話を聞いた。

 翔は、翼と一卵性双生児だったのだ。しかし、中学生の頃二人はある男に付きまとわれていて、たまたま翔が遅くなった夜道を一人で歩いている所を襲われたらしい。拒んだだろう翔に逆上したその変質者は、翔を殺してしまったそうだ。その変質者は、翔を追うように警察がくる前に自殺したのだという。翔に覆いかぶさるように、その男は死んでいた。

 翔と翼は仲が良く、好きな人やものが一緒になったりしたそうだ。俺が必死に翼を見守っている姿に、自分と姿を重ねた翔は俺を好きになってしまったのだろう。翔に悪い事をした、と翼は涙を見せた。

 翼は暫く泣いていたが、顔を上げると健気な笑みを浮かべた。

「冬までに、早く治そうね。そうして、翔の分も拓海さんを大切にするよ」

 そう言って笑う翼に笑い返しながら、俺は内心不安に思っている事が胸を占めていた。


『…次は、拓海さんを連れて行くから…』


 翔の最期の言葉。これが、現実にならないように。俺は、翼を守らなくてはいけない。翔が、翼を乗っ取らないように。俺が、翼と離れないように。





 そう、僕は拓海さんに嘘をついている。あの男は、僕より翔を選んだ。同じ顔なのに、どうして翔を?翔は、見向きもしていなかったのに――だから、翔と一緒に殺して殺人者にしてやった。僕は翔より、愛されていたい。同じ顔でも、僕の方が翔より優位でいたい。だから拓海さんの様に、僕だけを見てくれる人が必要なんだ。


 次も、僕は翔に負けない。拓海さんを、渡さない。翔、お前は死んだんだよ。

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