二人の距離 -3

 呪われた島の朝は、明るかった。

 人がいない分、ヴェルレステ本島よりも静かでのどかな朝だ。鳥が美しい声で鳴いている。夜は巨大な影だった森も緑が鮮やかで、葉が朝の光に輝いていた。

「おはようございます、オリバー君」

 洗濯場で顔を洗っていたら、トーラスが傍らの入り口からひょっこりと顔をのぞかせた。

「おはようございます」

「よく眠れましたか?」

「一応は」

 外の空気が吸いたくなって、オリバーもトーラスが明け放した入口へと向かう。

「すごい格好ですね」

 トーラスは麦わら帽子に頬かむりといういで立ちだった。泥にまみれた前掛けを払う。

「畑の世話をしてきたので」

 朝ごはんです、と言いながら、トーラスは土のついた蕪を掲げた。


「オリバー、おはよう」

 振り返ると、やはり同じような格好をしたアデイルがいた。こちらは野菜ではなく、花を抱えている。

「あ、綺麗」

 おはようよりも先に、つい花への感想が口をついた。鮮やかな橙色の花びらは、温かなお日様を思わせる。

「その花はどうするの」

「お墓に供えるのよ」

「……お父さんの?」

 アデイルが驚いたような顔をした。何のためらいもなく、『お父さん』と言ったせいだろうか。自分でも不思議だが、父親をそう呼ぶことにはためらいを感じなかった。もう亡くなっていて、顔を合わせていないからかもしれない。

 だけどアデイルは目の前に、生身として存在している。そこには間違いなく、人としての関係が生まれるのだ。

「そう、お父さんの」

 アデイルのことはまだ『お母さん』とは呼んだことがない。それでも『お父さん』と口にしたオリバーに、アデイルは微笑んだ。

「俺もお墓参りしたいんだけど、いい?」

「勿論」

 アデイルの少し後ろをついていく。腕の中のひなげしが優しく揺れていた。


 墓地は魔女の家の裏にある、森の中にあった。

 思っていたより墓石の数は多かった。手入れは追いついていないようだったけれど、汚いとは思わない。白い墓石は森の緑に溶け込んで、清らかで神聖なものに見えた。

「オリバー、先にこちらのお墓への御参りがあるの。いい?」

「お父さんじゃないの?」

どの墓石も手のつけようがないと言うほどひどい状態ではないから、定期的に手入れはしているのだろう。それでも周りと比べて明らかに綺麗に磨かれている墓石の前で、アデイルは膝を折った。

「こっちのお墓の方が入り口に近いから先に。それにどうしても、マシューのお墓参りの方が時間をかけてしまうものだから。イリスには申し訳ないけれど」

「イリスって、確か」

「エイミーのお母さんよ」

 エルダが暗く口にしていた名だ。立ち入ったことを言えば、現王が王太子時代に密通した女性。

「ライエのお姉さんでもあるわね」

「え、嘘!」

 衝撃の事実を告げられ、オリバーは思わず大声を上げる。

「じゃあライエは、エイミーの叔母さんってこと?」

「そういうことね。おばさんって言うと、嫌がるけど」

 エイミーとライエ、どこか似ているだろうかと二人の姿を思い浮かべるけれど、どうにも二人の姿が重ならない。流れる金の髪も繊細な横顔も、エルダの方がずっと近かった。二人とも王に似ているということだろう。


「イリスはこの島が呪いに閉ざされる少し前、今からだと七、八年前ね。病気で亡くなって。ライエと同じで体は頑丈なほうだと思ったのだけど、病ばかりはわからないわね。子どもを産んだ後は、体質もずいぶん大きく変わったみたいだし」

 イリスという人はレイラ島に現在いないのだから、亡くなっているのかもしれないとは思っていたけれど。改めてアデイルの話に耳を傾ける。

「イリスは母乳の出も悪くてね。エイミーが生まれた頃、私もちょうどあなたを育てていたから、私がエイミーにも母乳を飲ませてあげて」

「そうなの?」

「そう。あなたの方がふた月くらいお兄ちゃん」

 知らない事実が次々出てくる。記憶がない分、どんな話も新鮮だった。

「ライエはイリスが子どもを身籠ったってだけで、大わらわだったのに。実は私もお腹に子どもが……って言ったら『お願いだから、落ち着いて心の底から祝わせて!』って叫んでたわね」

 ライエの苦労がしのばれて、オリバーは苦笑した。

「ライエ、大変だっただろうね。自分のお姉さんは王様の子を身籠っちゃうしさ」

 言う分には簡単なのだが、本来は口にするのも憚られる話だ。醜聞と言っていいかもしれない。

「今の王様、悪い話ほとんど聞かないんだけどな。俺達みたいな庶民にはわからないだけか」


 オリバーもヴェルレステで平穏に暮らしていた時は、王やその一族に悪い思いなんて抱いていなかった。けれどエルダの苦しみや、呪いやエイミーの存在を知ってしまった今では、今までのような見方はできそうにない。

「そうね。私も個人的には、振り回された気しかしないのだけど。でも実際ヴェルレステは平穏で、民はつつがなく暮らしているわ。色々と突けば不満も問題も出てくるでしょうけど、それは国が存在する限りは避けようのないことよ。王太子の頃に比べたら、ずっとまともな人間になったって評判だしね」

 そこまで行って、アデイルは軽く噴き出した。

「ライエが殴って、説教したって言うからね」

「嘘だあ!」

 突拍子のない話に、オリバーは再び大きな声を上げてしまった。

「本当よ。それでずいぶん、王太子はお変わりになられたって。王宮では知る人ぞ知る伝説として囁かれているらしいから」

「あーでも、ライエならやりかねないかも……」

 ライエが王宮にも繋がりがあること、どんなものを相手にしても堂々と尊大に振舞える秘訣が、ここにある気がした。

「でもまともになったっていうなら、エイミーたちのことを認めるとか何とか、できなかったの?」

「本当に、それこそライエが説得してからは、ずいぶん頑張ってイリスたちのことをどうにかしようとはして下さったみたい。けれどイリス自身が、レイラ島で信頼できる人たちとエイミーを育てていきたいって、高貴な身分なんていらないって言ったの」

 イリスはイリスで、最後には覚悟を決めたのね、とアデイルは言った。

「じゃあ見捨てられたってわけでもないんだ」

「少なくとも、イリス自身はそう思ってないでしょう。エイミーや、他の人間がどう思うかはわからないけれど」

 墓石に落ちていた泥を払って、アデイルは花を供えた。

「オリバー。エイミーのこと、どう思う?」

 アデイルの視線が、オリバーの額に注がれている気がした。オリバーは前髪に触れながら答える。

「どうって……。うん、やっぱり少し、可哀想だと思う」

 確かに彼女は、自分やエルダを呪っているのかもしれないけれど。それでも憎むべき相手として敵視する気持ちもない。

「そう。あのね、あなたとエイミー、とても仲良しだったのよ」

 微笑みながらアデイルは立ち上がって、次の区画へと歩き出した。


「マシュー、おはよう。オリバーが来てくれたわ」

 やはり綺麗に磨かれた墓石に刻まれた名前は、確かに聞いていた父の名のもの。

 ここはもうこの世にはいない人との繋がりを、確かめるための場所だ。

「……本当はここにはいないのだけれどね、あの人は」

「え?」

「海に出ている時に嵐に巻き込まれて、帰ってこなかったから」

 トーラスから話には聞いていた。けれどアデイルの口から聞くのでは、また重みが違う。

「だから死んでしまったことを認めるのには、結構かかってしまったのだけれど。だけどマシューは、帰る場所があることを幸せに思っていた人だから。だから、お墓もあったほうが良いかなって」

「うん。良いと思う」

 何の根拠もなかった。魂の帰る場所なんて、誰も知らない。けれどアデイルがいいと言うのなら、それが一番いいことなのだろう。

「私の部屋にも、帰ってくる場所は作ってあるのよ。遺品とか清めた海水とかを置いてね」

 今は島に三人しかいないからということで、アデイルは生家ではなく魔女の家に部屋をもらって暮らしているそうだ。その部屋に、小さな魂のよりどころを作っている。アデイルは墓石にすでに供えられていた花と、今朝持ってきた花を入れ替えた。

「あとは、古い方の花を海に撒くの」

「そっか」

 ふと胸に迫る切なさがあった。多分、アデイルから伝わったものなのだろうけれど。愛する人の死を悼む母の姿は、オリバーに記憶がなくても寂しいものがある。


「お母さん」

 気づいたら呼んでいた。寂寥に駆られて、温かなこの言葉を、口にしたくなった。

 ひなげしを揺らす僅かな風に、母を呼ぶ声はかき消されるかと思った。けれどアデイルはこちらを向き、僅かに見開いた眼をオリバーと合わせた。

「うん」

 それだけ言って淡く微笑む。和らいだ目元に光ったものに、オリバーの胸が締め付けられたのも一瞬。ぼろぼろと零れだした涙に、アデイルは口元を覆った。

「ああ、ごめんね、ごめんなさいね。ちょっと、こらえきれなくて」

 鼻を鳴らしながら、アデイルは何度も涙をぬぐった。オリバーも喉と鼻の奥が痛くて、揺れそうになる視界に何度も瞬きする。

「本当に、ずっとずっとオリバーに会いたかったのよ。あなたの小さな手を離したことがとても悲しくて、ずうっと寂しかった」


 愛情深かった夫とあどけない子どもとの、家族三人の生活は本当に幸せだったこと。嵐の夜、絶望に襲われたこと。帰らぬ夫の死を認めるまでの孤独。ライエとの確かな信頼と友情の心強さ。エイミーを育てるイリスとの、母親同士の奮闘が慰めにもなったこと。そして何があっても子どもだけは大切に育てようという意志と、オリバーへの愛情を支えに生きようとしたこと。

 アデイルの語る、オリバーの知らぬ母の戦いが胸を焦がした。

「だからあなたをライエに託して離れ離れになった時は、本当に身を引き裂かれる思いだったの。だけど、あなたには平穏に暮らしてほしかったから」

「俺をライエに預けたのは何で。呪いのせい?」

 身勝手な事情ではないということは、痛いほどにわかった。だとしたら、一体どんなやるせない理由があるというのか知りたかった。

「……オリバー。少し後ろを向いているか、目をつぶっていてくれないかしら」

 言われた通りに、オリバーは目を伏せた。アデイルが何かしら動くような気配と、布を捌くような音が聞こえる。

「どうぞ」

 言われて目を開ける。何があったのかはすぐには判断できなかった。

「私の足元を見て」

 うつむいたアデイルの視線と同じように、彼女の足元を確認する。靴下を脱いだ素足。オリバーは息を飲んだ。

「……それって」


 アデイルの両足首には、オリバーとエルダと同じように呪いの文字が刻まれていた。エルダの両腕に文字の鎖が巻き付いているのと同じで、アデイルも両足首ずつ文字がぐるりと刻まれてる。

「お母さんも、呪いを」

「そう。私はね、レイラ島から出て行こうとすると、両足首を縛られるのよ」

「どうしてそんなことに」

 いったいこの呪いは、誰を、どれだけの人を呪っているのだろう。どれだけのものを奪っているのだろう。

「オリバー。私はあなたと再会してわずかだから、見てきたようなことは言えないわ。それでも私は、あなたが優しい子に、強い子に育ってくれたと信じている」

 アデイルは真っすぐとオリバーを見つめた。

「そんなことない。剣術だって全然だし、なんにもわかってないし」

「あなたはここまで来てくれた。それにたくさんのこととちゃんと向き合おうとしている。エルダ王女ともちゃんと話をしたんでしょう。私とも、正面から向き合ってくれたわ」

自分と同じ色の瞳を、オリバーもまた見つめ返した。 

「あなたが知ったら重い真実もあるのかもしれない。重荷を背負わせることになるなら、話さないほうが良いのかもしれない。だけど、この呪いがどうして始まったのか、話しておこうと思う」

「……うん」

 真剣な目に戸惑っていたら、温かな手が、オリバーの肩をそっと掴んだ。

「もし、どうしても受け止めきれなくて、苦しかったら。その時は、お母さんが抱きしめてあげる」

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