8. 食後のデザート #1

 イルヴァは男の顔をまじまじと見つめる。そういえば、いまだにその男の名さえも知らないことに気づいた。

「母親……って、どういうこと? そもそも、あなた誰?」

「そのままの意味だ。お前の母親はここにいたことがある」

 いたことがある。つまり、今ここにはいない、ということだ。だが、それ以上の理解が追いつかず、何を聞けばいいのかもわからなかった。


「私はフレデリク。この城の主人あるじだ。お前を探していたのは、黒衣の者たちから守るためだ」


 城、守る、黒衣の者。どこから突っ込んでいいかもわからない言葉の羅列に、呆然とその顔を見つめていると、フレデリクと名乗ったその男は、冷酷に見えた表情を少し緩めて、深いため息を吐く。


「お前が生まれた時、お前の母親は言った。この子供は厄介な星の下に生まれてしまったようだ、と」

「全然意味がわからない」

「私も全てを知っているわけではない。お前の母親はお前を産むと、お前を連れて姿を消した。身を守るためだと言い残してな」


 だが、やがて周囲の村や小さな町で不穏な事件が続いたのだという。村が丸ごと焼き払われ、一夜にして灰になる。何かを探すというよりは、根こそぎ滅ぼしたいとでもいうようなその凄惨な事件は、数ヶ月に一度ほどの頻度で続いていた。


「私の領内であれば把握もできるが、配下の者たちに探らせたところ、隣国までも同じような事件が起きているという。ただ、その範囲が広かったことで、関係が見出されず、対応が後手に回っていたようだが」

「ここはどこなの?」

「オルヴィレク公国の端、お前の住むレイルヴェルク王国との国境くにざかいにある侯爵領だ」

「あなたはそこの侯爵様ってこと?」

「ああ」

「なんで侯爵様自ら人攫いなんてやってんの?」

「……お前、人の話を聞いていたか?」

「聞いてたけど、わからないから訊いてるんじゃないか」


 冷ややかにそう言うと、呆れたように相変わらずどこか嘲るような、これまた冷たい眼差しが向けられる。実のところ、傍から見れば、よく似た二人だと思われたことだろうが、本人たちは気づく由もない。


「人攫いではない、保護しに行ったのだ」

 山の中をさすらっていた彼女の腕を掴み、泥の中に引きずり倒してまで無理矢理連れて行こうとしたことを「保護」だと言い張るその様子に、かなり苛立ちを感じたが、それ以上にその理由の方が気になった。

「だから、何で?」

「本当にわからないのか?」

「わかんないから聞いてるんだってば」

「鈍いな……母親そっくりだ」


 これ見よがしに深いため息とともに呟かれた皮肉げな言葉に、もともと短く脆いイルヴァの堪忍袋の緒は、あっさりと切れた。


「あのねえ、いい加減に……!」

 イルヴァが叫びかけた時、不意に明るく穏やかな声が割って入った。

「あらあら、もうお食事はお済みですか? まあ、まだたくさん残っているじゃありませんか。こんなに細くていらっしゃって。ああでもなんて美しくなられて。この淡い金の髪と、そうですね、全体のお顔立ちはお母さまにそっくり。目元はお父上に……残念ですが、少し女性としてはきつすぎるかしら」

 唐突にまくし立てるように、おまけに最後に目元が残念と言われて何やら気にはかかったが、それ以前に話の内容についていけなかった。何か、とんでもないことを言われているような気がした。


 改めて目を向けると、フレデリクよりもさらに年配の女性が何かがこんもりと載せられた盆を持ってこちらを見つめていた。灰色の髪に、穏やかだがきらきらと楽しげに輝くはしばみ色の瞳はとても人が良さそうに見える。


「……あの?」

「ああ、食後のお菓子デザートをお持ちしようと思ったのですけれど」

卵の焼き菓子エッグタルトはそうじゃないの?」

「ああ、あちらは旦那さまが先にお持ちするようにと。想い出のお菓子ですから。あんな顔をしていらっしゃるけれど、意外と情熱家ロマンティストなんですのよ。笑ってしまいますわよね」


 あんな顔で、ともう一度本当にふき出しながら言っている。目を向ければ、意外なことに、当の男は慣れているのか明らかに不機嫌そうな顔をしていたが、言い返そうとはしなかった。


「お嬢さまは甘いものはお好きですか? それともさっぱりとした果物などの方がよろしいかしら?」

「どっちでも……それにお嬢さまって……そんな柄じゃない。イルヴァ、です」


 そう名乗ると、女性は少し何かを考え込むように、イルヴァさま、と呟いた。遠くを眺めるような目をして、けれど、すぐにイルヴァに視線を戻してにっこりと微笑む。


「素敵なお名前ですね。それにしても、まさか旦那さまはまだ何もお話ししていないのですか? もしかして、何かひどいことをされませんでした?」

 心底気遣うような声に、嘘は見えない。

「ひどいことっていうか、最初はぬかるんだ泥の中に引きずり倒されたし、今回は殴られて攫われたよ」


 むしろひどいことしかされていない。そう告げると、女性は急に厳しい表情になった。旦那さま、と絞り出すように言った声音は地の底から響いてくるように低い。


「どういうことです?」

「エマ、話をややこしくするな。非常事態だったのだ」

「とおっしゃいますと?」

「この娘の住む村が襲われ、山の中で見つけたが、通りすがりの男に攫われた。村を焼き払った連中が何を考えているのかはわからんが、一刻も早く保護する必要があると考えたのだ」

「攫われたんじゃない。強引に連れて行こうとしたあなたたちからくれたんだよ。それにしても……何か危険があったの?」

「わからぬ。連中は村を焼き払って満足しているかもしれないし、あるいは他に狙いがあったのかもしれぬ。何もわからぬ以上、最善はお前をここに連れてくることだった」


 だが、イルヴァは素直に言うことを聞きそうになかったし、ノアもまた抵抗するであろうことがわかっていたから、強引に攫ったのだ、と。


「そんな……じゃあノアは……⁉︎」

 もし、イルヴァが狙いだったのだとしたら、彼女を保護してくれていたノアに危険が迫るかもしれない。ぞくりと背筋が冷え、震えた彼女の様子を見て、フレデリクは冷ややかに続ける。

「あの街には手勢を何人か残して見張らせている。今のところ異変はないようだ。連中がお前を追っているのならば、むしろこちらに注意が向くはずだから、そう心配はいらないだろう」

「……本当に?」

 この男なら、ノアを囮にするくらいはやりそうな気がした。彼女の表情から心中を読み取ったように、フレデリクは一つため息を吐く。

「それも考えたがな。お前が泣くと面倒だからやめにした」

「何それ?」

「本当にお前は鈍いな」

「まあまあ、旦那さまはこう見えて意外とお優しいのですよ。こんな顔ですけど」

 このご婦人も一言余計な人かもしれない、と思ったが、イルヴァは口には出さない程度には空気が読める方だった。


「とにかく、いろいろ誤解があるようですから、まずはきちんとお話しなさいませ」


 言いながら、エマと呼ばれた婦人はテーブルに皿を並べていく。鮮やかな橙色の柑橘、赤く瑞々しい苺に、綺麗に切り並べられた林檎。その横にはさまざまな形の焼き菓子が添えられている。

 最後にイルヴァの前のカップに香り高いお茶を注ぐとにっこりと微笑んで、それでは、と言って下がっていった。フレデリクは憮然とした表情のまま、まだエールを飲み続けている。


 エマは話せと言ったが、フレデリクにはその気はないらしい。イルヴァとしても何をどこから訊くべきかわからず、とりあえずカップに口をつけてから、いくつかの果物と菓子を皿に取る。柑橘はその鮮やかな色と香りの通り、口に入れると粒が弾けてさっぱりとした酸味と仄かな甘みが広がった。苺はやや酸味が強い。林檎はしゃりしゃりとした歯応えがよく、爽やかに甘い。

 最後に細長い四角の厚みのある焼き菓子を口に入れると、表面はさっくりとしていて中はしっとり、牛酪バターの香りと微かな檸檬レモンの風味が広がった。


「……よく食べるな」

「他に言うことないの?」

「何が聞きたい?」

「全部」

「もう少し要点をまとめろ」


 どこまでも偉そうなその態度に、わずかに修復されたはずのイルヴァの堪忍袋の緒がまた切れそうになったが、瑞々しい果物と、もう一つ口に放り込んだ美味しい角形焼き菓子フィナンシェに免じて勘弁してやる事にする。


「黒衣の者たちって誰?」

「母親のことはいいのか?」

「別にいいよ。もういないんでしょ?」

 どんな理由があれ、自分を捨てた親のことなど別に聞きたくもなかった。イルヴァの様子に、フレデリクはなぜだか顔をしかめる。

「その……父親のことも……」

「別にいいってば。村を襲ったのがそいつらなの?」


 香り高いお茶に口をつけながら、すげなく言った彼女に、フレデリクはしばらくまじまじとイルヴァを見つめ、何かを言いたげな顔をしていたが、ややして諦めたのか苦虫を噛み潰したような顔になる。

 そうして、これ見よがしに何度も深いため息をついてから、ようやく口を開いた。


「詳細は私も知らぬ。ただ、大戦が終わり、世界が三分された後、もともと人間たちの大きな王国があったこの大陸が、人間たちの世界と定められた。その結果、この大陸に住んでいた魔力を持つ者たちのほとんどはこの地を去った。だが、残ったものもいなくはなかった。ほとんどの人間たちはそれを気にしなかったが、それを快く思わない者たちもいた」


 魔力を持たず、隣国では銃火器ぶきさえも禁じられた。そこに、魔力を持つ者たちが交じっているのが気に入らないという、その身勝手な意見は、だが権力を制限されて不満を持つ者たちや、貧しく職にあぶれたものたちの良いはけ口になってしまった。


「それで?」

「その者たちは、魔力を持つ者たちを狩ったのだ」

「狩った……?」

「要は食いつめた連中のただの略奪だ。はじめはその者たちや縁者だけが、やがては彼らを匿った村や街の者たちまでが標的になった」


 大戦直後の混乱で世界はまだ乱れていた頃であり、あちこちで残酷な事件や多くの悲劇が起こっていた。やがて、それぞれの王や公爵たちによってそれらの暴動は鎮圧されていったが、今もそういった思想を持ち、襲うものたちがいるのだと言う。


「むしろ、三百年も経ってもまだそんなことをしでかす連中だ。ますますたちが悪くなっていると言ってもいいだろう」

「そいつらが、私の村を襲った?」

「その可能性が高い、とは思っている。ただ、もともとは略奪が主な目的だったはずなのに、全てを灰にしてしまってはそれもままならない。それでも同じような事件は特にここ数年、あちこちで起こっている」

「それじゃ……」

「言っただろう、詳しいことは私にもわからぬ。ただ私は標的となっている村にお前がいることを知らされて、保護するために向かったのだ」

「知らされたって、誰から?」

「お前の母親だ」

 そこまで言って、フレデリクはもう一度深いため息をつく。

「お前の母親は訳あってお前のそばにはいられなくなったが、それでもお前を気にかけていた。あの村が襲われると知って、私に助けを求めに来たのだ」

「何であなたに?」

 大きな苺を頬張りながら、心底不思議そうに尋ねたイルヴァに、フレデリクは苛立ったような視線を向ける。


 だが、明らかに不機嫌に口を開きかけたその時、慌ただしい物音が聞こえ、衛兵らしい姿の男が駆け込んできた。

「侯爵……!」

「何事だ?」

 すかさず立ち上がりその男の元に彼が歩み寄った時、その男の背が蹴り飛ばされ、剣の切っ先がフレデリクに突きつけられるのが見えた。

「お前は……!」


 立っていたのは、そこにいるはずのない人の姿だった。肩で息をしながらも、その眼差しは今まで見たこともないほどに苛烈で鋭い。蹴り倒された衛兵の男が起き上がり、真正面からその闖入者を睨んだが、なぜかその顔が驚きを浮かべ、次の瞬間、ずるりとその場に倒れ込む。


 倒れた男には見向きもせず、フレデリクに剣を突きつけているその姿をイルヴァは信じられない思いで見つめる。

「……ノア?」

 声をかけると、驚いたように目を見開く。イルヴァは立ち上がると駆け出してその胸に飛び込んだ。

「ノア!」

 左腕でしっかりと抱きしめられ、その力強い腕と慣れた匂いに、何より安堵する。

「無事か?」

 低い声はわずかにかすれていた。イルヴァがその腕の中で頷くと、一瞬その表情が和らぎ、だがすぐにフレデリクに視線を戻すと、まっすぐに彼を睨み据えた。

「お前が元凶だな?」

「何のことだ」

「イルヴァの村を焼き払い、攫った。俺たちの村を襲ったのもお前たちの仕業か?」

「違う。私は、その娘を『保護した』だけだ」


 対峙するフレデリクの表情は冷ややかで平静そのものだったが、その言葉にノアの瞳が怒りを増す。普段は飄々として、ほとんど負の感情をあらわにすることなどない彼の紫の瞳は、今は怒りで燃え上がるようだった。そうして、イルヴァは初めて彼が意識的にを行使するのを間近に見た。


 ノアは地の底から響いてくるような低い声で、を宣言する。


「お前はイルヴァを傷つけた。二度とこいつに関わるな——ここで自ら命を絶って死ね」

 ノアは懐から短剣を取り出すと、フレデリクの足元に放った。男は一瞬不思議そうに首を傾げ、だがすぐにその瞳が熱に浮かされたように茫洋とする。そのままノアの差し出した短剣を拾い上げ、自らの首筋に当てる。

「何してるの⁉︎」

 驚いてイルヴァが声を上げると、その手がぴたりと止まる。わずかに正気を取り戻したフレデリクに、だが、ノアは容赦なく言い募る。

「死ね」

「……一体……ッ!」


 フレデリクは必死に何かに抵抗しようとするが、その手に持った短剣は首筋へと食い込んでいく。誰かがその手を操っているかのように、本人の意志とは関わりなく滑る刃によって、すい、と一筋の切り傷が浮かび、赤い色が流れ出す。あとほんのわずか力を込めれば、取り返しもつかないほどに血が溢れ出すだろう。


 イルヴァがもう一度声をあげようとしたその時、甲高い声が割って入った。


「おやめください! その方は——旦那さまはイルヴァさまのお父上なのですよ!」

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