6. ラザニア

 その噂を運んできたのは、いつものようになぜか当然というような顔をして夕食のテーブルについているアクセルだった。

「怪しい奴が街をうろついてる?」

 ノアが訊き返すと、アクセルは自分で持ってきた葡萄酒のコルクを抜きながら頷いた。

「ああ、なんか見慣れない風体ふうていで、誰かを探してるようだって」

「見慣れない風体って、旅人ってことか?」

「いや、なんか黒ずくめで物々しく剣やら槍やらで武装してたって話だ」

 その言葉に、ノアは何かを考え込むような顔になる。


 先の大戦が終結して以来、この世界は山中での野盗による追い剥ぎや強盗などを別とすれば、そこまで治安は悪くない。特に、イルヴァたちの住むレイルヴェルク王国は、国中に流通していた銃火器ぶきが大戦直後から王命により、兵士を除いては、ほんのわずかな例外を除いて所持が禁止された。


 他国との小競り合いが続く間は、不安を抱く国民からの反発も強かったようだが、銃火器がなくなったことで大規模で無差別な殺戮は確実に減り、さらに王は武力と政治で領土を拡大し、周辺国が手出しができないほどの平穏をもたらした。その精神と治世のわざは次代へも着実に受け継がれ、大戦以降平和が続いている。

 それでも、イルヴァの村のように滅ぼされることは稀でも、襲われて荒らさられる村や小さな街は少なくはなかったのだが。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、不意にアクセルが何やら面白そうに声をかけてくる。

「そういえば、仲直りできたのか?」

「……何の話?」

「俺の林檎のアップルパイ、美味かったろ?」

「うん」

「そりゃよかった」

 それ以上は何も言わず、ただニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。ノアに視線を向けると、何だか微妙な顔をして目を逸らされた。

「……別に喧嘩なんてしてないよね?」

 もともとかなり歳の差のあるノアとイルヴァでは、普段は口論にさえならない。いくらイルヴァが不機嫌になっても、ノアはいつも飄々と受け流すか、抱きしめたり口づけて、ほとんどのことを曖昧にしてしまう。

「……ああ」

 だが、今はそう頷きながらも、なぜか視線は宙にさまよい、その無精髭だらけの頬を指でかいている。アクセルが笑いながらグラスに葡萄酒を注ぎ、差し出してきたので、ノアに近づいて一つを差し出すと、ようやくその眼がまっすぐにイルヴァに向けられた。

 鮮やかな紫の瞳は、それでも少し揺れているように見えた。

「ノア?」


 林檎のパイを食べたのは数日前のことだ。でも、確かにそれ以来少しノアの様子がおかしいような気はしていた。いつもなら何かといえば抱き寄せて、からかうように唇に口づけを落としてくるのに、あれ以来、そうしたことをされた記憶がない。

 近づけば頭を撫で、せいぜい髪や額に口づけるくらいで、あまり自分からは触れてこない。今もじっと見つめていると、またその視線が逸らされる。

 何か気に障ることをしただろうか、とイルヴァの瞳が不安に揺れ始めた時、アクセルが呆れたように声を上げた。

「まったく……世話の焼ける」

 言いながら立ち上がると、不意にイルヴァを抱き寄せてその胸に抱き込んだ。ノアとは異なる、けれども確かに力強いその胸の中は、何か香ばしい——パンの匂いがした。

「アクセル、いい匂いがするね」

 頬がその胸に触れたまま、あまり深く考えずにそう言うと、なぜだかイルヴァを抱きしめる腕がびくりと震えた。見上げると、いつもは余裕の鳶色の瞳が何やら戸惑ったような光を浮かべている。彼女の身体に回された腕が力を増し、それからアクセルの頬が柔らかな淡い金の髪に寄せられた。その体にしみついたパンの匂いが慣れ親しんだもののせいか、不思議とあまり嫌な気はしなかった。


 ぼんやりと、そのままじっとしていると、大きなため息が降ってくる。

「ノア……何だよこの可愛い生き物?」

 見上げると、呆れたような、それでもいつもの表情を取り戻した顔が面白そうに笑う。

「可愛いし、柔らかいし……そりゃお前が本気になっちまうのもわかるわ」

 顎をすくい上げられ、間近に近づいた顔はいつもとどこかが違って見えて、イルヴァは身じろぎしてその腕から抜け出そうとしたが、思いの他、力強い腕は離そうとはしてくれなかった。

「アクセル、離して」

「ノアならいいのに?」

 耳元で低くそう言った声は明らかに揶揄する声音だったから、イルヴァは拳を握りしめると、遠慮なくその鳩尾を殴りつけた。不意をつかれたせいで綺麗に入った一撃に、アクセルがその場に膝をつく。

「いってぇ……!」

「お前が悪い」

 笑みを含んだ声に見上げれば、ノアがこちらを見下ろしている。じっともう一度見つめると、何かを迷うような顔をして、結局ぽんぽんと軽くイルヴァの頭を撫でて、肩をすくめただけで離れてしまう。

「さあ、飯にするぞ」

 胸に何か穴が空き、そこに冷たい風が吹いたような気がしたが、イルヴァはそれについては深く考えないことにした。


 台所から戻ってきたノアは、テーブルに皿を並べていく。小さく角切りにした馬鈴薯じゃがいもを干し肉と一緒に塩と胡椒で炒めたもの、人参の甘照煮グラッセに、それから何やら白いスープ。最後にアクセルが持ってきた籠から大きな四角い器に盛られた料理と丸く大きなパンを取り出した。大皿料理の表面は乾酪チーズがこんがり焼けた色で、香ばしい匂いがする。

「これ何?」

「小麦を練った生地を薄く伸ばして、間に香味野菜とひき肉を香辛料を入れて炒めたソースを重ねたのを、あいつの竃で焼いてもらったんだ」

「いい匂いだね」

 ふわりと笑ったイルヴァに、一瞬ノアが固まって、それでもやはりそれ以上何も言わずにふいと目を逸らされた。アクセルがあからさまに大きなため息を吐くのが聞こえたが、イルヴァにはその理由がわからなかった。

「冷めないうちに食うぞ」


 言って、イルヴァに座るよう促すと、大皿のその料理をナイフで切り分けて取り皿に入れて渡してくる。まだ湯気が立つほどに熱々だった。幾層にも重ねられた薄い生地の間から白と赤っぽいソースがとろりとこぼれている。

 口に運ぶと、滑らかな白いソースとひき肉の味わいが小麦の生地と相まって、じゅわりと旨味が広がる。

「美味しい。でもこれ、ずいぶん手が込んでるね」

 言いながら、ノアが朝からずっと台所に篭りきりだったのを思い出した。アクセルが横からグラスを傾けながら相変わらずからかうような声を上げる。

「料理してる方が落ち着くんだろ」

「うるせえよ」

 ノアは憮然とそう言って、葡萄酒を喉に流し込んでいる。イルヴァは首を傾げたが、あまり触れない方が良いような気がしたので、今度は白いスープに口をつける。滑らかなそれは、野菜の旨味とそれを包み込むような優しい味がした。

「これも馬鈴薯じゃがいも?」

「そうだ。すり下ろして、香味野菜と一緒に煮込んだんだ」

「ずいぶん馬鈴薯づくしだね」

 干し肉とともに炒められたものを口に運ぶと、ほくほくとしていて、塩味と何かの香草の香りがした。同じ材料でもこうも味わいが異なるものかと驚くほどだ。

香芹パセリ迷迭香ローズマリーを振ってあるからな。平気か?」

「うん、これくらいなら。ちょっと変わった香りだけど、美味しいよ」

 香草の類があまり得意でないと知っているからそう聞いてくれてるのだとわかったけれど、お世辞でなくその風味はちょうどよいアクセントになっていた。

「ところで、変な人がいるって……?」

「ああ、見慣れない格好だって言ってたから、この国の人間じゃないのかもしれない」

 その言葉に、ノアがびくりと肩を強張らせるのが見えた。

「まさか……」

「そうと決まったわけじゃないが、気をつけるに越したことはないだろうな」

 その言葉の意味するところがわからず首を傾げたイルヴァに、だがノアもアクセルも何も言わなかった。


 葡萄酒を飲みながらゆっくりと食事をする二人を残して、先に食事を終えたイルヴァが、温かな料理と少しの葡萄酒で心もお腹も満たされ、いい気分で暖炉の前で丸くなってうとうとしていると、ややして肩に暖かいものがかけられた。眼を向ければ、ノアが湯気の立つカップを持ってそばに座り込んでいる。アクセルの姿は見えなかった。

「アクセル、もう帰ったの?」

「ああ」

 そう言って差し出されたカップを受け取ると、葡萄酒とふわりと香辛料の匂いが立ち上る。いくつか刻んだ果実の浮かぶそれは、以前飲んだそれとはまた異なる香りががした。

「……肉桂シナモン?」

「ああ。本当は丁字クローブも入れるらしいんだが、今は手に入らなくてな」

「体が温まる感じがするね」

「そうだな」


 いつになく言葉少なに暖炉の火を眺める横顔をじっと見つめていると、その眼差しがイルヴァに向けられる。深いその色にまた見惚れていると、ノアはカップを置いてイルヴァの頬に手を伸ばしてきた。いつもは温かい大きなその手が、どうしてだか今は冷たい。何かを迷うような光の浮かぶその瞳は、それでもゆっくりと近づいてきて、唇が重ねられた。

 それまでされてきたのとはどこか異なる、優しく何かを確かめるように、ついばむように繰り返されるその口づけは、ここ数日隙間風が吹いていたようなイルヴァの心を暖かく溶かしてしまう。目を閉じると、さらに抱き寄せられ、絡みつくように舌が入り込んで深く何度も角度を変えて口づけられる。

 長いそれが終わって、唇が離れてから眼を開くと、あの時と同じように熱を浮かべた瞳がイルヴァをじっと見つめていた。


「イルヴァ」


 短い愛称でなく、本当の名を呼ぶその声は低く掠れている。頬に触れる手があまりに冷たくて、イルヴァは目を丸くした。

「冷たいね」

「……緊張してんだよ」

 らしくねぇよな、とどこか困ったように微笑わらう。その意味がわからないほどイルヴァは子供ではなかったから、まだ動きの鈍いノアの左手と合わせて、両手で包み込む。その手は大きくて、イルヴァの手には到底収まりきらなかったけれど、それは確かに彼女を救い出し、そして温もりを教えてくれた手だった。

「ノア」

 まっすぐに、その紫の瞳を見つめる。

「私は——」

 だが、イルヴァが口を開いた時、突然扉が大きな音を立てて開かれた。開かれた、というよりは、蹴破られたのだと気がついたのは、黒い影が走り込んできて、ノアを打ち倒した後だった。

「ノア⁉︎」


 暖かい部屋の空気が一気に冷えたように感じる。

 黒い影に見えたのは、剣を握った三人の男達だった。そのうちの一人がイルヴァの腕を掴み、残りの二人はノアに剣を向けていた。暖炉の火と灯りを反射してぎらつくその剣は、いつかの記憶を呼び覚ます。


 ——


 イルヴァに白刃を突きつけ、泥の中に引き倒した黒ずくめの男が確かにそう言っていたことを、今さらのように思い出す。そうして、自分の腕を掴んでいる男の不敵に笑う薄青い瞳に、確かに見覚えがあることも。

 今しもノアに剣が振り下ろされようとした時、イルヴァは必死に叫んだ。


「やめて! ついていけばいいのなら、そうするから!」


 男たちの動きが止まる。イルヴァを掴んでいる男は、冷ややかな眼差しを向け、それから口の端を上げて笑った。

「そんなにあの男が大切か?」

 冷酷な声と、男の握る剣に怯みそうになりながらもイルヴァは立ち上がる。男は、わずかに眼を見開いて、それからもう一度笑う。

「素直なのはいいことだ。まあ、いい。今のところは、お前さえ確保できれば」

「何言ってやがる、そいつを放せ!」

「あれほど痛めつけられても、まだ懲りないのか」


 叫んだノアに冷ややかな眼を向けてから、男が残りの男たちに目配せをすると、そのうちの一人が起き上がりかけていたノアの頭を剣の柄で打ち据えた。ぐらりとその体がかしいで床に倒れる。すぐに起きあがろうとしたその背を、男が踏みつけた。


「イル……ッ!」

 床に手をつき、なんとか起きあがろうとしたノアを、男は容赦なく蹴り付け、首筋に手刀を叩き込んだ。大きな体がそのまま床に倒れ伏し、動かなくなる。

「ノア!」

「心配するな、殺してはいない」

 冷ややかな声に眼を向けると、男はイルヴァの顎を捉え、値踏みするようにじっと見つめた。

「お前が本当に——なら、こんな状況は容易に打開できるはずだが……まあどちらでも構わぬ」


 言って、その手が振り上げられ、それから自分に振り下ろされるのが、奇妙にゆっくり見えた。そうして、激しい痛みとともに意識が闇に落ちる寸前、イルヴァの目に焼き付いたのは、ぴくりとも動かないノアの姿だった。

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