第25話


         ※


 僕たち四人は、ラボ奥のエレベーターに乗り込んだ。


「地球環境を再現したと言っても、有害な動植物は存在しない。安心して、いろいろ観察してくるといい」

「ありがとうございます、博士」

「礼には及ばんよ。君たちの方こそ、悲惨な目に遭いながらもよくここまで辿り着いてくれた。そうでなければ、委員会に訴え出ることもできなかったわけだからね」


 やはり僕たち生存者の存在は、世界に実情を知らせるのにどうしても必要だったらしい。

 待てよ。もし、そうした一種の利用価値がなければ、博士は僕たちを助けてはくれなかったのではないだろうか?


 僕はそれを問うべく振り返ったが、その時には既に、エレベーターのドアが閉まりゆくところだった。博士は相変わらず、人懐っこい笑みを浮かべている。


 もしかしたら、助けてはもらえなかったのではないか――。いや、それは僕の考え過ぎだろう。胸中でそう呟いて、僕はエレベーターが降下していくのに身を任せた。


 さて、エレベーターが降下し始めてから二分ほど経っただろうか。随分時間がかかっている。

 無理もないか。このラボを含んだ基地は、高さが二・五キロはあったのだ。その上層部から下層部に向かっているのだから、確かに時間はかかるだろう。


 やがて、緩やかに降下速度が落ちた。


「到着したようですね」


 トニーが少し上ずった声で告げる。きっと、やや暗くなってしまった雰囲気を払拭すべく、できるだけ明るい声を出そうとしたのだろう。

 僕はそれに対する感謝、一抹の不安、そして何より大いなる期待を抱いて、エレベーターから足を踏み出した。


 まず五感を刺激したのは、二つの要素。視覚と聴覚だ。

 白色の、しかしワームホールのそれとは異なる光が、僕たちの目に差し込んできた。さっと手を翳したものの、光の具合は柔らかで、不快なものではない。

 また、聞こえてきたのはチュンチュン、という鳴き声。これはさえずりと言うのだろうか? 地球に生息する鳥類の声として、授業で聞かされた覚えがある。

 だが、まさかこんなに早く、それもこれほど複雑な状況下で耳にすることになるとは。


 さらに感じられたのは、匂いだ。草木や花々が醸し出す青臭さ、それに土から立ち昇ってくる特有の自然臭。


「アル」


 後ろから声を掛けられて、僕は振り返った。やや遠くに、他の皆の姿がある。

 そうか。僕はこの環境に魅了されて、無意識のうちに森林に進み入っていたのだ。


 その場で大きく深呼吸をする。自然の要素に満ち満ちた、清浄な空気が喉から肺へと流れ込む。

 これが、地球……。


 もちろん、ここが軌道エレベーター上の施設内であることを忘れたわけではない。

 しかし、何故か確信できたのだ。本当の人間の居住空間とは、『このようなもの』なのだと。どれほど巧みなテラフォーミングが為されようと、やはり地球そのものには環境的に及ばないのだと。


「僕はもう少し進んでみる」

「え? あっ、ちょっと、アル!」


 レーナが心配げな声を上げたが、僕は背を向けたまま、片腕を上げて応じるに留めた。


         ※


 博士の言った通り、僕は驚きこそすれ、危険を感じはしなかった。

 その間に目に入ったもの、耳を震わせたものは、列挙しようにも挙げきれない。


 鬱蒼と生い茂る大木群、草木を震わせる小動物、優しく鼓膜を震わせながら飛び交う小鳥たち。

 僕はそれら一つ一つに魅了され、憧れを一層強くした。


 もうすぐ。もうすぐだ。地球に降りれば、もっと広大な自然に触れることができる。

 そう思いながら、僕が大木の隙間を抜けた、その時だった。


 唐突に、視界が開けた。そこには目立った木々がなく、下草が繁茂していた。

 右から左へ、視界が穏やかな流れを作っている。そうか、川が流れているのだ。

 近づいて覗き込むと、これまた小さな魚類が、忙しく鰭を動かしているのが見える。


 ふと、顔を上げた。

 どうしてこのタイミングだったのか、自分でも分からない。ただ、そうしようと思った時には、僕の視線はつと上げられていた。既に焦点は、対岸に合わせられている。正確には、そこにあるベンチに腰掛けている人物に。


 入院中の患者が着るような、シンプルな服装をしている。細長い足は優雅に組まれ、手元には、今時珍しい紙製の本がある。掌に収まるような、小さな本。文庫本、と言うのだったか。

 理知的な目つき。すっと通った鼻梁。きらりと輝く眼鏡。


 そんな、馬鹿な。『彼』がここにいるはずがない。『彼』は死んでしまった。『彼』を思い出すことはあっても、再び相まみえることはない。

 そう、思っていた。


 驚愕の念に囚われている僕になど、微塵も気づいていない。そんな風で、『彼』はぱらり、とページを捲っている。

 僕はその名を呼ぶより早く、大声を上げた。『あああ』だったか『おおお』だったか、自分でも分からない。

 気づいた時には、浅い小川の真ん中あたりにまで踏み込んでいた。


 件の人物と、目が合った。


「ポール……。ポール!」

「やあ、アル」


 あんな酷い殺され方をしておいて、『やあ』じゃないだろう。そもそも、君はスペースプレーンに乗っていなかったじゃないか。どうしてここにいる。フィンが一体、どれほど君のことを心配して―—。


「待ってくれよ、アル。いっぺんに訊かれても、同時には答えられないって」


 ポールは頬を緩め、ぱたんと文庫本を閉じた。って、あれ? 僕は声を上げていたのか? 全く気づかなかった。


「他の皆は? 一緒じゃないのかい?」

「あ、ああ、ポール、ポール!」

「まあ、早く上がるといいよ。そこでは足が濡れるだろう?」

「ッ……」


 僕はばちゃばちゃと水滴を跳ね上げながら、対岸へ向けて駆け出した。多目的ブーツを着用していたのが幸いしたようで、転倒することはなかった。

 しかし、その人物の足元で、僕はひざまずいてしまった。ポールにそっくりな――否、どこからどう見てもポールとしか思えない人物の靴に手を載せる。しがみつく。


 生きていた。生きていてくれた。原理は分からないが、ポールは今ここで生きている。


「落ち着きなよ、大袈裟だなあ」

「だ、だってポール……僕は、僕たちは、君が死んでしまったと……。フィ、フィンだってここにいるんだ、早く会って……」

「だから、心を静めるんだ。さ、こっちに座ってくれ」


 僕は自分の足が動くのに任せて、ポールに近づいた。

 すっと立ち上がるポール。ああ、やっぱり彼はポール本人だ。どうにか存命だ。きっと惑星面基地で死んだのは、替え玉か何かだったんだろう。


 待てよ? だったら何故、替え玉なんて必要だったんだ? 逆に、今目の前にいるポールの方こそ、替え玉か何かである可能性があるのではないか?

 

「どうしたんだい、アル? 急に黙り込んで」

「い、いや……」


 僕はじっと、ポールの瞳を覗き込んだ。


「そんなにじろじろ見ないでくれよ、俺の顔に何か付いてるかい?」

「そういうわけじゃな――」


 と、言いかけて、僕は決定的な違和感に気づいた。

 ポールは自分を『僕』と呼んでいた。だが、今のポールの一人称は『俺』である。


「なあ、ポール」

「ん?」

「お前、ポールじゃないんだろ?」


 すると、目の前の少年はからからと笑い声を上げた。


「何を言ってるんだい、アル? 俺はポールだ、よっと」


 少年が軽い掛け声を上げると同時。僕は腹部に、灼熱感を覚えた。

 ゆっくり見下ろす。僕の脇腹から、小振りなナイフの柄が生えている。


「あ……」


 僕は、ポールに、刺された。

 そう認識する間に、思い出したかのように僕の腹部から鮮血が溢れ出した。


「バレては仕方がない。死んでもらうよ、アル」


 ゆっくりとナイフを捻じろうとするポール。しかし、僕はその手を掴み、無理やり自分の腹部からナイフを引き抜いた。視界が真っ赤に染まる。どうやら僕は、また戦闘体勢に入ってしまったらしい。


 ポールの意志したのとは逆向きに、ぐるりとその手首を捻り上げる。すると、ポールの肘から先が捻じ切れた。筋組織が引きちぎられるぶちぶちという音と共に、今度はポールの肘先から鮮血が零れた。

 いや、体液というべきか? それは赤色ではなく、透明だったのだ。明らかに、今眼前にいる存在はポールではない。いや、人間ですらない。


 次の瞬間、僕は殺気を感じた。十メートルほど奥の樹上からだ。

 咄嗟にポールの無事な方の腕を取り、ぐるりと半回転させる。そして彼の背後でしゃがみ込んだ。ポールの身体を盾にしたのだ。


 ポールの身体に銃火が降り注いだのは、まさにその直後のことだった。

 何だ? 何が起こっている? いや、それは分からないが、僕が命を狙われているのは間違いない。


 僕はポールのナイフを、もげた腕ごと投げつけた。マズルフラッシュの見えたところへ。

 手応えはあったが、同時に何者かが撤退するのが感じられた。


 そうだ。止血をしなければ。僕は左脇腹に手を遣った。背後を警戒しながら来た道を戻り、川を渡る。左半身に負荷をかけないよう、左足を引き摺るようにして。

 他の皆と合流したのは、それから間もなくのことだ。

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