アメリカ独立戦争(ヨークタウン方面作戦)-2

 大陸軍は、両カロライナにおけるイギリス軍の脅威に対抗するため、ワシントンは部下の中で最良の戦略家の一人であるナサニエル・グリーン少将を、キャムデンの戦い後に崩壊していたノースカロライナの大陸軍再建のために派遣した。

 南部のイギリス軍を率いていたコーンウォリス将軍は、グリーン軍と戦ってカロライナの支配権を得ることを望んだ。グリーンはその少ない軍勢をさらに2つに分けて、ダニエル・モーガンに1隊を任せ、サウスカロライナのナインティシックスにあったイギリス軍の基地を脅かさせる。

 コーンウォリスはバナスター・タールトンにモーガンの後を追わせたが、1781年1月のカウペンスの戦いで、モーガンはタールトンの部隊をほぼ壊滅させた。その過程でタールトンをもう少しで捕まえるところまでいっている。

 この戦闘の後で「ダン川への競争」と呼ばれた戦いが起こった。コーンウォリスはグリーンとモーガンの部隊が再集結する前に2つの部隊を捕まえ様と追わせる。

 グリーン隊が上手くダン川を渡り、ヴァージニアに入った時、配下の兵士に携行品の大半を置いて来させていたコーンウォリスは追跡を諦めた。しかし、援軍と物資の補給を受けていたグリーン隊は再度ダン川を渡り、グリーンズボロに戻ってコーンウォリスに戦いを挑んだのだ。

 このギルフォード郡庁舎の戦いでコーンウォリスは勝利している。しかし、グリーン隊は兵力を保ったまま後退していた。

 イギリス軍は、かなりの損失を出していたため、コーンウォリスは援軍と物資補給のためにウィルミントンまでの撤退を強いられる。それを見たグリーンは、サウスカロライナとジョージアに進んでその大半の支配権を回復した。

 コーンウォリスは命令違反を犯していたものの、クリントン将軍から戦略的な指示も無かったのである。そのため、このとき1400名に過ぎなかった部隊を4月25日にバージニアに進ませる決断をした。これは、フィリップスとミューレンバーグがブランドフォードで戦ったのと同じ日だったのである。


 フィリップスは、リッチモンドでラファイエットに敗北した後、東に転じてその地域の軍事と経済の標的を破壊し続けた。5月7日、フィリップスは部隊を集結させるためにピーターズバーグに向かえというコーンウォリスからの命令を受ける。その3日後、フィリップス隊はピーターズバーグに到着した。

 ラファイエットは、そのイギリス軍陣地を短時間砲撃したが、実際に攻撃を仕掛けるには自軍の勢力が足りないと言う考えに至る。

 5月13日、フィリップスが熱病で死亡し、アーノルドが指揮を引き継いだ。アーノルドは特に人望があるわけではなかったため、兵士たちは不満を抱く様になる。この時点でコーンウォリスの部隊を待ちながら、アーノルドとラファイエットの部隊は対峙を続けていた。

 アーノルドはラファイエットとの対話を試みたが、ラファイエットはワシントン将軍からアーノルドを捕まえ次第、絞首刑にするよう命令されている。そのため、アーノルドの書状を開封せずに返却した。

 5月19日、コーンウォリス隊がピーターズバーグに到着する。この時、大陸軍兵1000名と民兵2000名で構成されていたラファイエット隊はリッチモンドまで後退した。

 その後、間もなくニューヨークからアンスバッハのフォン・ボイト大佐が援軍を率いてイギリス軍に合流したことで、コーンウォリス軍は7000名以上になっている。


 コーンウォリスは、アーノルドをニューヨークに戻した後、クリントン将軍からフィリップスに出されていた命令に従って行動した。その指示とは防御を施した基地を構築し、ヴァージニアの軍事と経済の標的を襲撃することである。

 コーンウォリスはまずラファイエットの脅威を取り去る必要性があると判断した。そのため、ラファイエット隊の追跡に出発する。

 ラファイエット隊は明らかに劣勢だったので、急速にフレデリックスバーグにまで後退した。そして、そこの重要な補給倉庫を守ることにする。ミューレンバーグはポイント・オブ・フォーク(現在のバージニア州コロンビア)まで後退し、イギリス軍襲撃前に後方に送っていた物資を集めた。

 6月1日、コーンウォリスはハノーバー郡庁舎に到着する。そして、全軍でラファイエット隊を追うのではなく、バナスター・タールトンとジョン・グレイブス・シムコーのそれぞれに襲撃隊を組織させて派遣したのであった。


 カウペンスの戦いで、ブリティッシュ・リージョン隊が激減させられていたタールトンは、小部隊を率いて迅速にシャーロッツビルに向かい、ヴァージニア議会議員数人を捕まえる。ジェファーソン知事も捕まえるところだったが、取り逃がしてしまう。そのため、モンティチェロにあるジェファーソンの屋敷でワイン数本を得たことを満足するしかなかった。

 シムコーはポイント・オブ・フォークに行ってミューレンバーグや物資倉庫を狙う。6月5日、短時間の戦闘でミューレンバーグの部隊約1000名は兵力の損失を出したが、物資の大半を持って川向こうに撤退することが出来た。

 シムコーは約300名しか率いていなかったため、宿営地では数多くの火を焚かせてその勢力を大きく見せるようにする。このことでミューレンバーグはポイント・オブ・フォークから撤退し、翌日シムコーは残っていた物資を破壊した。


 一方、ラファイエットは到着の遅れていた援軍が到着するのを期待する。アンソニー・ウェイン准将が率いるペンシルベニア大陸軍の数個大隊が、2月に大陸会議からヴァージニアでの任務を承認されていた。

 しかし、ウェインは1月に起こった軍隊内の反乱の後始末をする必要があったのだ。この反乱は、ペンシルベニア・ラインの戦力をほとんど無力化していた。ウェインがこの防衛線を再構築し、ヴァージニアへの行軍を始めるのは5月になってからとなる。

 反乱鎮圧後も、ウェインと部下の兵士たちの間には不信感が残っていた。ウェインは自分の弾薬と銃剣が必要ないときは鍵をかけてしまっておく必要があったくらいだ。

 ウェインは5月19日には既に出発の用意ができていた。しかし、兵士たちの給与が価値の下がったコンティネンタル・ドルで払われたため、再び反乱が起こる恐れが出てきたので、部隊の出発は1日遅れることとなる。

 6月10日、ラファイエット隊とウェインの部隊800名はラッパハノック川のラクーン渡しで合流した。その数日後、ウィリアム・キャンベルの率いる民兵隊1000名によって更に補強されている。


 シムコーとタールトンの襲撃が成功した後、コーンウォリスは東のリッチモンドとウィリアムズバーグに侵攻した。その過程でラファイエット隊のことはほとんど無視している。

 ラファイエットはその勢力が約4500名となり、自信を取り戻していた。そのため、敵軍への接近を始めたのだ。

 6月25日、コーンウォリス隊がウィリアムズバーグに到着までに、ラファイエット隊は10マイル (16 km) 離れたバード酒場の位置にいた。その日、ラファイエットはシムコーのクィーンズレンジャーズ隊がイギリス軍本隊から分かれた小数勢力であることを知る。そして、騎兵と歩兵を幾らか送ってシムコー隊の動きを阻止しようとしたのだ。

 その結果、起こったスペンサー・オーディナリーでの小競り合いは、両軍が互いに本隊と至近距離にあると考えて起こったものであった。

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