アメリカ独立戦争(ヨークタウン方面作戦)-4

 大陸軍とコーンウォリスとの降伏の交渉は2つの問題で複雑化していた。1780年に大陸軍がチャールストンで降伏した時、大陸軍は軍隊旗を維持し、敵の軍楽を演奏すると言うことを含め、降伏の伝統的な条件を認められなかったのだ。ワシントンはこれらの条件をヨークタウンで降伏したイギリス軍に適用させることを主張する。しかし、その公証人は守備隊がどちらの場合にも勇敢に行動したことを指摘した。

 2つ目の問題は、イギリス軍宿営地に居るロイヤリストの処遇に関することである。この問題は、イギリスのスループ艦ボネッタが如何なる種類の検閲も無しに、コーンウォリスの伝令を乗せてニューヨークに向かわせるという条件を付け加えることで解決された。逃亡奴隷やロイヤリストが乗船しているかもしれないというアメリカ側の疑念があったものの、艦内捜索は妨げられることは無かったのである。


 10月19日、イギリス軍守備隊は陣地から行進して出てきた時、その軍隊旗は箱に入れられ、軍楽を演奏していた。コーンウォリスは病気だと主張して儀式には参列せず、副官のオハラ将軍にその剣を届けさせている。

 オハラはまずそれをフランス軍の士官に渡そうとしたが、ワシントンの士官の一人であるベンジャミン・リンカーンに渡すよう指示された。リンカーンはチャールストンで敗北を喫したときの指揮官だったのだ。リンカーンは差し出された剣を短時間保持し、その後にオハラに返している。


 その後の数週間、イギリス兵は護衛されてヴァージニアとメリーランドの宿営地に移動させられた。コーンウォリスなどの士官は仮釈放でニューヨークに戻され、イングランドに戻ることを許されている。

 1781年12月、コーンウォリスが乗船した船には、ベネディクト・アーノルドとその家族も運んでいた。


 こうして、包囲戦を支えた地元民兵は軍務から解放されることとなる。大陸軍部隊の幾つかはニューヨーク地域に戻り、ワシントンが終戦までイギリス軍との対峙を続けることとなった。他の部隊は両カロライナにおけるグリーン将軍の作戦を助けるため、南に向かっている。給与と待遇の問題は戦争が終わるまで続いたが、ワシントンはそれ以上の戦闘を行わなかった。


 ド・グラスと共に来たフランス軍は、ド・バラス艦隊と共に11月初旬に乗船し西インド諸島に向かっている。ド・グラスたちは、西インド諸島でイギリスが保持していた多くの拠点を再占領した。

 そして、ジャマイカ攻撃のためにスペイン艦隊との合流に備えていたものの、1782年4月にロドニー提督がセインツの海戦でド・グラスとその旗艦を捕獲している。そのため、ロシャンボー将軍の陸軍はヴァージニアで冬季宿営に入り、翌年夏にロードアイランドに戻った。


 ワシントンの副官テンチ・ティルマン中尉は、大陸会議に戦勝の報せを届けるために派遣されている。10月22日にフィラデルフィアに到着したが、彼よりも前にボルティモアから発せられた第一報で降伏の報せが届いており、第一報より2日遅れていた。

 ワシントンからの戦勝の報せは、大陸会議と大衆を狂喜させることとなる。教会の鐘が鳴らされ、自由の鐘も鳴らされた。この様な行動は、戦勝の報せが植民地中に届けられる度に繰り返されていく。

 大陸会議代議員数人が、ワシントンにコーンウォリスを逮捕して絞首刑にすることを要求する決議案を提案した。しかし、「数日間続いた議論」の後、その案は投票で否決されている。


 コーンウォリス降伏の報せは、イギリス軍が占領していたニューヨーク市を喪に包ませた。最初は懐疑的だったが、最終的に10月27日に確認される。それでもクリントンは救援活動の報せを待っていたが、空しい結果に終わった。

 クリントンはロンドンに召還され、1782年3月にニューヨーク市を離れることとなる。その後任にはガイ・カールトンが指名されたが、攻撃的な活動は中断する様に命令された。



 11月25日、コーンウォリス降伏の報せはロンドンに届く。ジョージ・ジャーメイン卿はフレデリック・ノース首相にその報せを届けた時の反応を「彼は胸にボールを飲み込んだかのようだった。驚いたように両腕を大きく広げ、数分間はアパートを行ったり来たりしながら『おお神よ!全ては終わった』と叫んだ」と表現していた。

 国王ジョージ3世は冷静に威厳を保って報せを受けたと伝えられているが、その報せが浸透するに連れて落ち込むようになり、退位まで考えたと言われる。

 議会における国王の支持者たちも落ち込み、反対派は意気を上げた。戦争を終わらせることを要求する決議案が12月12日に上程され、一回の投票で否決される。しかし、ジャーメイン卿は1782年初期に解任され、ノース内閣もその後間もなく辞職した。

 その後、和平交渉が始まり、アメリカ独立戦争は1783年9月3日に調印されたパリ条約で正式に終わる。


 コーンウォリス将軍は降伏した指揮官であったにも拘わらず、その敗北で非難されなかった。ロンドンに戻った時は暖かく迎えられ、ある著作家などは「コーンウォリス卿の軍隊は『売られた』」という大衆の感情を記している。

 クリントン将軍は、その生涯の残りを通じて自身の評判を守ることに費やした。1783年、『北アメリカにおける1781年作戦の記述』を出版し、その中で1781年作戦失敗の責をコーンウォリス将軍に追わせようとしている。これにはコーンウォリスによる公開反論が行われ、コーンウォリスに向けられた非難をそのままクリントンに返した。公開された激しい討論の中には、彼らが交わした書状の多くの出版も含まれている。


 グレイブス提督もド・グラス提督に敗北した責を問われなかった。最終的には海軍大将まで昇進し、貴族に列せられている。しかし、チェサピーク湾の海戦に関する多くの観点は、戦闘直後から当時もその後も議論の対象になってきた。

 9月6日、グレイブス提督は信号が混乱して使われたことを正当化する覚書を発行した。その中には「戦列を組んで前進という信号は同時にでた戦闘信号で打ち消された。戦闘信号は、戦列を組んで前進という信号に厳密に固執された場合には無効になると理解されるべきではない。」と記されている。

 フッドは彼の写しの裏に記したコメントで、これは戦列を乱した敵と戦える可能性を排除するものである、何故ならそれはイギリス艦隊の戦列も乱されることになるからであると主張していた。その代わりに「イギリス艦隊は開戦時の重要な時点を利用するために出来る限り密集しているべきだった」と述べている。


 ロシャンボー伯爵は、パリに宛てて戦勝の報せをもたらす2人の使者を派遣した。このことはフランスの軍隊政治の中では異常な結末を生むこととなる。

 包囲戦の間に頭角を現していたデュック・ド・ローザンとドゥーポンテ伯爵の二人が別々の船で報せを持って出発した。

 ドゥーポンテにはフランス海軍相カストリー侯爵のお気に入りであるシャルラス伯爵が同行している。シャルラスについては、ローザンが政治的な理由で自分の代わりに派遣する様にロシャンボーに勧めた人物だった。

 フランス国王ルイ16世とその閣僚は温かく戦勝の報せを迎える。しかし、カストリー侯爵と冷遇されたシャルラスは、ローザンとロシャンボーが成功に対する褒賞を受け取ることを否定するか遅らせられるようにしたのだ。

 そのため、ドゥーポンテはサンルイ勲章と連隊長の任務を与えられることとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る