アメリカ独立戦争(西部戦線)-2


 アメリカ独立戦争の期間中、イギリスとアメリカの両陣営ともに、入植地を攻撃目標にした戦いを繰り返すこととなった。

 1780年、何百人ものケンタッキー入植者が、イギリス・インディアン連合によるケンタッキー遠征で殺され捕虜にされている。1780年8月、ジョージ・ロジャース・クラーク率いる遠征隊が、マッド川沿いの2つのショーニー族集落を破壊したが、戦況を変えるまでには至らなかった。


 同年5月下旬、スペインが領有していたセントルイスが、大半はインディアンで構成されるイギリス軍に攻撃される。しかし、スペイン人とフランス人クレオールからなる混成部隊で防衛することが出来た(セントルイスの戦い)。


 イリノイでは、フランス人士官オーガスタン・ド・ラ・バルメが、デトロイト砦攻略のため、フランス人住人による民兵隊を招集する。しかし、この部隊は11月にマイアミ族酋長リトルタートルの部隊に打ち破られることとなった。

 ほぼ同じ頃、ほとんど打ち捨てられていたセントジョセフ砦が、カホキアから来たアメリカ人に襲撃されてきる。しかし、このアメリカ人部隊は、帰路のプティ砦近くでイギリス王党派とインディアンたちに襲われることとなった。


 セントルイスにいたスペイン総督フランシスコ・クルサートは、セントジョセフ砦を抑えるため、約140名のスペイン兵とアメリカ・インディアンの部隊を派遣している。1781年2月12日、セントジョセフ砦を占領し、略奪をした。


 1780年遅く、クラークは東部に旅して、ヴァージニア知事トーマス・ジェファーソンと1781年の遠征について相談している。そこで、ジェファーソンはクラークが2000名の兵士を率いて、デトロイトを攻撃する案を授けた。

 しかし、十分な志願兵を募ることはとても難しい。アメリカ独立戦争の当時、ほとんどの民兵は、自分の故郷の近くに留まる方を好んでいた。そのため、遠方への作戦行動には興味を示さない。

 更にダニエル・ブロードヘッド大佐が、アメリカ植民地軍に反旗を翻したデラウェア族に対する遠征を行うためという理由で、配下の兵士を分けることを拒んだのだ。

 1781年4月、ブロードヘッド大佐は、オハイオ地方に進軍する。そこでデラウェア族の中心地コショクトンを破壊した。そのため、デラウェア族は確実に敵に回り、クラークのデトロイト方面作戦に必要な兵士や物資も確保できなくなる。デラウェア族の大半はサンダスキー川のアメリカに対して好戦的な町に逃げた。


 1781年8月、クラークは400名の配下を率いて、漸くピット砦を発つ。8月24日、彼の分遣隊100名が、オハイオ川の近くで西部モホーク族の指導者ジョセフ・ブラント率いるインディアンの待ち伏せを受け、敗北している(ラフリーの敗北)。

 この時のブラントの勝利で、クラークのデトロイト攻撃の試みは挫折することとなった。


 サンダスキー川沿いにある好戦的なインディアンの集落とアメリカ植民地軍のピット砦の間には、幾つかのキリスト教デラウェア族の村がある。これらの村はモラビア派宣教師デイビッド・ツァイスバーガーとジョン・ヘッケウェルダーによって治められていた。

 宣教師たちは非戦闘員ではあったものの、アメリカ植民地側の考え方に好意的あったのだ。そのため、敵対するイギリス軍やインディアンの行動に関する情報をピット砦の指導部に教えていたのである。

 1781年9月、サンダスキーのワイアンドット族やデラウェア族が、キリスト教デラウェア族と宣教師達を強制的にサンダスキー川の新しい村(捕虜収容所)に移住させることとなった。


 1782年3月、デイビッド・ウィリアムソン中佐指揮下の160名のペンシルベニア民兵がオハイオ地方に入る。彼らは、ペンシルベニア開拓者達を襲い続けているインディアンの戦士を捜索していた。

 インディアンによる白人女性やその赤ん坊の陰惨な殺戮に怒りを覚えていたウィリアムソンの部隊は、グナデンヒュッテンの村で約100人のキリスト教デラウェア族を拘束する。キリスト教デラウェア族は、捕虜収容所からグナデンヒュッテンに戻り、残していた穀物の収穫を行おうとしていた。

 しかし、ペンシルベニア民兵は、キリスト教デラウェア族が開拓者達を襲い続けているインディアンを助けていたと断ずる。そして、ほとんど婦女子ばかりだったインディアン100名をハンマーで頭を割って殺してしまったのであった。


 引退していたウィリアム・クロウフォード大佐が、ペンシルベニア出身が大部分の志願民兵480名を引き連れ、北米インディアンの領地深く進入する。彼らの目的は、インディアンを急襲することであった。

 しかし、インディアンとデトロイトのイギリスの同盟軍は、前もってこの遠征のことを知っており、アメリカ植民地軍に対抗するために約440名をサンダスキー川に派遣する。

 戦闘は1日だけ行われたものの、決着はつかなかった。しかし、アメリカ植民地軍は包囲されていることを悟り、退却を試みた。この退却は壊走に変わったが、多くの者が何とかしてペンシルベニアに戻っている。

 結局、70名のアメリカ植民地軍が殺され、イギリス軍とインディアンの被害は軽微なものであった(クロウフォード遠征)。

 この退却において、クロウフォードと配下の多くが捕虜となっている。インディアンたちは、その年の前半にあったグナデンヒュッテンの虐殺で、約100名の非戦闘員がペンシルベニア民兵に殺されたことに対する報復として、クロウフォードたち捕虜の多くを処刑した。クロウフォードの処刑は特に残酷でたり、少なくとも2時間は拷問された後、火炙りにされている。


 クロウフォード遠征隊の失敗は、アメリカ開拓者の間に警鐘を鳴らした。アメリカ開拓者たちは、インディアンが勝ちに乗じて大胆となり、新たな攻撃をしてくるのではないかと恐れる様になる。

 アパラチア山脈以西の開拓者達にとって、1782年は「流血の年」と呼ばれることになった。1782年7月13日、ミンゴ族の酋長グヤスタが約100名のインディアンとイギリス人の志願兵を引き連れて、ペンシルベニアに侵入する。そして、ハンナズタウンを破壊し、開拓者9名を殺害するとともに、12名を捕虜にしたのだ。これは西部ペンシルベニアで独立戦争中に起こったインディアンによる最大の惨事となった。


 ケンタッキーでは、イギリス側のコールドウェル、エリオット、マッキーがインディアンたちと大きな攻勢をかける準備をしていた。それに対し、アメリカ植民地側も防御を固める。

 1782年3月、エスティル砦がワイアンドット族インディアンに攻撃された。この地域の指揮官でローガン基地に駐屯していたベンジャミン・ローガン大佐は、ワイアンドット族戦士達が、この地域では喧嘩腰であることを知る。

 デトロイトのイギリス軍に援助されていたインディアンたちは、ケンタッキー川沿いにエスティル砦を過ぎたブーンズボロから襲撃していた。ローガンはエスティル砦にいるエスティル大尉のもとに15名の兵士を派遣し、その部隊を更にに25名増強している。そして、その部隊に北と東を偵察しろという命令を与えた。

 エスティル大尉はその命令に従い、ステーションキャンプ・クリークの河口から数マイル下流でケンタッキー川に到着する。到着した夜はスウィートリック、現在のエスティルスプリングスと呼ばれる所に宿営した。

 彼らがエスティル砦を出発した翌日の3月20日夜明け、インディアンの一隊が現れ、砦を襲撃する。砦から見えるところでアイネス嬢の頭皮を剥いで殺し、エスティル大尉の奴隷であるモンクを捕まえ、牛を全て殺した。

 インディアンたちが退却すると、サミュエル・サウスとピーター・ハケットという2人の若者が、エスティル隊にこの出来事を報せる様に派遣された。3月21日早朝、2人はドローイング・クリークとレッド川の河口近くでエスティルの部隊を見つける。

 砦の40名の兵士の中で、約20名は砦に家族を残していた。そのため、彼らは2人の若者と共にエスティル砦に戻っている。

 残りの兵士たちはケンタッキー川を渉り、インディアンの足跡を見つけた。エスティルは25名の中隊を編成し、インディアンの後を付ける。3月22日、後にリトルマウンテンの戦いと呼ばれる戦いで、エスティル敗北を喫した。


 同年7月、1000名以上のインディアンがワパトミカに集結した。しかし、クラークがケンタッキーからオハイオを侵略する準備をしているとの斥候の報せに接し、遠征は中止になる。この報せは、後に嘘だと分かったが、コールドウェルはやりくりした300名のインディアンを引き連れてケンタッキーに侵入した。そして、8月のブルーリックスの戦いでアメリカ軍に壊滅的な打撃を与えている。

 しかし、アメリカとイギリスが停戦協議を進めていたため、コールドウェルはそれ以上の攻撃を行うことを止めされたのであった。

 同様に、大陸軍のアービン将軍がオハイオへの遠征の許可を得ていたが、これも中止になっている。11月、クラークがオハイオに最後の攻撃を行い、いくつかのショーニー族の集落を破壊したものの、住人たちに大きな被害は出なかった。


 アメリカ独立戦争における北西部での戦争は手詰まりで終わる。最後の年となる1782年の冬は、アメリカとイギリスの両軍とも、敵の開拓地を破壊できたものの、領地として保持することは出来なかったのだ。

 ショーニー族にとって、この戦争は損失だった。アメリカ側はケンタッキーを守ることに成功し、開拓地を増やしたので、インディアンの主要な狩場が失われている。

 インディアンたちは、オハイオ川地域から押し出されていた。そのため、アメリカ側がインディアンの襲撃を恐れて、占領したものの放棄された土地であるエリー湖盆地に入ることとなる。

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