アメリカ独立戦争における神聖ローマ帝国領邦とドイツ人

 アメリカ独立戦争における神聖ローマ帝国とドイツ人との関わりについて纏めておこう。

 神聖ローマ帝国とドイツ人は米英両軍に関わりを持つこととなった。その多くはアメリカのロイヤリストを支持し、イギリスの同盟国として参戦している。それは、イギリス国王ジョージ3世がハノーファー選帝侯を兼ねていたからだ。

 反乱を起こしたアメリカのパトリオット(愛国者)を助けるために大西洋を渡ったドイツ人も少数はいた。しかし、パトリオットに就いたドイツ人の大半は既に植民地人としてアメリカにいた者だった。


 アメリカ独立戦争の間、ドイツ圏に統一国家は無く、神聖ローマ帝国の下に多くの領邦が緩やかに統合されている状態だ。

 神聖ローマ帝国領邦の多くは、公式にプロテスタントを信奉している。そのため、イギリスのようなプロテスタントの国々と同盟するのが常であったのだ。

 また、ジョージ1世に始まるハノーヴァー朝の君主はイギリス国王とハノーファー選帝侯を兼ねている。アメリカのイギリス植民地で反乱が起こった時、イギリスはアメリカ植民地人の反乱を鎮めるため、帝国諸侯の幾つかとイギリス軍を助ける兵士を借りる契約をしていた。そして、ドイツ人の多くはアメリカ独立戦争において、従軍できることに大きな誇りを持っていたのだ。


 アメリカ人はアメリカ植民地にドイツ人部隊が到着したことに警戒心を抱くこととなった。そして、それをイギリス国王による裏切りと捉えたのだ。

 イギリス国王がドイツ兵を使うならば、喜んで独立を宣言すると言ったアメリカの代議員も少なからずいた。

 ドイツ兵はアメリカのパトリオットに宣伝材料を提供することとなる。ドイツ兵は軽蔑的に「傭兵」と呼ばれ、アメリカ独立宣言の中にも次のように言及されたほどだ。



 イギリス国王ジョージ3世の義理の叔父であるフリードリヒ2世が治めるヘッセン=カッセル方伯領は、12000名以上の兵士をアメリカで戦うために提供している。同盟者であるイギリスと同様に、ヘッセン=カッセル方伯の兵士は北アメリカの環境に順応するのが難しかった。そのため、最初に派遣されたヘッセン=カッセル方伯軍は広く蔓延した疫病に罹り、ロングアイランドの戦いでは攻撃に遅れを生じさせることとなった。

 1776年からは、ヘッセン=カッセル方伯の兵士が北アメリカ駐在のイギリス軍に組み入れられ、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦、ジャーマンタウンの戦い、チャールストン包囲線および最後のヨークタウン包囲戦を含み主要な戦闘の大半に参戦している。ヨークタウンではヘッセン=カッセル方伯の兵士約1300名が捕虜になったそうだまた、ヘッセン=カッセル方伯の兵士はイギリス軍の兵士よりも士気が高かったらしい。


 アメリカ独立戦争の間、ヘッセン=カッセルは16000名以上の兵士を送り、そのうち6,500名を失ったと見積もられていた。ヘッセン=カッセル方伯軍の士官のアダム・ルートヴィヒ・オクスは、1800名の兵士が戦死したが、ヘッセン軍の多くがアメリカに留まるつもりで来ており、戦後も留まったと推計した。

 ドイツ軍部隊の大多数がヘッセン=カッセル方伯領から来ていたため、アメリカ人はドイツ軍部隊を全て総称的に「ヘシアン」と呼ばれることとなる。ヘッセン=カッセルはイギリスとの間に、15個歩兵連隊、4個擲弾兵大隊、2個猟兵中隊および3個砲兵中隊を送る同盟条約を結んだ。特に猟兵は注意深く徴兵され、給与や制服も良く、肉体労働からは解放されていた。

 ヘッセン=カッセル方伯軍は、大西洋の反対側で失った兵士をすぐには補充できなかい。そのため、アフリカ系アメリカ人を従僕や兵士として徴兵していた。ヘッセン=カッセル方伯部隊として従軍した黒人兵は115人おり、その大半は鼓手か笛奏者としてだったそうだ。


 アメリカ独立戦争におけるヘッセン=カッセルの士官で最も良く知られていた人物は、ヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍であろう。独立戦争の幾つかの主要戦闘でヘッセン部隊を指揮していた。

 その他の著名な士官にはカール・フォン・ドノープ大佐とヨハン・ラール大佐がいる。ラールはトレントンの戦いで致命傷を負い、ラール指揮下の連隊は捕獲され、その兵士の多くはペンシルベニアに送られて農園で働かされることとなった。

 後に有名になる人物は、ヨハン・エーヴァルトだろう。ヘッセン=カッセル方伯領の野戦猟兵軍団に所属する大尉としてアメリカ独立戦争に参加していた。彼はアメリカ独立戦争の間に、体験した戦闘や観察について多くの著述を含む詳細な日記を書き残していたのだ。


 また、ヘッセン=ハーナウは当時はヘッセンの独立した侯領であった。ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の長男ヴィルヘルム(のちに方伯を継ぐ)が治めている。

 ヴィルヘルムは1775年のバンカーヒルの戦いについて報せを受けたとき、無条件でジョージ3世に1個連隊を提供した。独立戦争の間、ハーナウは2,422名の兵士を提供し、981名を失っている。

 ヘッセン=ハーナウではヴィルヘルム・フォン・ガール大佐が良く知られた士官だった。ガールはイギリス軍ジョン・バーゴイン将軍の下でハーナウからの1個連隊を指揮している。

 北アメリカに派遣された部隊の中には、1個歩兵大隊、1個猟兵大隊、自由軍団と呼ばれた1個非正規歩兵大隊および1個砲兵中隊がいた。


  こうして、ヘッセン=カッセル方伯親子は、傭兵としてそれぞれ軍隊を派遣したことで、イギリスから莫大な契約金を得ることとなる。そして、ナポレオン戦争下でヘッセン=カッセル方伯の莫大な資産の運用を任されたことで、ロートシルト(ロスチャイルド)家は飛躍することとなるのだ。



 神聖ローマ帝国におけるブラウンシュヴァイク=リューネブルクは、小さく分割された公国であり、神聖ローマ帝国の領邦だった。しかし、そのうちの1つはハノーファー選帝侯国となり、イギリス国王を輩出することとなる。そして、アメリカ独立戦争時はジョージ3世に統治されていた。


 ハノーファー選帝侯は他でもないイギリス国王ジョージ3世であり、その4個大隊がまずジブラルタルに派遣されている。そこで包囲されていたイギリス軍を解放し、その後にアメリカで戦うために派遣されることを予定されていた。

 これはジョージ3世の命令ではなかったが、イギリス議会とハノーファーとの間で承認された条約の一部であり、イギリスは戦時の費用を払うこととドイツの同盟国を保護することに同意している。


 同族のブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家では、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール1世の息子で後継者であるカール・ヴィルヘルム・フェルディナントはジョージ3世の姉オーガスタと結婚していた。

 1775年、カール・ヴィルヘルム・フェルディナント公子がジョージ3世に、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルはアメリカでの反乱鎮圧のために提供可能な軍隊があると告げている。1776年1月9日、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルはイギリスを支援する条約に、神聖ローマ帝国の領邦として最初に署名した。

 この時、4個歩兵連隊、1個擲弾兵大隊、1個竜騎兵連隊および1個軽歩兵大隊で構成される総計4000名が派遣されることで合意している。この条約では、兵士の給与が2ヶ月前払いで、ドイツの通貨ターラーで支払われることとされ、兵士は全てジョージ3世に忠誠を誓うことが要求された。


 カール1世はイギリスに、フリードリヒ・バウム中佐の下に4000名の歩兵と350名の重竜騎兵を提供し、全軍指揮はフリードリヒ・アドルフ・リーデゼル将軍に執らせている。

 これらの部隊は、1777年のサラトガ方面作戦でジョン・バーゴイン将軍の下に就いたドイツ正規軍の大半であり、「ブランズウィッカー」と呼ばれた。

 ブラウンシュヴァイクとヘッセン=ハーナウの複合部隊で、バーゴイン軍の半数近くを占め、ブランズウィッカーは特に良く訓練されていることで知られている。バーゴインの降伏の後、2431名のブランズウィッカーが終戦まで協議の軍隊として拘束されたままだった。


 ブラウンシュヴァイクは総計5723名の兵士を北アメリカに送り、その内3015名は1783年秋にドイツに戻っていない。戦死や脱走による損失もあったことだろう。

 しかし、多くのブランズウィッカーは協約軍として滞在する間に、アメリカ人と親しくなっていたのだ。そのため、戦争が終わるとアメリカの議会や上官からアメリカに留まる許可を得ていた。協約軍として軍務を放棄する機会を得た者の数は多く、ペンシルベニア東部のドイツ人開拓者の2倍に及んだ。

 カール1世はアメリカで戦死した兵士全員についてイギリスから補償を受け取ったため、脱走兵が可能な限り死者として報告されることが利益に叶っていた。

 カール・ヴィルヘルム・フェルディナント公はアメリカに留まった、あるいは戻った兵士にも6ヶ月分の給与を支払っている。


 カール・ヴィルヘルム・フェルディナント公が厄介な男で、軍事に並々ならぬ情熱を抱いている人物だ。趣味が軍事と言っても良い。そのため、義弟であり同族のジョージ3世にアメリカ独立戦争で傭兵を出す話を持ちかけたのだろう。

 しかし、公子はプロイセン軍の将軍であり、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの軍勢は、実質的にプロイセンに従属してるんだけどね。因みに、公子七年戦争では大いに活躍していたものの、ナポレオン戦争の頃は総司令官として失敗した老害に成り下がっている。



 我がプロイセン王室の分家であるアンスバッハもアメリカ独立戦争に傭兵を出していた。カール・アレクサンダー辺境伯の治めるアンスバッハ=バイロイトは、当初2個歩兵大隊、1個猟兵中隊および1個砲兵中隊からなる1644名の兵士を提供し、461名を失っている。戦争が終わるまでに最大2353名が派遣されている。

 これらの部隊はニューヨークでハウ将軍の軍隊に組み入れられ、フィラデルフィア方面作戦の一翼を担った。アンスバッハ=バイロイトの部隊は、ヨークタウンの包囲戦の際、チャールズ・コーンウォリス将軍の下に1100名近い部隊が就いていた。

 因みに、アンスバッハのアメリカ派遣軍の中には、後にナポレオン戦争で活躍するグナイゼナウも参加している。


 アンスバッハ=バイロイトの連隊はオクゼンフルトで起こった反乱で記憶されている。兵士たちはマイン川の船に乗せられていたが、ヴュルツブルクの司教が開放を拒んだため、橋を渡ることはできなかった。

 1777年3月8日朝、何人かのアンスバッハ兵が川岸に辿り着くことができ、他の船を陸にたぐり寄せる。士官たちはその不安を伝えようとしたが、何人かの兵士が脱走した。兵士の脱走を防ぐために追撃兵が付けられ、威嚇射撃をすると反乱兵が反撃した。

 辺境伯は暴動の報せを受けると即座に馬に跨り、夜を徹してオクゼンフルトに駆けつけている。辺境伯は兵士たちに再度、乗船するよう説得し、マインツまで同行して、マインツ大司教の同意無しに橋を開放させることに成功したのだった。


 アンスバッハ=バイロイト辺境伯は、アメリカ独立戦争が始まる前は、莫大な負債を抱えていた。そして、負債を解消させるため、イギリスに傭兵として軍勢を送る代償として、10万ポンド以上を受け取っている。

 結局、負債を解消させることが出来なかったため、1791年、辺境伯はアンスバッハ=バイロイトをプロイセン王国に売却することとなるのだが。その後、辺境伯はプロイセンから年金を受けてイングランドで余生を送ることとなる。



 ヴァルデック侯国は、1775年4月25日にイギリスを支援する条約を締結した。それはレキシントン・コンコードの戦いに関する報せがヨーロッパに届く前のことだった。

 フリードリヒ・カール・アウグスト侯子は、海外で雇用されて従軍可能な3個連隊を持っていたのだ。

 ヴァルデック侯国は1776年7月、684名の将兵からなる最初の連隊をポーツマスを出港させる。そして、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦に参戦した。この作戦の間、ヴァルデック連隊はアメリカのチャールズ・リー将軍の所有するワインと蒸留酒を捕獲した。しかし、イギリス軍のハウ将軍が路傍でそれらの瓶を空にさせたときには苦い思いをしている。

 ヴァルデック部隊はヘッセンのヴィルヘルム・フォン・クニプハウゼン将軍の下でドイツ補助隊に統合されることとなった。そして、ヴァルデックは1225名を派遣し、720名を失ったのである。



 アンハルト=ツェルプスト侯フリードリヒ・アウグストは、1777年にイギリスに1160名の部隊を供する条約を締結していた。5ヶ月のうちに900名の新兵を徴募し、2個大隊からなる1個連隊が起ち上げている。

 1778年5月、600名ないし700名の1個大隊がにカナダのケベック市に到着した。

 アンハルト=ツェルプスト侯の軍勢も実質的にプロイセンに従属しており、プロイセンとの関係の深さから言って、属国と言っても過言では無いが、帝国諸侯であるため、イギリスと条約を結んでしまっている。

 大伯父は自身の意向に沿わない出兵に対して、アンハルト=ツェルプスト軍がプロイセン領を通過するのを邪魔し、到着を遅らせていた。

 因みに、武装中立同盟を提言したロシアの女帝エカチェリーナ2世は、アンハルト=ツェルプスト家の出身で、アンハルト=ツェルプスト侯の妹にあたる。



 帝国諸侯の他にも、オーストリア帝国内のスラヴ人から徴募した非正規兵であるパンドゥール兵約500名からなる部隊が、1780年にイギリス軍の占領するニューヨーク市に派遣されている。


 アメリカ植民地においてもイギリス側に味方したドイツ人がいる。アメリカ植民地に移民したドイツ人植民者たちだ。イギリス人植民者によってバージニアのジェームズタウン開拓地が設立されてから間もなく、イギリス植民地へのドイツ人移民が始まっている。

 1690年、ドイツ人植民者は北アメリカで初めての抄紙工場を建設し、イギリスよりも早くアメリカで聖書が印刷された。18世紀半ばまで、植民地アメリカの人口の10%はドイツ語を話していたのだ。

 フレンチ・インディアン戦争の間、イギリスは北アメリカにいる多くのドイツ人移民を使ってロイヤル・アメリカ連隊を結成している。この連隊の初代指揮官は、スイス生まれのヘンリー・ブーケ将軍だった。この連隊は後にハウ将軍が指揮を執ることとなる。




 アメリカ独立戦争において、ドイツ人はイギリス側にばかり味方した訳では無い。イギリス植民地にいた他の民族集団と同様に、ドイツ語を話す植民地人も2派に割れることとなった。そして、パトリオットとロイヤリストのどちらかを支持することとなる。

 ドイツ人ロイヤリストは地元の民兵隊の中で戦い、戦後は追放されてドイツに戻った者もいた。独立戦争中のニューヨークにはかなりの数のドイツ人がいたそうだ。

 その他の植民地は、ドイツ人連隊を作ったり、ドイツ系アメリカ人を地元の民兵隊に参加させている。サウスカロライナ、チャールストンのドイツ人植民地人は1775年に擲弾兵中隊を結成し、ジョージアのドイツ人もアンソニー・ウェイン将軍の下に入隊した者がいた。


 ドイツ人植民地人は、特にペンシルベニア州で記録が残されている。ペンシルベニアのドイツ人は戦前にレディングに移民してきたプロイセンの士官バーソロミュー・フォン・ヘール大尉の下で、アメリカの憲兵司令部に徴募された。


 1776年6月27日、第二次大陸会議は大陸軍の一部として「ドイツ人連隊」を結成することを承認している。当初はメリーランドからの4個中隊とペンシルベニアからの4個(後には5個)中隊の合計8個中隊で構成された。アンソニー・ウェイン将軍の下のニコラス・ホイセッガー少佐が大佐(連隊長)に任命される。この連隊はトレントンの戦いやプリンストンの戦いに参戦し、サリバンのインディアンに対する遠征にも参加した。



 ヨーロッパのドイツ人もアメリカの同盟者としてアメリカ大陸に渡っている。フランス国旗の下でアメリカに来たドイツ人もいた。

 ヨハン・ド・カルプはバイエルン人であり、大陸軍の将軍となる前はフランス軍に仕えていたのだ。フランスはドイツ語を話す兵士2500名以上で8個連隊を持っている。フランスのロイヤル・ドゥポン連隊にもドイツ人兵士と士官がいた。


 他にも軍人としての経験を生かしてアメリカに来たドイツ人がいる。

 ヴォートケ男爵フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセンの士官であり、戦争初期に大陸軍の任官を受けたが、1776年にニューヨークで亡くなった。

 グスタフ・ローゼンタールはエストニア出身のバルト・ドイツ人であり、大陸軍の士官になる。ローゼンタールは戦後、母国に帰った。

 デイヴィッド・ジーグラーのような他のドイツ軍人はアメリカに留まることを選び、その建国を助けた国の市民になっている。


 史実でアメリカ植民地を支援したドイツ人として最も有名なのは、プロイセンのフォン・シュトイベン男爵であるが、彼は俺がスカウトしていたので、残念ながら参加していない。




 我がプロイセンのアメリカ独立戦争への対応は、大伯父フリードリヒ大王が武装中立同盟に参加し、戦争初期に支援したことでアメリカでは喜ばれていた。大伯父としても、イギリスの港を経ずしてアメリカとの貿易を始めることに興味を示し、プロイセンでアメリカの代理人が武器を買うことを認めている。

 大伯父はアメリカの成功を予言し、アメリカ合衆国を認知することを約束していた。そして、フランスと同様にアメリカの外交官を受け入れていたのだ。

 プロイセンは、隣国がアメリカに派遣する軍隊を起ち上げる時に干渉し、大伯父はプロイセン国内でアメリカのために徴兵することを禁じていた。また、プロイセン国内の道路をアンハルト=ツェルプストの軍隊が通ることを禁止している。この部隊は1777年から1778年の冬にワシントンの軍隊を潰すためにハウ将軍が必要としていたものだったが、到着が遅れることとなった。


 しかし、バイエルン継承戦争が勃発すると、大伯父はプロイセンとイギリスの関係に大変神経質になる。アメリカの船舶はプロイセンの港に接近することを止められ、1783年のパリ条約に調印するまで、公式にアメリカ合衆国を認知しなかったのだ。

 アメリカ独立戦争後も、アメリカ合衆国は共和国として運営するには大きすぎるので、間もなくイギリス議会に代表を送って大英帝国に復帰するだろうと予言していた。


 この様に、アメリカ独立戦争はイギリスやフランスが大きく表に出て来るが、神聖ローマ帝国諸侯やドイツ人たちも多く関わっているのだ。アメリカ独立戦争が与えた影響は、ドイツ圏のみならず、ヨーロッパ全土へと波及することとなる。

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