類語辞典シリーズ

『トラウマ類語辞典』はじめに:書き手のためのセルフケア/フィクションの鏡:人生と心の奥を映し出す


 序文もプロローグも似たようなもので、読者はそこを飛ばして本文に進みたくなるもの。けれどここでは、本書の内容に関して、ごく手短に注意すべき点をいくつか伝えておきたい。


 本書の目的は、トラウマを負うような出来事について、そしてそれがどんなインパクトをキャラクターに与えるかについて、有用な情報を提供することだ。物語に登場するキャラクターは誰もが――主人公に限らず、助言者、親しい仲間、恋のお相手、悪役まで――同様にトラウマに苛まれている。トラウマによって彼らの行動は動機づけられ、自ら選んだ目標に突き進んでいく。過去の傷によって、重要なキャラクターはそれぞれ、どのような破滅に向かい、どのように人格が変化し、どのような先入観を抱き、そしてどのように行動や態度が変わっていくのか。本書を読んで考えてもらいたいのは、そうした事柄だ。


 本書では、こうした心の傷に関しては徹底調査を行い、配慮を怠ることなく最善を尽くしているものの、著者は2人とも心理学者ではないということをご了承いただきたい。本書で扱う内容は、現実に当てはめるためのものではなく、あくまでも、物語のキャラクターをより一層深く理解し、過去のトラウマの影響を受けた彼らがどのような道を選んでいくのかを知るために書かれている。


 最後に、本書は物語を創作するための本だが、残念なことにトラウマそのものは架空の症例ではなく、この現実に存在し私たちの心に害を及ぼしている。私たちもまた誰もが何らかの形で心の痛みを体験しているわけで、トラウマについて書かれたものを読むことが、あなた自身の過去の傷を掘り起こしてしまうことがあるかもしれない。そうした点には十分に注意したうえで、キャラクターにおける心の闇を理解する作業を進めてほしい。必要であれば事前に対策をしておくとよいだろう。特に心的苦痛を感じるようなことがあった場合は、そのための対策を以下にいくつか紹介しておくので、そちらを参考にしていただきたい。



 ▼書き手のためのセルフケア


 安心できる場所で本書を利用する


 人の多いカフェや図書館、あるいは集団執筆的な催しでの執筆を好む書き手は多い。だが、キャラクターの心の傷に思いをめぐらすうち、自分自身の過去の何かに触れてしまい、不快な感情がどっと押し寄せてくるのは珍しいことではない。もしそんな状況に陥ったら、まずは少し休んで、ひとりになって気持ちを整理できる場所に身を置くべきだ。


 執筆作業後は、ひと休みしてから次のことをする


 キャラクターの苦難の時期というのは気安く書けるものではないし、それが書き手自身の体験に近ければ、特にきつい作業になる。何かしらの用事の直前や仕事の昼休みなどに、深刻な内容の執筆には取り掛からないほうがいいかもしれない。そうしたシーンを書くときは、現実の所用に戻る前に、十分に時間をとって、心のバランスを取り戻すようにすること。


 必要なだけ休憩をとる


 万が一、気持ちが苦しくなってきたら、散歩に出る、飼い猫を抱く、好きなものを食べるなど、気分転換を図ること。書き始めるときにアロマキャンドルに火を灯し、執筆作業が一段落着いたところでそれを吹き消すのも、気分転換の時間が来たことを自分に知らせるのにいい方法だ。


 信頼できる人に待機してもらう


 とりわけ個人的な、あるいは精神的につらいシーンを書くときは、あらかじめ友人にそれを知らせておくのもよい。「こういうシーンを書いているから、ちょっとした助けや励ましが必要なときは電話を掛けるかもしれない」というふうに伝えておこう。また、メールやソーシャルメディアのメッセージ機能を使って、時々自分の様子をチェックしてもらうことを頼んでおくのもいいかもしれない。そうしておけば、執筆中、孤独感に襲われたときにも、うまく切り抜けられるはずだ。



 ▼フィクションの鏡:人生と心の奥を映し出す


 もし人生に普遍の真理があるとしたら、それは「人は物語に魅せられるものだ」ということだと思う。私たちにはそれぞれ、心のどこかに別の世界を覗いてみたいという願望があって、自分の人生とは違った世界が目の前に映し出されると、それに心を奪われてしまうものだ。そうした架空の世界の中で、私たちは謎を解き、戦い、幻想に満ちた場所を訪ね、ロマンスを発見し(あるいは再発見し)、キャラクターが歩む道を追っていく。その道は私たち自身の人生と似ているかもしれないし、そうでないかもしれない。私たちは、すばらしい物語の世界に一歩足を踏み入れたとたん、自分とは別の人生を体験できるのである。


 フィクションは、一見、現実の退屈しのぎやストレス解放のために存在しているように見えても、人がフィクションを手にする理由は何も娯楽のためだけではない。時代を通して、物語は人を導き、教えを伝えるために利用され、重要な知識や考え、信念を様々な形で後世に伝えてきた。


 今でもストーリーテリングの伝統は続いている。ラスベガスでのクレイジーな週末を脚色して友人に話すこともあれば、テレビ番組で観たとんでもない逸話を職場の同僚に話して聞かせることもある。しかし、物語はもっと奥深いところから生まれることが多く、むき出しの感情、希望、欲望を人と分かち合うチャンスを与えてくれる。いずれにせよ、娯楽だけを目指して書いた物語は深みに欠けてしまう。書き手が綴る文章で読者を取り込むには、その内容が、読者が常に探し求めている何かと深いところで共鳴しなければならない。つまりコンテキスト(文脈・背景)の重要性を認識する必要があるということだ。


 コンテキストがなぜ重要なのか。それは、人生にユーザーマニュアルなど存在しないからである(でもあったらいいのに!)。人というものは、自分はうまくやっているだとか、自分の行いは自分でよくわかっているなどと取り繕っているものだが、現実にはほとんどの人にとってそれは素振りでしかない。人生にはいろいろと障害があり、難題が降りかかることもあれば、チャンスが到来することもある。そのたびに「これにどう対処しようか」「どうしたらいいのだろうか」「失敗したらどう思われるだろうか」と人は悩むのだ。


 残念ながら、私たちは、恐れ、自己不信、不安といったすべてを引きずりながら日々を生きている。自分のことを弱い人間と見られることを恐れるあまり、そのような不安をさらけ出せる人は少ない。その代わり、できる限りのことをして苦境を乗り切ろうとし、その手本がないかと周囲を見回す。どう行動し、前に進めばいいのか、できることならさらに経験を重ねて能力溢れる人間になりたいし、そこに行き着くにはどうすればいいのかと、文脈を探る。


 このように、人間には成長したいという普遍的希求があるからこそ、作家はフィクションという現実を映す鏡を作り出すのだし、読者はその作品を読むことで自分自身の心の奥を安心して模索できるのである。キャラクターが厳しい選択を迫られ、つらい結果に直面し、苦労して成功を勝ち取っていく姿を追いながら、読者は自ら歩む人生のことを思い知らされる。読者は、キャラクターが苦境や道徳的ジレンマ、破滅的な変化にどう立ち向かっていくのかを垣間見ながら、自分も同じことを体験しているかのような気持ちになる。意識しているかどうかにかかわらず、こうした追体験によって、読者は自分の求める人生の道筋を見つけ、人生をよい方向へ進めていくための術を学ぶのである。


 私たち誰もが心の奥に弱さを持っているからこそ、架空のキャラクターが心の痛手を克服するまでの道のりに共感できるのである。心を傷つけられるという経験は誰にでもあるもので、誰もがそれを癒そうとする。その痛みが今でもなお強く残っていれば、「この世の中に自分の居場所を見つけたい」「よりよい人間になろう」「生きる目的を見つけよう」と心の底からより一層強く突き動かされることだろう。そのような願いを成就させるには、物語のヒーローやヒロインのように、自分の行動を躊躇させる恐怖心や心の痛み――不安の根底にあるもの――に踏ん切りをつける必要がある。


 読者に自分のことを想起させるような複雑なキャラクターを書き手が作り出し、キャラクターを意識させることができるのなら、物語の持つ不思議な力は、読者に「自分にもできる」と思わせることができるだろう。しかし、それもまた幻影である。つまり読者を惹きつける鍵は、フィクションという手法を使って現実を忠実に映し出すことなのだ。書き手は、人間の持ちうる欲望や欲求、信念や感情といったものをすべて研究する必要があるが、物語のことをまるで現実のように読者に感じさせ、最初から最後まで牽引してくれるもののひとつが、キャラクターにおける心の傷なのだ。


▼次回に続く


(このつづきは、本編でお楽しみ下さい)

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