第六話

小一時間ほど屋敷の周囲を周り、私達は戻ってきた。お母さんが私の身の回りを綺麗にしてくれ、服を整えてゆりかごの中に寝かせてくれる。お母さんが困ったように顔を歪めながら、私の頭を優しく撫でる。


「なんだかいつもの明藍とは雰囲気が違いましたね。どこか調子でも悪いのかしら」


「そうだな。もっと喜んでくれると思っていたのだが…むぅ」


「出かける前は元気そうだったのですが…慣れない外で疲れてしまったのでしょうか?…心配です」


憂い顔のお母さんの肩を抱きながら同じようにゆりかごの中を覗き込んで私の様子を観察するお父さんの表情も暗い。お兄ちゃんも眉を八の字に下げながら肩を落としている。お散歩中、私が全く騒がなかったことで皆に心配をかけてしまっているらしい。お父さん達にそうじゃないよ、違うよと声を上げたり笑顔を作ったりして安心させてあげたいけれど、私にもそこまでの余裕がない。先程見た景色が今も目の前にあるかのように流れ出す。


雲一つなく澄み切った青空が視界いっぱいに広がる。窓を挟んで同じ景色を何度も見たはずなのに感動の大きさが桁違いで、圧倒されてしまった。


時折吹く風が頬を撫でる。その度に優しさや喜び、楽しさが伝わってきたのは精霊達が歓迎してくれているようで、嬉しくなったと同時に心地よくて安心しすぎてしまって、気を抜けば眠ってしまいそうでちょっと大変だった。


お家を出た瞬間から衝撃を受けっぱなしだった私は最初の目的地であるお庭に連れてきてもらった。

枕木アプローチの奥には広い花壇、植木を含めてたくさんの植物が並ぶ、芝生の空間。そこでは春の訪れを告げるように色とりどりの花が咲き始めていて、私のためにお兄ちゃんが摘んできてくれたチューリップも花を咲かせている。花々の美しさとお庭の統一感が醸し出す洗練さのおかげで見ているだけでとても癒された。


今度はお庭を背に暮らしているお家を見上げてみた。ギリシャの神殿を思わせるような白亜の洋館が太陽の光を反射して輝く。エメラルドグリーンに塗られている屋根の傾斜は低く、窓は部屋によって縦長だったり丸形だったりで付け柱は左右で長さが違っている。

神殿のように荘厳な雰囲気と随所に散りばめられた遊び心が同居しているという、アンバランスだけれど、どこか親しみを覚えるような素敵なお家だった。


お家を見ながらゆっくりとその周りを半周し、背後に回り込むと温室があった。そこでは赤、ピンク、白の薔薇が見事に咲き誇っていて。とても綺麗でいい匂いがした。お母さんの服や髪の香りと似ていたから、お母さんが管理しているか香水でもあるのかもしれない。

大きくなったらいつか私もつけてみたいな。


温室を抜け、もう半周してお家の前に戻ってきた。そして大きな門の前の花のアーチを抜け、門を出た先には緑の絨毯が際限なく広がっていた。切り立った山々が見える。美しく広がる花の絨毯だって見える。果てがないようにも見えたけれど、続く一本道がその先があるのを教えてくれる。その先にはきっとまた、違う世界が広がっている。


何かを発しようと口を動かしたけれど、言葉を紡ぐことも、声を出すこともできなかった。湧き上がってくる感動をどう伝えればいいのか、私にはわからなかった。伝える言葉を知らなかった。


ただただ、美しかった。だから、見入ってしまった。日常生活、ゲームのグラフィックを含め、今まで見たどんな世界よりも美しい景色がそこにはあった。


筆舌に尽くしがたい世界の美しさに圧倒されながら、この美しい景色が見られないと想像しただけでぞっとした。でもゲーム通りに進んでしまえばこの景色は見られない。

今、私が生きている世界は『天下再生』のゲーム中では過去にあたる。ゲーム内では既に風野家は没落していて他の名家も表舞台で活躍していない。その理由はプロローグやサブイベントで徐々に掘り下げられていく。四大名家は味方ではあるけれどその威光は過去のものになっていて、その中でも風野家と火野家は完全に没落している。

没落後は治安が低下して土地が荒れ、無法地帯に成り下がっている。ゲームで見た光景を追い払うように私はぎゅっと目を瞑った。


あんな暗闇に覆われた世界にしたくない!家族が苦しみ、この景色が失われるのは嫌!

絶対に、阻止する!私が皆を、今を守ってみせる!今一度新たにした決意を誓うようにグッと拳を作って天に突き出す。


(頑張るぞー!!)


「!び、びっくりした…明藍、急にどうしたの?」


「あら、表情が戻っています。いつもの明藍です」


「あ、本当だ。あれ、でもなんか匂いが…」


「気を張っていて漸く緩められたのかもしれないわね。大丈夫よ、すぐに綺麗にしますから」


…声を出すつもりはなかったけれど、気合いが入りすぎて力んだせいですごい声が出た。同時にお尻辺りにも違和感を覚えたけれど、こっちは気のせいだと思いたい。うん、きっと気のせい。

お母さんとお兄ちゃんの安心したような声が聞こえる。でも聞こえなくていい言葉も聞こえ、お母さんがいつものを準備する様子にショックを受けた。

…気のせいじゃなかったー!!わーん、やっちゃったー!お母さん、ごめんなさい-!

テキパキと私の粗相を片付けてくれるお母さんに内心で謝る。そこでふと気づいた。お父さんが何も言わない。こういう時は真っ先に騒ぎ出しそうなのに。疑問に思ってお父さんの顔を見上げるとお父さんは珍しく(とても失礼)真剣な表情で腕を組み、緩く作った拳を顎の下に当てて何かを考え込むように黙り込んでいた。そんなお父さんにお母さんが気づかないはずがなく。私の粗相を片してくれたお母さんがお父さんを振り返った。


「あなた?」


「!ああ、すまない。…何もなくてよかったよ。一安心だな」


「…そうですね、よかったです」


どこか取り繕ったようにお父さんが言う。私でも違和感を抱いたのだから、お母さんが感じたものは違和感なんて可愛いものじゃないはず。でもお母さんはあえて追求せず、いつものように柔らかく微笑んでお父さんの言葉を肯定した。お父さんもそれに応えるように微笑み、様子を観察していたお兄ちゃんの頭をくしゃっと撫でた。お兄ちゃんは何か言いたそうに口を動かしたけれど、お父さんの顔を見て結局言葉を呑み込んだ。

少しの違和感はあったけれど、でもすぐにいつもの光景が戻ってきた。


この日常がずっと続くように守っていきたい。でもそのためにはあの事件を乗り越えないと…。


《そうだね。君にはやることがある》


(そうそう、やることが…って、え?)


決意を新たにし、最近の日課になりつつある今後のことを考えていたところ、言葉が返ってきた。何も考えずにそれに応えたところで漸く違和感に気づいた。すると窓が開いていないのに室内に風が吹き始め、私の頭上に留まり始める。突然の事態に驚きながらもお母さんが私を守るために手を伸ばそうとするのを間に入ったお父さんが止める。お父さんを見上げるお母さんの顔はとても不安そうだけれど、反対にお父さんの表情は変わらない。私のゆりかごの縁を握るお兄ちゃんも何かを察したような顔をしているけれど、表情は硬い。

留まっていた風が少し大きなつむじ風になったかと思えば、一瞬で弾けた。若葉色の髪がふわっと広がり、髪の隙間から常磐色の瞳が覗く。つむじ風の代わりに現れた、厳かで清廉な空気を纏った少女は見覚えがないけれど、ある。いやだって、この子…待って。今、現れたってことは…。


《久しぶり、丈達。“祝福の儀”以来だね》


「そうだね。久しぶりだ、シルフ。明藍が可愛すぎるから儀式を待ちきれなくてきてくれたのかい?」


《まさか。僕はね、挨拶に来たの。器となる者に。守護精霊として、ね》


目が合う。常磐色の瞳がにっこりと細められ、その奥には天を見上げながら右手で顔を覆う、お父さんが見える。

あの時、聞き覚えがあるなぁと悩んだのは当然だったのだ。私の守護精霊になった精霊は長の枠に収まる者じゃなかった。風を司る全精霊の王――風神ことアイオロスの右翼の役目を担う、シルフ。

強力な力を持っている精霊が守護精霊なんて、ラッキー!…そう思えたら楽だったけれど、ゲームを知っている私からすればアンラッキー以外の何物でもない!だって彼が憑くということは、私は――。


《よろしくね、明藍――いいや、神子ちゃん》


やっぱり、神子かー!!今の今まで自分が神子だって忘れていた…!やっぱり序盤はあんまり覚えていなかったかぁ。終盤に近づくと序盤はどうしても、ね。攻略本とか持っていないと振り返りもしっかりできないし。あ、話逸れた。…ともかく、神子は嫌だー!私にそんな力はないよー!

にこにこと笑みを浮かべ続けるシルフが悪魔に見えて仕方ない。思えばこの時が自分の運命を呪った最初の瞬間だった、と成長した私は回顧したそうな。

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