♬4 風変わりな街角にて

 私が初めて奈良へ来たのは子供の頃。

 と言っても、修学旅行で京都のついでに、というよくある経緯ではなく、もっと幼い頃、未就学児童……いや、まだ赤ん坊と呼べる年頃だったかもしれない。


 顔をクシャクシャにして笑う祖父に抱えられた私らしき幼子。自分よりも遥かに大きな鹿という生き物を見せられポカンとしている、もしくは見えているのかすらよくわからない私らしき幼子。

 家を出る前に、古ぼけた写真を一度だけ眺めて、全てを置き去りにしてきた。


 あれは本当に私だったのだろうか。


 一緒に映る祖父も、アルバムの同じ見開きに映る両親も、どれも見覚えのあるものだったけれど、〈奈良公園にて〉とメモされた写真の中の、松の並木の幹も、角が生えた生き物も、何よりそこに写る自分自身も、どれも覚えのないものだった。


 果たしてあれは私だったのだろうか。


 三本松の下、『沙羅沢池』のほとりのベンチで中空を仰いで、長いため息をついた。薄くまとまった白い雲が、西から東へ流れている。そうして上空の風を暫く眺めてから、改めて座り直した。



   ***



 奈良へ立ち寄ったのは、実際に降り立ってみれば、あの写真の中の記録と自分の中の記憶が結びついて、奈良へは再訪であることを実感できるかも、といった至って軽い思いつきだった。それ以外には、とりわけ何か特別な目的があったわけでもない。

 まさか暫くこの地に根を張ることになろうとは思いもよらなかったけれど、折角なのでプライベート時間に、こうしてこの街を散策することにした。


 が、意表を突かれてばかりで、大いに気疲れしていたところだ。


 近鉄奈良駅だと思って立ち寄った場所は『鋼鉄奈良駅』で、ゴテゴテと廃鉄鋼を寄せ集めた異形とも言える箱型の地下への入り口があるばかりだった。

 駅前広場の噴水では、グリーンとイエローの奇抜な柄シャツサイケデリックを羽織った人が、四方八方から水が噴き注ぐ中央の台座の上で、琵琶のような楽器をかき鳴らしながら、しきりに何かを唱えている。ポカンと眺めていると、キリがいいトコまでやりきったのか、気が済んだのか、噴水中央の台座からひょいと飛び降りてしまった。こちらをチラリとも見ずに、駅前から南北に伸びる『東側商店街ひがしがわ』へと向かっていく。


 件の楽器を背負って颯爽と歩き去る後ろ姿は、何故か〈河童〉を連想させた。ただ、その楽器の背面は丸みを帯びており、亀のような甲羅模様ではなく、精緻な螺鈿らでん装飾が施されている。


「今の……って、正倉院展のポスターで見た気が……」


 リサイタルの最中は意識を完全に持っていかれていたけれど、そのファンキーな河童法師が背負うものが、誰もが宝物と認めるであろう優美な外観の《螺鈿紫檀五弦琵琶らでんしたんのごげんびわ》であるかのように視えたのだ。


「まさか、ね。転写シールか、何かだ、きっと。それにしても、駅前の商店街って『東向商店街ひがしむき』って名前じゃなかったっけ?」


 呟いてみたものの、通行人の中に、答えてくれる者は誰も居ない。かと言って、唐突に見知らぬ人に話しかけられることに耐性があるわけではないので、実際に返答があった日には失礼な反応をしかねないのだけど……


 気を取り直して、東大寺方面へ向かう緩やかな登り坂に沿って、東へと進んだ。


 奈良を訪問する気になったところで、事前にこの土地のことをいくらか調べはした。なのに、『登大路のぼりおおじ』と呼ばれているはずのこの大通りも、どうやらただの名もなき登り道らしく拍子抜けした。ま、別に良いけど……


 で、東大寺ではなく、『登大寺』の南大門前に並ぶ露店を流し見ようとした矢先、一匹の黒猫が近くを駆けていった。続いて中型の白犬が、店先や道行く人を掠めながら猫の軌跡を辿る。

 それを横目で眺めて南大門方面へ向き直ると、今度は店先に頭を突っ込んでいた大柄の鹿が、何かを咥えてコチラへ猛烈と駆けてくる。ただ呆然と、何もできずに立ちすくんでいたところ、露店の奥から現われた店主がコラーッと叫んだのきっかけに一陣の風が吹き抜けた。


 どうやら南大門に常駐していた一対の金剛力士達が颯爽と現われ、鹿の両脇を……いや両角を固めて、御用となったようだ。


 ……え?


「金剛力士……像って、動くの?」

「ったりめぇダロ。南の守護を任されてんだ。ただ突っ立ってるわけないだろうが」


 不意に話しかけられビクリとする。狐色の長髪を束ねた一筋を胸元に垂らし、きな粉をまぶしたよもぎ餅を軽快に伸ばしてはモグモグと口を忙しくする長身の男が、いつの間にか傍らに立っていた。


「しかも朔日には『望月堂』で月餅つきもち神速餅つきパフォーマンスをやるからな。俺は金剛力士アイドルたちの毎月の生ライブを楽しみにしてんだ」


 で、その時に振る舞われる餅が美味いのなんのって、などと言いながら至極ナチュラルに私の手のひらによもぎ餅を一つねじ込み、何事も無かったかのように、狐色の髪をなびかせて去っていった。


 関西の〈あめちゃん事情〉については聞き及んではいたものの、まさか〈よもぎ餅〉という変化球をお見舞いされるとは思ってもみなかった。

 見知らぬ人から渡されたものを簡単に口にしてよいのか迷ったものの、柔らかそうなその若草色の餅を見つめていると、グウと腹が鳴った。そうなっては抗うことなどできない。脇の石段に腰掛けて、小さなバックパックから取り出した水を少し口に含み、餅に齧り付いた。


「うまっ」


 しっとりふわふわ、という言葉が一番しっくりくる。それでいて、ちゃんとコシがあって上品だ。暫く歩いて糖分を欲していたのか、餡の素朴な甘みが身体に沁みた。


 先ほど御用となった鹿は、店先から掠め取った土産物の代わりに鹿煎餅を咥えさせられ釈放されたようだった。眼前の光景はごく自然なことのようにも、夢でも見ているかのようにも思えて、何がなんだかよく分からなくなってくる。

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