28.コードルモールの惨事(1)

 イングリットの様子がおかしい。


「ハァ、ハァ、――いよいよ返し馬ですよ孝太郎さんっ!」


 鼻息荒く、まるでイケない薬でもキメてしまったかのように涎が口から漏れ出ている。彼女は袖口でそれを拭き取ると、ギラついたままの瞳を孝太郎に送った。そうしてすぐキョロキョロと周囲を見回して、どうやらまったく落ち着かない。

 レース場まで帰ってきてからずっと、こんな感じで興奮しっぱなしである。

 孝太郎が言う。


「頼む――」


 言い切る前にイングリットが振り返る。


「なんですかっ!?」

「落ち着け」


 挙動不審すぎて怪しまれつつある。そもそも、このゴール板のすぐ正面にまで人混みを切り裂いてやってきているのだ。ただでさえ厳しい周囲の眼差しが、痛いほど強まっている。

 目立ってしまえば、バレる。孝太郎は思い切って、イングリットの肩に軽く手を置いた。


「っ!? なにすんじゃい!!」


 混乱させてしまったらしい。イングリットは犬歯を剥き出しにして、彼を睨んだ。


「逆効果だったか……」

「なんじゃいその苦い顔は!? いきなり乙女の肩に触っといてそれかい!」

「せめて口調は安定できないか?」

「できるかいっ!!」


 イングリットの口の端から白い息が漏れた。歯をかみしめているので横の隙間から出てきたのだろう。

 吐く息が白くなるほど気温は低くないはずで、彼女の体温が上がっているに違いない。相当怒らせてしまったようだ。――いや、それほど興奮しているのか。


「――あっ! 来た来た出て来た!! サンサンブロークン!!」


 さっきまでの態度がコロリと上機嫌に変わった。

 愛馬の大舞台を目の前に、冷めやらぬのだろう。周囲の人々もほとんどが声を上げて熱り始めているのが聞いて取れるが、その中にいて彼女は一番にアガっていた。しきりに胸を抑えるその姿は、まるで初めての授業参観に来た母親のようだ。


「うひょー! ――目ン玉かっぽじってよく見てください。あの子、すごい落ち着いてる」


 イングリットは鼻息荒くそう言った。


「……。おまえを見てるとそう思うよ」


 孝太郎が答えても、イングリットは一切目線を逸らさない。食い入るように愛馬を見ている。


「なんで私と比較するんですか? ――はぁ、王者の雰囲気。君の額の星マークを初めて見たあの日から、私は君に惚れ込んでいたのですよ」

「……うっとりした声とか出せるんだな」

「ちっ、いちいちうるさいですねぇ、これだからウザキモは……あっ!」


 ゲートが用意された。もうすぐレースが始まるようだ。


「ゲートインだ! わぁ、わぁ!」


 イングリットは目をキラキラと輝かせた。


「子どもか」

「はいっ! ずっと育ててきた私の子ですっ!」

「そうじゃない」

「ああぁぁああああ! 始まってしまう! 伝説が始まってしまう!」


 こちらの声など半分も聞こえていないようだ。イングリットの目は飛び出しそうなほど見開かれている。彼女が寄りかかっている柵も、ミチミチと潰れそうな音を鳴らした。

 諦めたように嘆息すると、孝太郎はリュックから新聞を取り出した。イングリットがその手に握りつぶしている物とは別な新聞だ。相変わらず文字は読めないが数字は読める。馬名の下の数字から読み解く限り、どうやら四番人気のようだが。

 やがてファンファーレが鳴り響いた。見たこともない金管楽器だ。穴の数が多く、よって音階も多そうな金色の楽器、それは誰もが胸躍るような高音を響かせて、レース場から去っていった。


「ふふ、サンサンブロークンを祝福するファンファーレですよ。――あぁっ! 枠入り来た! 始まる!」

「そうだな」


 ――これでやっと終わる。

 孝太郎がそうしてほっとしていると、横からイングリットの鋭い声がした。


「なんでそんな淡泊なんですか!? 気合い入れて声出してください!」

「なんで?」

「がんばれサンサンブロークーーン!! ――ほら一緒に!」

「……がんばれー」


 口にすると同時にゲートが開いた。


「お、始ま……」

「――よっしゃ!! 好スタートや! 見たかこれが世界一のスタートや!!」


 イングリットが髪の毛を振り乱しガッツポーズした。フードがはらりと落ちたのをそっと孝太郎が直す。


「あぶな……」

「サンサンブロークン絶好の先行策!! このままレースを運ぶんじゃい!」


 イングリットの言葉通り、サンサンブロークンは馬群の内側、前目に入り込んで、最後の直線で差し切る態勢のようだ。


「いいぞぉ! 内で足をうまく溜めてる! はぁ、ドキドキしすぎて心臓が痛くなってきちゃった」

「はしゃぎすぎだ」

「あぁ、あぁ! もう最終コーナーですよ孝太郎さーんっ!」

「飛ぶな、跳ねるな」


 そう忠告したが、イングリットは無視して飛び跳ねている。

 孝太郎はもう恥ずかしいと思い、誰にも見られないように顔を手で隠した。しかし、他の人も口々にそれぞれの応援する馬の名前を叫びだしたので、そっと手を下ろした。みんなこんなものらしい。

 馬群が最後の直線、ゴール板の直線へと入り込んできた。


「キタァアァアア!! キャァアア!」


 イングリットが胸の前に両腕をもってきて叫んだ。その仕草はカワイイものを見つけた女子高生に似ている。瞳が澄んでいれば、まさに乙女のそれであったろう。

 彼女は壁を殴るかのように鋭く腕を突き出した。


「さぁ、弾けろサンサンブロークン!! お見せっ! 自慢の末脚を!」

「……」


 孝太郎は黙って見守ることにした。

 ――このあと俺は、無事にイングリットと帰ることができるのだろうか。

 勝っても負けても大変そうである。


「……あれ?」


 そんなことを考えていると、いつの間にかサンサンブロークンは馬群の後方にいた。

 イングリットが叫ぶ。


「んん!? ほらほらほら! さぁ! あの特訓の日々を思い出してっ! どうした!? ――見せつけたれぇぇえ!!」

「…………あ」


 二人の正面を真っ先に横切ったのは真っ白な馬だった。――サンサンブロークンではない。

 場内アナウンスが流れる。


『一着、アケノファーブル……』


「サンサンブロークン!!!!!!」


 断末魔とともに、イングリットはその場に崩れ落ちた。

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