第6話 安達峰一郎の誕生(改)

(これまでのあらすじ……)


 幼少期の安達峰治郎は故郷で隣村の少年たちとの石合戦に興じており、この日も小鶴沢川を挟んで石合戦を繰り広げ、三倍以上の相手を見事に打ち負かしたのでした。石合戦の翌日、峰治郎は恩師・石川尚伯の邸で恩師と対面して教えを受けました。石川翁からは、世の中には誰もがみんな納得して従えるとても大きい力があることを教えられました。それは少年にとりその後の人生に大きな影響を及ぼす教えとなりました。


 **********


 峰治郎が帰った後、奥の隣の間につながる襖がスーっと開き、野良着姿の一人の男性が入ってきました。峰治郎の父、安達久(あだち・ひさし)です。


 久は、つい今まで息子の峰治郎が居た場所に座り、石川翁に向かい畳に手を付いて軽く会釈をしました。


「先生、ほんてん、ご迷惑ば、おがげしたっけっす。先生がら言ってけでもらて、峰治郎も少しは懲りでけだど思います」

(ほんてん=本当に、強調の副詞)


恐縮する久に、石川尚伯(いしかわ・しょうはく)翁は優しく言葉を掛けます。


「久さん、何を言いますか、峰治郎は話せばよく飲み込んで理解してくれる、素直な賢い子じゃ」


「あだな、やっちゃなすが、ほんてんだべが(本当にそうでしょうか)」

(「やっちゃない」は元来「散らかった様子」の意で、人物に使う場合は「落ち着きのない」意で、転じて「大人の言うことを聞かぬ暴れ者・いたずら者」とのニュアンスも含みます)


「久さん、心配せんでもええ、峰治郎はただの乱暴者じゃない。このまま、まっすぐに育てば、いずれ一廉の大人物になりますよ」


 石川翁は、息子の将来に危惧を覚える久を励まします。


「久さん、あんたは峰治郎を、将来、何にならせたいと思っておりますか? 役人ですか? 学者ですか? それとも、軍人ですか? 」


「わがんねっす。だども、親父は、峰治郎が何さなるにしても、これからは学問ばせねばなんね、と言ったっけす」


 石川翁は、その言葉に満足したような笑みを浮かべました。


「小僧にしてあの采配、世が世なら、いっぱしの侍大将も夢ではないが、……今度の県令、三島通庸(みしま・みちつね)様も薩摩の御出身だそうだし、今の世の中は薩長が幅を効かせておるからのう。まずは、久左衛門(きゅうざえもん)殿の言われる通り、将来、何にでもなれるように、学問に精を出すことです」


 初代山形県令となった三島通庸は、元々、薩摩藩の下級武士の出身で、幕末は精忠組の一員として寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加していました。その後の戊辰戦争では西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、後方兵站業務に活躍しました。


 戊辰戦争後の三島は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興事業を行い、この功績が内務卿大久保利通に認められ、明治4年に東京府参事として新政府に出仕することになります。


 東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側実質責任者として活躍し、東京府参事から教部省教部大丞を経て、明治7年12月3日、酒田(さかた)県令として現在の山形県庄内地方に赴任しました。


 その後、酒田県は鶴岡(つるおか)県となり、明治9年8月21日、鶴岡・山形・置賜(おきたま)3県が統合されて新たな統一山形県が発足すると、三島は初代山形県令として鶴岡町から山形に赴任していたのでした。


「尚伯先生のお言葉、ありがでく、親父さも、伝えさせでいだだぐっす」


 統一山形県が誕生する前の山形県と置賜県の職員は、総数約130名中に薩摩出身者は皆無でした。しかし、三島が県令となった鶴岡県の実質的指導部には薩摩人が三島以下6人いて、完全に薩摩人により県政が牛耳られていました。


 その後、山形・鶴岡・置賜が統合した統一山形県では、明治13年当時の県職員は137名いましたが、その中での県内出身者59名は、ほとんどが下級官吏でした。一方で、薩摩出身者は27名、そのすべてが県の高官を占めており、他にも西日本出身の者が大半を占めていました。


 更に、三島県令の妻の兄、柴山景綱(しばやま・かげつな)を東置賜郡の郡長に抜擢するという、あからさまな情実人事も堂々と行われていました。このような中、地元の人間が県内において立身出世することは非常に厳しい状況であったのは自明の理でした。


 ちなみに当時、山形城下町には30以上の複数の町が存在し、山形町という行政単位はありません。山形町と言うのはその城下町の総称でした。明治9年に初代県令三島通庸が政庁を構えたのはその中のひとつ、旅籠(はたご)町でした。


 明治9年10月29日、三島県令の号令で西洋式建築の山形県庁舎建設に着手し、総工費2万1000円をかけて明治10年11月3日に県庁舎が落成しました。まさに文明開化の風が山形に吹き始めた時期でもありました。


 しかし、明治前半の1円は現在の2万円以上の価値があると言われます。ほぼ5億円近い総工費と考えられますが、GDPが現在とは比較にならない低い当時、感覚的にはその百倍千倍もの印象があったかもしれません。


**********


「時に久さん、あなたが峰治郎を小鳥海(こちょうかい)山に連れて行った時、あの大杉を見た峰治郎が『この大杉のように真っすぐで大きな人物になってみせる』と誓いを立てたと聞きましたが」


「尚伯先生のお耳さまで入ったっけがっす。こっぱずがすい話で、生意気なごどば言ったけのよっす」

(こっぱずがすい=恥ずかしい)


 久は、息子の言葉が意外にも知られていることに驚きました。


「いやいや、なんも恥ずかしい話ではないです。子供が大望を抱かずして学問は伸びません。それに、峰治郎にはそれが出来る力があるとわたしは思っています」


「ありがど、ごぜぇます。尚伯先生のそのお言葉、親父も大層、喜ぶべっす」


 しかし、その後に続く石川翁の言葉は、やや躊躇したように話しをためらう感じのものでしたが、意を決したかのように話しを始めました。


「それでひとつ、わたしからの提案として聞いていただきたいのですが、……それと言うのも、峰治郎の名前じゃが……」


「はて、息子の名前さ、何が不都合でもあったっけがす? 」


 久はとんと話が見えないように頭をひねります。


「不都合なんてものではないですが、……峰治郎の『治』は、『次』『二』に通じます。せっかく大望を抱いた峰治郎の意気に応えて、いっそ、名前を『峰一郎』にしてやったらどうかと思うての。わたしも、峰治郎の大望を知ってから、かねがね考えておりましたが、今日の峰治郎の様子を見ておって、益々それが良いと確信しました。それで、名付け親である久さんや久左衛門殿のご意向を伺わねばと思いました」


 峰治郎は、明治2年6月19日に羽前国東村山郡の高楯(たかだて)村に、父・安達久、母しうの第一子として生まれました。男三人・女二人の五人兄弟の長男でした。


 曽祖父の初代・安達久左衛門(あだち・きゅうざえもん)は、武田信安(たけだ・のべやす)公の家老職の直系安達本家の安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)の弟で、兄の本家の隣に分家して一家を構えました。


 安達家は代々教育に熱心な家風で、峰治郎の祖父にあたる二代目久左衛門は、自ら『對賢堂(たいけんどう)』という私塾を主宰して、近在の子供たちに教育を施していました。


 峰治郎もこの祖父から読み書きを習い、今では近所の石川尚伯医師の寺子屋『鳳鳴館(ほうめいかん)』で漢文を学んでいました。


「みねいちろう……峰一郎……峰一郎……峰一……。おぉ、しぇえ名前だべっす。ありがでぇお話しで、きっど、親父も喜んでけるに違ぇねぇべっす。先生にほだい気にかげでもらて(先生からそれほど気にかけていただき)、息子も果報者だっす」

(ほだい=そんなに、強調の副詞)


「『治』の文字にしても、『国を治める』『世を治める』との意味で久さんや久左衛門殿の願いを感じられるます。そこで、わたしが横から言うのも憚られるのですが……、しかし、峰治郎には底知れぬものを感じます。どんな仕事をするようになるにせよ、世の中でその道の第一人者になるように成長してほしいものです」


 戸籍の上で正確な届出日がいつか、個人情報保護の制約の厳しい昨今、除籍謄本は直系卑属でなければ閲覧もできないので分かりません。しかし、その師の願いは、祖父の久左衛門にも通じ、間もなく、峰治郎改め、安達峰一郎がここに誕生したのでした。


**********


「時に、先生……」


 安達久が、おずおずと石川翁に尋ね返します。


「ん? なんでしょうか、久さん」


 久はやや恥ずかしそうに、躊躇いがちに言葉を続けます。


「先生が息子さ言った、大きい力って……ほいづ、なんなんだべっす? 」


 一瞬、聞かれた意味が分からず、ぽかんとした石川翁でしたが、次にはつい声を立てて笑ってしまいました。


「はっはっはっは! ……いやいや、これは失敬」


 石川翁は姿勢を糺して、久に向かい言葉を改めました。


「久さん、あなたはちゃんとそれを知っていますよ。もちろん、久左衛門殿も」


 久はますます頭を傾けます。石川翁は、先刻、頭を傾げて悩んでいた峰治郎と同じような悩み方をする久を見て、さすが親子だと妙な感心をしつつ、吹き出すのを堪えるのに必死でした。


「はて? ほだな強いもん、おらにはとんと分がらねげんとなっす」


「いや、当たり前すぎるほどに久さんや久左衛門殿には身に付いているから、殊更に言葉にしないだけのこと。峰治郎、いや、峰一郎がお父上の背中をしっかりと見ていれば、賢いあの子には自ずと伝わります。ご安心くだされ」


 まだ頭を傾げている久に対し、石川翁はにんまりと微笑んで応えるのみでした。


**********


 その後、あたかも峰一郎の成長を後押しするかのように、明治政府による教育制度の改革が矢継ぎ早に進められていきました。


 まず、明治5年に制定された学制にともない、明治8年7月、安達家の主君筋であり菩提寺でもある了広寺(りょうこうじ)の中に高楯学校が設置されました。


 峰一郎は、明治9年7月、7歳の時に高楯学校に入学し、同時に、父・安達久も学校の事務員に登用され、翌明治10年には教員資格を取得して教師となります。


 明治12年、峰一郎の通う高楯学校と、深堀(ふかぼり)学校・大塚(おおつか)学校・山野辺(やまのべ)学校の4校が統合して、山野辺学校(現在の山辺町立山辺小学校)となり、峰一郎は、その山野辺学校を卒業しました。ただし、この山野辺学校もまだ正式な校舎はなく、山野辺村にある浄土寺(じょうどじ)を間借りした寺子屋的学校でした。


 当時は、教育も西洋文化にならって9月前後の入学が主流でした。学校運営費の調達のため、国の会計年度に合わせて4月入学制度が取り入れられたのは、明治19年からのことでした。まずは全国の師範学校や小学校での4月入学が広まり、次第に各種学校に浸透していく教育過渡期の時代です。


 なにはともあれ、山野辺学校の卒業は明治12年8月、安達峰一郎10歳の夏のことでした。


 **********


(おわりに)


 安達峰治郎の師・石川尚伯翁は、小鳥海山の大杉に誓った峰治郎の大望を知り、それを叶えてあげるため、父の安達久にひとつの提案をしました。それは、峰治郎から峰一郎への改名を勧めたことでした。父親の久も、石川翁の意図するところを了とし、その提案を快く受け入れたのでしたた。ここにおいて、遂に『安達峰一郎』が誕生したのでした。そして、10歳の夏、周囲の期待を受けた峰一郎は山野辺学校を卒業したのでした。

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