第5話 「奴」がいた!





それから俺たちは、毎日を一緒に過ごすようになった。というわけだが、俺はもちろん学校にも行かなければいけないし、バイトもしなければいけない。


俺が学校から帰ってくると、キコちゃんはさみしかったのか、しばらく俺から離れてくれなかったので、夜遅くに帰ってくるアルバイトは心配だった。仕事が終わるのは夜の1時過ぎだ。


俺の仕事は、個人経営の居酒屋で、皿洗いとホールスタッフ。次から次へと、俺が食べたわけでもない皿を洗ったり、お客に料理を運んだり、レジを打ったり。まあ雑用係だ。でも居酒屋の深夜帯だから払いはいい。それでやっとこ生活というものにこぎつける。


仕事に出かける時、とりあえずはキコちゃんに「今日は遅くなるよ」と言ってみた。その時、空気が変わった。


「遅くって…」


キコちゃんは見るからに怯えだし、ぷるぷると体を震わせて、泣きそうに顔を歪めた。やっぱり。


いや、これは本当に困ったな。どうしよう。「こういう時には女の子にこう言ってあげたらいい」なんて、教科書には書いてない。先生!僕はそういうことの方が知りたかったです、今この時のために!


「えーっと、キコちゃん…」


「はい…」


もう仕方ない。ここは素直に心で勝負するしかないだろう。


「…俺は…必ず帰ってくるし、休みの日は別に予定もないような奴だから、ずっと一緒だよ。だから、えーっと…とりあえず!待ってて!俺、仕事頑張るから!」



なぜか最後は俺の話になってしまったが、もしかしたらそれは悪いことでもなかったかもしれない。


キコちゃんは俺のその台詞を聞いて、「そ、そうですよね!お仕事、頑張って下さい!キコも頑張ります!」と言ってくれた。


「うん!頑張って待ってて!」




夜、1時20分。俺はエプロンを剥ぎ取り、居酒屋を出て、今日もくたびれた体を引きずっていた。それから、ついこの間までみたいにコンビニに吸い寄せられ、フライドチキンを買い食いしようとしてしまった。そこで、「いけない!」と俺は踏みとどまる。


そうだ、早く帰らないといけないし、これからはキコちゃんのために買い物をすることも増えるだろう。無駄なお金は使えないぞ!


俺は気を引き締め、コンビニを出ようとレジ前を横切った時、レジにあった小さな包みのチョコレート菓子が目についた。



ふむ。あれなら30円だし、財布の負担はほとんど無いと言っていい。それに、キコちゃんにならあれでも大きすぎるくらいだ。多分、彼女はチョコレートは食べたことがないだろうし…。




「ただいま〜…」


俺は「もしかしたらもう眠っているかも」とも思ったので、そろ〜っとドアを開ける。


「わあ〜ん一也さあ〜ん!」


案の定、バイト第1日目はキコちゃんの大号泣に迎えられた。


困ったなあ、6連勤だぞ…。


「うんうん、ごめんね、さみしかったね、もう帰ったから…」


キコちゃんを拾い上げようとすると、彼女は大急ぎで俺の指に登ってきた。よほどさみしかったのだろう。


「うう〜!うわぁ〜!」


「よしよし」


俺は左手にキコちゃんを乗せ、右手の指先で、泣き続けるキコちゃんの頭を撫でたり、背中をさすったりしていた。でも、なぜか彼女はなかなか泣き止まず、ずっと俺の指にしがみつき続けている。


「うう〜!うう〜!」


キコちゃんは次から次へ涙を流し、それを俺の人差し指にすりつけた。


「どうしたの?もうここにいるよ?帰ってきたよ?」


あまりにも泣き止まないので、俺は自分の胸元にキコちゃんをなんとなく引き寄せ、心持ち温めるようにした。それで少しは落ち着いてくれたのか、泣き声は止んだけど、キコちゃんはまだ泣いている。


「大丈夫?もしかして何かあったの?どこか痛い?」


俺はだんだん心配が押し寄せてきて、彼女の小さい体に傷などがないかを確かめた。でもどこにも傷はないし、どこか痛くて押さえているような様子でもない。


「ち、ちが……く、黒いのが…走ってきて…!」


「黒いの?」


まさかお化けでも見たのかな?こんな姿だし、そういうの見えてもおかしくないかも。俺は一瞬そう思った。でも、次の台詞ですべてが知れる。



「ザカザカザカって走る黒くて羽根があるのが追いかけてきたんです〜!大きいの〜!すっごく怖かった〜!」


あ…「奴」か…。


俺は改めて「奴を」思い浮かべた上で、自分の体が20センチになり、「奴」の姿は変わらないままで追いかけられるのを想像した。背中がぞわりと粟立ち、ごくりと唾を飲む。


そりゃこうなるわ。俺も無理…絶対無理。


「そっかそっか。わかった。怖かったねえ、よしよし。じゃあ明日駆除剤買ってくるから。そしたらいなくなるよ」


「ほ、ほんとですか…?ほんとにいなくなりますか…?」


よほど怖かったのだろう、キコちゃんはまだ怯えている。俺は何度か「いなくなる」と繰り返してから、パーカーのポケットからコンビニで買ったお菓子を出した。キコちゃんはそれを見ると、泣くのをやめる。


「なんです?これ…」


キコちゃんはチョコの包みをつんつんとつついた。


「チョコレート。中にビスケットが入ってるよ。美味しいから、食べてごらん」


「チョコレート…?」


俺はキコちゃんを彼女の青いベッドに下ろして、チョコレートの包みをペリペリ剥いてから彼女の前に置き、後ろを向いて上着を脱いでいた。


「むー!」


口を閉じたままのキコちゃんの「歓喜の叫び」が聴こえてきたので、くすっと笑ってしまう。振り向くと、彼女はさっきの泣き顔が嘘だったみたいに驚きに目を見開き、忙しなくチョコレートを噛んでいた。


「美味しいでしょ?」


キコちゃんは口にチョコレートを詰め込んだまま、きらきらと目を輝かせ、何度も頷いた。




俺は次の日、「奴」を駆除するべくドラッグストアでいくつか置くタイプのトラップを買ってきた。そして帰宅してそれらを仕掛ける前に、キコちゃんには、「絶対にこれには近づかないでね、毒だから」と言って聞かせていた。



「これでよし。じゃあ俺はバイト行ってくるよ」


「はい!行ってらっしゃい!」




俺はここ数日、何度か「行ってらっしゃい」と「お帰り」を言われている。もう昔のことと思っていた。でも、今は誰かが家で待ってくれている。それに、キコちゃんは俺をすごく頼りにしてくれるし。俺は、いつも以上に仕事を頑張れる気がした。



とは言え、少し心配もあった。キコちゃんがもし2日連続で「奴」に追い回されたりしたら、彼女は俺の家を脱走しかねないかもしれない。


そんなことになったら大変だ。猫にさらわれるかもしれない。子どもに見つかって振り回されるかもしれない。大人だったらそれこそどんな悪いことでもできてしまう。


そんなことを考えていた時、ビールジョッキを水切りに置くのに手元が狂い、ジョッキが床の方に傾いた。


「あっ…やべっ…」


なんとか手で取り戻そうとしても遅かった。つるりと俺の指先をかすっただけで、キッチンのコンクリートの床にジョッキは砕け散る。


「こらーっ!児ノ原!ぼーっとしてんじゃねえ!」


「はいっ!すんません!」


俺は、すぐ後ろで天ぷら鍋に向かい合っていた店長に、ぽかっと頭を殴られた。



ここの店長はけっこう古い料理人で、平気でキッチンで怒鳴ったり殴ったりするので、バイトがどんどんやめていく。まあ俺は払いがいいバイトはやめないけど。それに、雑用はそこまで被害ないし。俺なんかより、調理を手伝ってるアルバイトの方が酷い目に遭っている。


でも、どうやら店長の腕前は確かなようで、調理補助のアルバイトはやめることは少ない。


あれは料理修行なんだろうなと思って、俺も後ろの洗い場から、時々それを覗いたりしていた。



俺が割れたジョッキの欠片を集めていると、ガラスの切り口がちくっと指に刺さった。すぐに赤い血が流れ出す。


「あ、やべ。店長、絆創膏ないですか?」


「いちいち俺に聞くんじゃねえ!事務所で探せ!どうせ女のことでも考えてぼやぼやしてたんだろうが!」


一瞬、俺はどきっと図星を突かれたような気になってしまいかけたが、多分違うと思う。少なくともキコちゃんは「俺の」女ではない。この場合、多分そういう仮定で話が進んでるんだろう。


「そんなんじゃないっすよ」


「男はみんなそう言うのさってな」


ざっくばらんなのか荒っぽいのかよく分からない店長は、天ぷら鍋に夢中になったまま、ため息みたいにそう言った。



もし今この場で「手のひらサイズの落ち着きのない女の子を家に置いてきたので、何かないか心配なんです」と言ったらどうなるだろう。やめとこう。「ふざけたこと言ってんじゃねえ」って殴られるだけだ。



俺はどこかもやもやとした気持ちを抱え、そこからは淡々といつも通りの仕事をした。





つづく

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