第2話


『過去の話』


 僕と彼女はいわゆる幼馴染という関係だった。お互い一人っ子で、両親は共働きだったため、同じ幼稚園で暮らし、遊ぶときは同じ公園で遊んだ。

 僕たちにはいくつかの共通点があった。

 僕はあまり外で遊ぶのが好きではなく、かといって幼いころから携帯やゲームを持つことが許されていなかったため、本を読んだりパズルを解くのが好きな内気な少年だった。

 彼女もまたどちらかといえば内気な性格で、同性の子で特別仲がいい子はできず、専ら一人で本を読むことが多かった。でも彼女は僕よりいくらか外交的で、外で走り回ることも多少あった。

 僕は男子特有の乱暴で衝動的なノリについていけなかったし、彼女も女子特有のノリ?(僕は男性なのでよくわからない)についていけなかったようだった。

 二人で過ごす時間はとても多かった。お互い口数は多くなかったけれど、外に出ていろんなものを観察、考察したり、同じ本を読んで感想を語り合ったりもした。

 小学生になっても、僕たちは互いに最も親しい友人だった。同性の友達がいないわけではなかったけれど、僕も彼女もどこか一線を引いていた。

 中学生になってお互いの性の違いを意識し始めて、いくつか問題が生じ始めた。

 ひとつは同級生にからかわれたこと。僕たちは家が近かったし、学校に行くときも帰る時も一緒だった。他の誰かと帰るときもたまにはあったけど、やっぱり普段は一緒に並んで歩いていた。

 彼女は陸上部で、僕は文芸部だった。大体僕は彼女の練習してる姿を眺めたり、本を読んだりして陸上部の活動が終わるまで待っていた。その間に同級生に話しかけられることも多くて、よくからかわれた。

 僕はそれが少し恥ずかしくて、一時期彼女を避けてしまったことがあった。彼女がいつも通り話しかけて来ても、少しつっけんどんな態度を取ってしまって、それを謝ろうともしなかった。彼女は、怒らなかった。少し悲しそうな顔を見せて、それ以来、必要な時だけしか話さなくなった。僕が話しかけたときは、いつも通り返事してくれたけれど、やはり少し寂しそうだった。

 僕はどうしても彼女が気になっていたし、彼女もそうだった。少し距離を置いた期間は、それを互いに認識するのに十分だった。

 その時期、彼女を離れたところから観察して、いくつかわかったことがあった。彼女は僕以外の人間と接するとき、冷たい印象を与える。失礼だとか、無愛想だとかではなく、ただただ冷たいのだ。どこか無関心というか、別の世界で生きているというか、そんな冷たさがあった。

 僕が彼女を避け始めた時期を境に、その冷たさがより一層際立って、僕以外の人間も彼女を意識せずにいられないほどだった。

 でも、僕が話しかけたとき、その冷たさは間違いなく和らいでいた。僕と話した後なら、他の人とも比較的暖かく話すことができていた。

 彼女にとって僕が、ほんの少しでも特別であることを確信して、僕は嬉しかった。


 しばらくして僕は彼女に、また一緒に帰ろうと素直に誘った。彼女は少し嬉しそうな顔をして、以前と同じように、親しげに話けかけてくれるようになった。まるで僕が彼女を避けていた事実がなかったことのように振る舞ってくれた。

 僕がそれを問うと、彼女は答えた。

「そういう時期も、あっていいと思うんだ」

 彼女はゆっくりと、正確に、暖かい口調で言った。


 僕たちは当然のように同じ高校に通うことになった。県立の名門高校だったけれど、ふたりとも落ちることなんて少しも考えなかった。当然のように受験して、当然のように合格した。

 僕たちは別々のクラスになったけれど、それは大きな問題ではないように感じた。

 彼女は陸上をやめた。

「こんなのは傲慢だって思うけれど、陸上を本気ですれば、多分日本のトップで争えるくらいにはなると思う。でも、やっぱり私、陸上には本気になれないんだ」

 彼女は中学時代、陸上で立派な成績を収めた。といっても、彼女は人より練習量が多かったわけではない。休日は朝に数十分ランニングして、あとは家でゆっくり過ごしていたし、平日も朝練や居残りに積極的ではなかった。

 彼女は中学時代、僕との時間を大切にしてくれた。

 僕の方はというと、高校も文芸部に入ることにした。別に小説を書くのが好きだったわけではない。文化祭のための執筆は当たり障りのないやっつけだったし、ほぼ強制的に書かされたコンテストの作品だって、それほど目立った賞をとるには至らなかった。そのつもりもなかった。

「でも、なんで君も文芸部に?」

 彼女は少し不満そうな顔で僕を見つめた。言わなくてもそれくらいわかるでしょ、と伝えたいようだった。

 僕はその時、彼女が言わなくてもわかると信じたのと同じように、考えなくてもそれくらいわかる、と思った。

 自分の中で深く追求するのを怠った。そんなものか、とありのままを受け入れるだけにとどめた。

 そういうのの積み重ねが、きっと彼女を苦しめていたのだろう。


 僕は高校で初めて恋人ができた。同じ文芸部の子に「とりあえず付き合ってみない?」と言われ、なぁなぁで付き合うことになったのだ。

 彼女の不満げな顔は今でも覚えている。

 別に、僕からも彼女からも避けようとしたわけじゃない。でも、お互い少しよそよそしくなったのは確かだ。

 彼女だってモテなかったわけじゃない。小学生のころから、何度か告白されたという報告を受けたことがある。僕はそのたびに「断るの?」と聞き、彼女は「断るよ」と答えた。それ以上、僕も彼女も話さなかった。


 結局二週間ほどで、別れることになった。キスすらせず「なんか、想ってたのと違った」と言われ、僕の方も別に何とも思わずそのまま別れた。

 彼女とのよそよそしい関係は、中学のときの再現のように、いつの間にか元通りになっていた。でも、あの時とは少し違った。

「また元通りになったね」

 僕がそう言うと、彼女は目をそむけたのだ。それが、僕にはわからなかった。でも、僕はそれ以上考えなかった。それが多分、大きな問題だったのだ。


 僕と彼女は同じ大学、同じ学部に入った。とても有名な大学だった。

 僕は適当な文学系のサークルに入ったが、彼女は入らなかった。

「君はサークルに入らないんだね?」

 問うと、彼女は答える。

「うん。気になるサークルはなかったから」

 彼女は何か言いたげだった。でも僕は考えなかった。


 大学に入ってから、僕と彼女が過ごす時間は次第に減っていった。

 ある日、サークルのごたごたに巻き込まれて、空き時間、彼女に相談をした。

「面倒だよ、本当。無関係な僕に相談事を持ち込んできて、その挙句『首を突っ込んできたのはお前だ』なんて言うんだよ」

「責任を押し付けられたんだ」

「うん。本当に憂鬱だよ。でも君は、僕に何か相談事をしたことがないよね?」

 彼女は悩んだ。結局答えることはなく、サークルのメンツが集まる時間になった。外は雨が降っていた。僕たちは二人とも傘を忘れていたが、気にしなかった。

「それじゃあ」

 彼女はそう言って、背を向けた。振り返って、思い出したように、何気なく、言った。

「さっきの答えなんだけど

 私は、自分の人生の責任を、君に負わせたくはないんだ」

 彼女は雨の中、傘もささずに去っていった。

 僕は数分だけ考えて、やっぱりサークルに行くのをやめた。無関係なことに無関心になることは必要だと思って、彼らと関わるのは最低限にしようと決めた。それで、久しぶりに彼女の家に行ってゆっくり過ごそうと思った。


 電車に乗って彼女の家を訪れた。インターホンを鳴らすが、出てこない。僕は仕方なくドアを開ける。やはり空いている。彼女も彼女の家族も、めったに鍵を閉めない。

 彼女の名前を呼ぶ。靴はあるのに返事は帰ってこない。シャワーの音も聞こえてこない。

 嫌な予感に囚われて、彼女の部屋を開ける。彼女は首をつっていた。


 僕は焦った。何かを考える前に、彼女の身体を支えようともがいた。ベッドを動かして、足場にして、彼女の体を肩で支えて気道を確保しながら必死で紐をほどこうとした。

 結び目は硬かった。僕はついにほどくことに成功して、できる限りの応急処置をしたのち、救急車を呼んだ。

 息はあった。僕は、どうか無事でいてくれ、と願うしかなかった。

 警察からの事情聴取の記憶はほとんどない。僕はずっと、彼女のことだけを考えていた。

 僕は彼女を愛していたことを、この出来事によって初めて自覚した。そして彼女にとって僕は、僕が思っていた以上に特別で大切な存在であったことに、今更気づいたのだ。


 彼女は目を覚ましたが、重度の脳障害が残ってしまった。記憶は破壊され、認知能力はほとんどなかった。一人で排泄することすらできず、もちろん言葉を話すこともできない。

 うめき声一つせず、暴れることもなく、おとなしく過ごす彼女は、さながら彼女の残滓のようだった。いや残滓だったのだ。

 彼女は、もう死んでしまったのだ。


 彼女の生きた証はどこにも残っていなかった。彼女のpcのハードディスクはなぜか消えていたし、遺書も「死にたいから死にます」という簡素で意味のないものだった。字は綺麗で、濃くはっきりと書かれていて、紛れもなく彼女の筆跡だった。


 僕は大学を休んだ。ずっと休んだ。彼女の消えたハードディスクや、他の遺書がないか、必死で探した。彼女の両親も、協力してくれた。僕の両親も厳しい人だったが、そのときばっかりは大学を休むことも、救いのない過去に囚われることも許してくれた。

 彼女のハードディスクも、他の遺書も、最終的に見つけることはできたが、それは思い描いていた形なんかではなかった。


 一緒に小学生のころ埋めたタイムカプセルの中にそれはあった。

 ハードディスクは処理済みで、業者に持っていったけれど復元は無理だと言われ、それに添えられた文字は「弱い私は許して」と、僕にあてた一言だけが書いてあった。

彼女は多分、黙って死にたかったのだと思う。彼女の自殺はとても計画的だった。確実に死ねる方法を取った。両親が用事で絶対に帰ってこないタイミング、僕もサークルのことがあるうえに、雨の中そのまま帰るなんて普段ならありえなかった。

 彼女は、あの日、最初から死ぬつもりだったのだろう。

 そして、このタイムカプセルは、彼女が残した唯一の、彼女自身が認められなかった弱さなのだろう。

「私の人生の責任を、君に負わせたくはないんだ」

 彼女の言葉は真実だが、嘘でもあった。彼女はたしかに本心でそう言った。でも彼女の感情はきっと、魂はきっと、そうは思っていなかったようだ。

 だから、このタイムカプセルに、こうあるのだ。

「黙って死ねなくてごめん」と。

 書かずとも、伝わってきてしまうのだ。

 本当は、僕に責任を負ってほしかったんだ。


 僕は泣いた。彼女の残滓の隣で、ずっと泣いた。でも、僕の涙はあの日の雨のように、しばらくしたら止まってしまって、僕は日常の中に戻っていく。


 それからしばらく、大学には行かず、本を読んで過ごした。彼女と過ごした日々に思いをはせながら、無意味な日々を過ごした。





 ある日、嘘つきが言った。

「彼女が死んだせいで、君の人生は台無しになった。彼女が君の人生を壊したんだ。本当に君を愛していたなら、彼女は生きるべきだった。つまり、彼女は君を愛してなんかいなかったんだ。そんな人に執着する必要なんてない。君を誰よりも傷つけた人なんて、君は気にするべきじゃない」

 僕は答える。

「彼女は、生きたかった。でも生きられなかったんだ。君にはわからないさ。生きているだけで苦しくて、息ができなくて、窒息して、そうして死んでく人間の気持ちがわからないんだ。それでも彼女は、どうしても僕を傷つけたくなかった。精一杯、生きようとした。彼女はもう十分、僕を愛してくれたんだ。それに」

 僕は続ける。

「彼女の選択が間違っていたとは思えない。もし彼女が苦しみながら生きて、生きるために僕に依存して、僕も必要以上に苦しみながら彼女を支えるような人生を歩んだとして、果たしてそれが僕にとってふさわしい人生であったかといわれると、頷くことなんてできるわけない。もし僕が彼女の立場なら、僕は彼女と同じ選択を取る。その方が絶対にいい。実際、僕はいま、それほど苦しんでいない。それに彼女が死んだからこそ得たものもたくさんある。何が必要で何が不必要か。何が大切で何が大切じゃないか。世界がよく見えるようになったんだよ。くだらないことをくだらないと断じることもできるし、取るに足らない人を取るに足らないと思って相手にしないことも学んだ。彼女が、正しい選択をしてくれたおかげだ」

 僕は首を振った。

「それでも、僕は彼女に生きてほしかった」

 嘘つきな僕は最後にそうつぶやいた。

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