第11話  10

 金曜日の朝からの劇場での仕込みは、前回の「トラップワイフ」以上にみんなが殺気立った。

 笠野さんが指示を出して、それを増井さんと松岡さんがさらに男達に指示を出す。

だが、増井さん松岡さんが何かの作業で手いっぱいになってしまうと、指示が滞ってしまい、なかなか作業が進まない。それに今回は通常の張物の建て込みだけでなく、上手下手にタワーが立ったり、ラストで群衆として出演者が乗る為の横の長さが3m高さ1m程の台が3個あるのだ。作り込む量が多い。

 いつも温和な感じの松岡さんも目が吊り上がって声を出している。

 「おーい。ここ誰か手が空いているヤツ、ついてくれー」

 「吉田君どこ行った?おーい、よっちゃーん。」

 「釘箱どこだったっけ?」

 照明班も忙しそうだ。場面展開が多いという事は、その分照明で作るシーンを増やさないといけない。同じアマチュア劇団の「劇団苺座」の照明部のベテランである金川さんが手伝いとしてきているのだが、怒鳴っている。

 「これはこの大きさでいいのか? 照明チーフ!」

 金川さんは、もじゃもじゃ頭で背が低くて、挨拶しても「どうも」しか言わないおとなしそうなおっさんだが、照明の事になると途端に厳しくなり、照明のチーフは怒鳴られっぱなしな事もしばしば。それを見ながら、「照明じゃなくて良かったなぁ」と張物をおさえながら考えていたら「何ボーっとしてんだよ?ちゃんとおさえろ!」と今度は増井さんに怒られた。

 それにしても・・・男の人数が少ないわけではないのだ。十人以上の男の団員がワラワラといる。ただ、装置の事を全て把握して、釘を打ったり位置を決めて固定したり作り込める人材が少ない。その為にちょっと難しい所の作業になると、増井さんや松岡さんが自らやらなくてはならなくて、周りの男の団員はただ見守るしかできなくなっている。

 「増井!早くやらないとリハーサル出来なくなるぞ!」としびれを切らしたように田丸さんが客席から大声を出してきた。それに増井さんが近寄っていって説明している。という事はまた作業が止まる。

 時計に目をやった。夜の6時。リハーサル開始予定時間まであと1時間しかない。劇場は夜10時に出ていかないといけないので、あまり時間を遅らすことも出来ない。

 「転換稽古、出来無さそうだね。」

 川村さんが思わずと言った感じでポツリと呟いた。そうだ。予定では、この時間から転換場面の稽古を1時間やっての7時にリハ開始だったけど、もう転換の稽古は無しでそのままリハに行くしかなさそうだ。

 「リハ、間に合うのかねぇ」と、もう一度川村さんが呟いた。


 結局、装置の細かい部分の作業はまた明日に回す、という事で、誰もがバタバタしながらリハーサルが始まった。

 衣装の白衣を着た僕は、その上から黒い長袖Tシャツを着た。1景の終わり部分の、タワーを回す場面転換をする為だ。

 舞台袖で水木さんと待機していると、1景の最後のセリフを船井さんが言って舞台上が暗くなった。よし! と水木さんと二人でタワーに取り付き、回す・・・はずだが、回らない。役者二人が入っていて思った以上に重い。ズリ、ズリっとなんとか少しずつ動くがこのままでは回りきらない。幕間の音楽が終わりそうな雰囲気になってしまっている―。

 明かりが入った。が、タワーは半分までしか回っていないし、僕たちは明かりの中でマヌケにタワーにしがみついたままだ。

 「なんだ? どうしたんだよ?」舞台袖にいた増井さんが舞台に出てきた。

 「いや、全然回りませんよこれ。全然ダメです。」と僕は一生懸命に弁解した。

 「本当、二人で力入れても回んないですねこれ」と、水木さんは冷静だ。

 増井さんは、口を真一文字に結んで考えるような表情をしていたがやがて「ちょっと今のこの時に、舞台袖にいて手が空いてる奴いるか?」と皆に聞いた。

 「私、手が空いてます」と舞台監督第三助手の男の団員が言った。入団したのは僕よりちょっと先輩なのだが、あまり稽古に来なかった人だ。

 「じゃあよ、明日の本番、あんたここについて水木と奥村とコレ回すのに入って

  くれ。なら回した所から、リハ続けるから」

 みんなでせーのとタワーを回して、そこからまたリハを再開していった。


 伊勢佐木町のまっすぐ伸びたメインストリート。それと並行に伸びている裏通りには、風俗店が固まっているエリアや、隠れた名店的な居酒屋や、何の店だかよく分からない店があり、どっちかと言うと猥雑で暗い感じの裏通りの雰囲気が僕は好きだ。

 劇場でのリハーサルが終わったその日の夜も、裏通りをプラプラと歩いて帰っていた。例によって朝まで焼き鳥店で働いての劇場での仕込みやリハーサルだったので、眠気と疲労困憊の身体を引きづって、ピンクのネオンを眺めながら歩いていた。

 「オウあんちゃん。あんちゃん![鳥よし]のあんちゃん!」

 アレ?と振り向いたら、ウオ! 店に時々来る、頬に傷のあるヤクザの兄貴分と

ジャージのヤクザだ。

 「あぁどうもっス」と慌てて頭を下げた。

 「なんだい?仕事の前に遊びに来たのか?」と兄貴分はへへっと笑った。

 そうか、このへんはピンクエリアなんだ。「いやそうじゃないんです。今日は

ちょっと店休んでて、これから家に帰るトコなんです」なぜか急いで弁解した。

 「そうか。遊んできゃあいいのに。」

 「いや、金も無いですし。」

 「マア遊びたくなったら言いなヨ。いい店紹介してやるから。また焼き鳥食いに

  行くからな。」

 はい、ありがとうございます。と頭をペコリと下げると、頬傷はじゃあな、と

ジャージを背後に連れて僕とは逆の方へ去っていった。

 僕の中に「仕事モード」と「芝居モード」がある。一種の切り替えスイッチみたいなものだ。歩いている時は「芝居モード」だったけど、突然お客さんに会って「仕事モード」になろうとして、なんだか粟食ったみたいだ。

 ああそうか。店の客といつ会ってもおかしくないんだな・・・ひょっとしたら、いて座の公演をたまたま観たことがある客もいるかもしれない。マ、可能性はゼロに近いけど・・・でも僕の演技を観たお客があの店に来た時に、僕はいつもの焼き鳥屋のあんちゃんを出来るのかなぁ・・・

 ヤクザ二人が消えていったピンクネオンの路地を眺めながら、そんな事をぼんやりと考えていた。


 翌日の土曜日。いよいよ「きれいな口紅」の本番初日だ。

 朝にみんなで集合して、朝ミーティングする。前回の「トラップワイフ」の時よりも、役者も裏方も緊張感が濃い感じがする。やっぱり転換が多くてスムーズに進むのか不安があるからだろうか―。

 「奥村ぁ、最初の転換よろしくな」と水木さんが声をかけてきた。

 「いえ、よろしくお願いします」

 「昨日は回らなくて困っちゃったよな。でもさ、今日は三人いるから大丈夫だと

  思うよ。」

 のんびりした口調でそう言われると、そうですか、としか返せなくなる。

 「奥村はお寿司屋さんもあるんだもんな。両方で大変だと思うけど、頑張ってな」

 昨日の今日であまりにも緊迫感のない会話に、だいじょうぶかなぁと不安が一瞬頭をよぎった。


 客入れの時間となり、少しずつお客さんが座席を埋めていく。午後2時に開演する回だが、お客さんの入りとしては、土日の昼の回の方が夜の回よりもよく入るみたいだ。

 これは、夜の回だと芝居が終わるのが夜9時すぎとか長い芝居だと9時半とかに

なってしまうので、その後で一緒に来た人達で店に入って食事なんか行くには遅く

なってしまう。昼の回なら夕方4時とかに終わり、その後で今日観た芝居の感想なんかゆっくり喋りながら食事なんかも出来るからじゃないか、と僕は考えている。

 この時も、お客さんは300人近くが詰めかけていた。場面転換でも寿司屋の演技でもこれはミスするわけはいかない。僕は衣装の白衣を着たまま、軽く両頬をペチペチと叩いて気合を入れた。

 ぶううううぅ。

 2ベルが会場に響き、舞台前面の緞帳がゆっくりと上に上がっていく。

 オープニングの音楽が流れると、船井さんが出てきて「私は・・・」と最初のセリフを吐き出した。

 この瞬間、澄んだような緊張から、芝居が流れ出していく。その流れは、誰にも止められない―。


 舞台袖には、僕と水木さんと第三助手が、緊張した表情でスタンバイしていた。

 もうすぐ一幕の終わりとなり、タワーを回す転換となる。舞台は初老の船井さんが出ていた場面から、戦時中若き船井さんが慕っていた男性が、赤紙が着た事を船井さんと親友の女性に伝える場面となるのだ。

 「でも私は時々思い出すの。昭和19年の秋。あの人があたし達に別れを告げに

  来た、あの日を―。」

 昭和初期を思い出させるレトロな音楽が流れだし、明かりがゆっくりと暗くなっていった。今だ! 飛び出してタワーの一面に掴まり、回していく・・・はずだった。

が、おかしい。回らない。びくともしない。昨日よりも重くなっている。一人増えてるはずなのになんでだ?とひょっと第三助手の方に目をやると、彼は僕に向かって力を入れて回していた。つまり、僕と水木さんが左に回していたのに、彼は必死に右に向かって回していたのだ。

 一瞬、昔見たチャップリンの映画にこんな場面があったっけ?と記憶の画面が蘇った。何かを回すチャップリンと相棒。だがお互いで逆の方向に回していて動かない。あきらめた相棒が手を離すとチャップリンが勢いでぐるぐる回転する。じゃあ僕は山高帽とステッキか?そんなことはいい。すぐに小声で「逆!ぎゃく!」と第三助手に言うと、気づいた彼は慌てて方向を変えて力を入れた為に、今度はグルリン!とすごいスピードでタワーが回転した。ところで、ゆったりと明かりが戻っていった。おお間に合った!

 と思ったのも束の間だ。

 明かりがついてセリフが聞こえはじめたが、僕はまだタワーの背面にいた。

僕は、舞台上に取り残されてしまったのだ。勢いよく回りすぎたタワーが斜めになってしまい、それをまっすぐに修正していて舞台袖に戻るのが遅れ、舞台は既に明るくなってしまった。タワーの背後に隠れた僕の壁を隔てた前では、戦地に行く男が女性に今生の別れのセリフを伝えている。舞台袖からは、水木さんと第三助手が心配そうにこっちを見ていたが誰も助けられない。

 さあどうする?つってもこの次の場面でオレ出番なんだよな・・・こんな悲しいセリフやり取りやってる背後から人が出て行ったら、お客さん絶対気づくし、あれさっきあそこから出ていったヤツが寿司の出前持ってきたな。じゃああそこの裏が寿司屋か?なんて思うかもしれない・・・この後すぐ暗く・・・ならない。明るいまんまだ。これで寿司屋出なかったら・・・前代未聞だよな役者出てきませんなんて。いやどうするよコレ・・・

 「ご武運を、お祈りしています。きっと生きて帰ってきてください」と、取り残された僕へむけたかのような女性のセリフが出て、タワー内を照らしていた明かりが消えた。

 これで場面は、また舞台中央の家の中に移っていく。と言う事は、お客さんの視線は舞台の真ん中に向けられるのだ。

 あ、ひょっとしてチャンス?

 舞台袖を見た。その距離およそ3m。行けるか?行けるのか?でも行くしかない!ほとんど助走も出来ずにエイヤっとジャンプした―。なんとか袖の黒い幕の間に届いたが、勢いあまったまま床の上にどてっと四つん這いで着地した。

 「奥村、大丈夫か?」と水木さん。

 大丈夫なわけない。膝を打って痛いし、まだドキドキしている。だが早く反対側の下手に行って寿司屋のスタンバイしないと、とすぐに立ち上がり、舞台裏の通路に向かった。

 通路を歩きながら上に来た黒い長袖Tシャツを脱いで、白衣になりながら、頭の中で反芻する。―幸いにもお客さんには一人も気づかれず・・・いってないよな。芝居中に舞台のはじっこから男が一人飛び出したんだ。下手したら「あれ?あそこからジャンプしたヤツってのは演出なのか?」って思われてるのかもな・・・どう考えたって俺の失敗みたいだよなぁ。あーもう・・・ヤケだこうなりゃ―。

 下手袖に行って寿司屋の桶を持つと、舞台上では僕が出るきっかけのセリフを言い始めている。深呼吸して呼吸を整えて「もうどうにでもなれ」とぼそっと呟いてから舞台に出ていった。

 それが出た時?うーん・・・何も考えていなかったかなぁ。無の境地?そういうと「剣の達人」みたいでカッコいいけど、そんな高尚なものでもない。要するに、ただのやけくそな気持ちで舞台に出て行ったかな。

 でも、こうは考えた。

 寿司屋の出前持ちだって、歌くらい歌うだろう。って。

 

♪まりこのへーやへー ♪でんわをかーけてー 

♪おーとこーとー ♪あそんでるーしばい 

♪つづけてきたけれーどー

 

 鼻歌を歌いながら登場して四つ角を曲がった。そのままピンポン押して、「お待たせしましたー」とセリフを言う。自分でもびっくりするくらい力が抜けた。というか、頑張ろうとかいい演技しようとか一切考えていなく、ただ投げやりな心境だっただけだ。

 寿司を渡してお金を受け取り、お釣りを渡す。ありがとうございましたー。

♪あーくーじょぉになぁーるなら ♪つきよはおよしよ

♪すなおになりすぎーるー

 とサビを歌いながら去っていった。

 なぜ中島みゆき?の中でなぜ「悪女」?かはよく分からない。つい口をついて出たのが中島みゆきの「悪女」だっただけだ。でも、ミスチルでもサザンでも安室奈美恵でもないし、だからと言って美空ひばりともちょっと違う。

あの時のあそこは、中島みゆき。で「悪女」しかなかった。

 

 その後の出番は二回あったが、全て鼻歌混じりで登場していった。最初だけ歌って後は歌わないのもおかしいかなと思っての事だ。いつも同じ歌にしてはあれかなと、三度目は中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」にした。まああまり変わってなかったみたいだけど。

 

 いよいよラストシーンだ。僕が田丸さんに「群集としてのマイムの動き」を止められたシーンである。

 「あーあー。ここで動いたらいけないんだ」と思いながら台の上に立った。何もしないで立っているだけなんて、こんな役者が楽してつまらないものを見せていいのかなぁ?とちょっと不貞腐れた気分で立っていた。舞台中央にいる船井さんのセリフに呼応するように、他の役者がセリフを喋っていく。それを聞きながら自分のセリフの番が来るまでじっと立って待っている―だけなのに、両膝が震え出した。なんでだ?あがっているわけではない。でも小刻みなガクガクが止まらない。止まれ止まれと念ずるが止まらない。こんなんだったら動いている方が全然楽だ。アレ?ひょっとして「見られながら体を静止させる」って、とっても難しいものなのか?お客として見ていると、じっとしている役者よりもバタバタ動き回っている役者に目が行くし、動く方が大変だって思っていた。でも、観られながら動かない方が難しい。そうかまた僕は間違った見方をしていたのかもしれないなぁ。テレビや映画で動かないベテラン俳優を「体が動かなくなったら役者はお終いだ」なんて分かった風にちょっとなめて観ていたぞ。ああこんな舞台上で足が震えている僕みたいなのが偉そうな事を知ったかぶりで考えていて、皆さん本当にごめんなさい!と一人で脳内で懺悔する寿司屋を立たせたまま、セリフは進んでいった。

 

 そして、船井さんが親友の女性を肩車する感動的なシーン。

 直近の稽古での船井さんの肩車成功率は、10回に8回くらいの成功率になっていたが、少し焦ったり重心が傾くとよろけてしまう。なので背後で眺めている自分達キャストも「なんとか成功しますように」と無言で祈っていた。

 「じゃあアタシに乗って!肩車してあげる」

 「ええ?でも、いいの?」

 「いいわよ。早くして!じゃないとあの人もう行っちゃうでしょう?もう会えない

  かもしれないのよ。」

 「分かったわ。じゃあ、ごめんね乗るね!」

 船井さんの肩を跨いだ女性の身体がゆっくりと・・・持ち上がった。成功だ。

 その時、客席は・・・一瞬の静寂のあとで、笑いが起こった。

 エ?なんで? だけど笑ってる。自分が好きな人だけど、親友がその人と別れの挨拶できる為に肩車してあげるっていう感動的な場面なのに―。

 でもお客さんの目から言うと、小柄なおばさんと若い女の子がいる。そのおばさんが自分より大きい女の子を肩車すると言って、持ち上げてしまったのだ。少し驚いて、そのあまり見たことない姿に思わず笑ってしまうのだろう。僕達は船井さんが稽古の期間に、この肩車を成功させるためにスクワットを頑張って、失敗してきた姿を見ている。けどお客さんには、この「若い女を持ち上げる小柄なおばさん」という絵が全て。それまでの長い期間の過程なんて知ったこっちゃないのだ。

 「善一郎さーん!あ、こっちに手を振ってくれたわ」

 「そう、良かったわね・・・あの人は、ふさ子ちゃんには口紅をくれて、アタシ

  にはおまんじゅうだった・・・」

 ド!っとセリフがまたお客さんの笑いを増長させる。これじゃモテなかったおばさんの愚痴だよ。でももうこの空気は変わらない。

 「善一郎さん! ずっと言えませんでしたけど、私、あなたをお慕いしていま

  した!」

 と船井さんが叫んで、清らかな音楽が流れ緞帳が下がる―。

 なんか、思ってた幕切れの空気と違うぞ。

 お客さんは、マドンナに振られた寅さん映画を観た後みたいになっている。

 こうして、「きれいな口紅」の初回の公演は、なんだか喜劇的な雰囲気で終わってしまった。

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