第十話 不注意の理由

 予報では確率が低かった雨が、午後からポツポツと降り出してきた。冬の雨は冷たいから、雪の方がまだマシなくらいだ。

 下校前の掃除の時間。ごみ捨てのじゃんけんに負けた俺は、ごみを持って渡り廊下を歩いていた。すると、どこからかトモの声が聞こえてきた。女の人の声も聞こえる。

「横尾くん、最近は体調いいみたいですね。保健室に来ることが少なくなったので安心しました」

 養護教諭の大野先生だ。二人は俺に気づいておらず、なんとなく校舎に引き返して聞き耳を立てた。

「まあ、そーだね。うん」

「まだまだ寒い日は続くし、受験もあるから、体調管理はしっかりしてくださいね」

「まあ、ね。もちろん」

 トモはどこか歯切れが悪い。

「あれ、太智くんもごみ担当だったんだ」

「お、緒方」

 いきなり背後から声が聞こえて、思わず肩が反応してしまった。両手にごみ袋を携えた緒方が立っていた。

「一個持つよ」

「ありがとう」

 ごみを持っていない方の手で緒方からごみ袋を受け取り、俺はすぐにごみ捨て場へ向かおうと渡り廊下に足を踏み入れた。渡り廊下は最後まで渡る必要はない。真ん中から外に出れば、突き当たりにごみ捨て場がある。

 なんとなくだけど、トモの邪魔をしたくないと思った。しかし、俺が渡り廊下を出たところで、後ろにいた緒方がトモに気づいてしまった。

「一緒にいるのは大野先生かあ」

 しおれた声だった。多分だけど、緒方はトモのことが好きだ。明るくて人当たりがいい彼女でも、その恋は叶わない。

 以前、トモに好きな人がいるのか知っているかと聞かれた。その時は誤魔化したけど、今の感じだと、トモが大野先生に想いを寄せていることを彼女は気づいているように思える。女の勘ってやつか。

 ごみを捨てて戻るところで、緒方はこんなことを言い出した。

「トモってさ、よく保健室に行くじゃない? それで一時期こんな噂が立ったの」

 ――トモは大野先生が好きなんじゃないか。

「あれ、やっぱり本当なのかな。トモは否定してたけど……」

 俺は肯定も否定もせず、黙秘権を行使させてもらった。本当は否定してあげるべきなんだろうけど、前に緒方に「トモの好きな人を知っているか」と聞かれた時、俺は知らないと答えてしまった。ここで否定するのはおかしい。

「最近さ、太智すごく仲いいよね、トモと。なんか付き合ってるみたい。あれからさ、何か聞いてない?」

 ――付き合ってるみたい? 俺とトモが?

「いや、特に何も」

 言ってしまってからハッとした。ここで否定しておけばよかったんだ。あの時は知らなかったけれど、それから聞いたというていで。そうすればトモを守れたのに。

「ふーん、そっかあ。相変わらず謎だなあ、トモの恋愛事情」

 それよりも俺が気になるのはそこじゃない。緒方は、俺とトモが付き合っているように見えると言った。もちろん物の例えだろうけど、そう見えるくらいには俺たちの距離が近づいていたということに、自分でもびっくりしている。

 そんなことを考えながら、教室へ戻ろうと再び渡り廊下に差しかかった。トモと大野先生はまだ話をしている。先ほどよりも声が小さくなっていて、何を言っているか聞き取れない。何をそんなに話すことがあるんだか。

 校舎に入ると、清掃時間に鳴るアップテンポの曲が耳に入ってきた。いつもは感じないのに、今日はやけに耳障りに感じる。耳栓でもして取っ払ってしまいたいのに、俺の中に渦巻くもやもやをかき消してほしい――そんな矛盾した感情を音にぶつけた。



 帰る時には、幸運にも雨は止んでいた。ただ空に残るどんよりとした雲は重く、太陽の光を阻んでいる。手をコートのポケットにしまいたいので、傘を差さずに済むのはありがたい。……寒いことに変わりはないけれど。

 トモと帰路についていると、再び恋愛の話になった。掃除の時間、大野先生と何を話していたのかとうっかり聞いてしまったことから始まった。

「たいちゃんはどうよ。好きな子できた?」

 ハナミズキの通りを抜ければ、団地はもうすぐそこだ。そんなタイミングで飛んできた質問だった。

「できてないよ、そんな子。てか一緒にいるんだから、見りゃ分かるだろ」

 女子と話す機会なんてほとんどない。たまに緒方と話すけど、その半分はトモが一緒か、もしくはトモの話題。

「ほらさ、一目惚れとか。他のクラスにも結構可愛い子いるよ? 例えば一組の――」

「ありえない。中身知らないと好きになれない」

 トモに被せるように、否定が前のめりになってしまった。あまりの即答に気を悪くしたかもしれない。

「ごめん。怒ったわけじゃなくて……」

 彼の様子を窺うと、意外にも笑っていた。

「いや、俺の方こそ強引で悪かった。そっか、一目惚れはしない派かあ。たいちゃんらしい」

 トモは口元を手で覆いながら、「そっかあ」と呟いた。

「うおっ」

 そして俺と反対方向を向いたところでバランスを崩した。それからよろけた先の塀に手をつこうとして空振り、その塀に背中を預ける態勢になって、やっと落ち着いた。どうやら道端に転がっている大きめの石が原因だったようだ。

「どうしたの。急にそんな不注意になって」

 転ばずに済んだトモに、俺は伸ばしかけていた手をしまった。

「いやあ、どうしたんだかね。俺自身もさっぱり」

 そう言って肩を竦めた。この顔を何度か見たことがある。少し俯き、目を閉じて笑うこの顔を。

「まだ大野先生が好きなの?」

 再び歩き出したところで、さりげなく尋ねてみた。トモはすぐには答えなかった。彼の視線は空に向かっている。曇っていて眩しくもなんともない灰色を、目を細めて見ている。

「なんて言うか……あの人を想う気持ちはまだ残ってるんだ。けど前とは少し違うかなって」

 気持ちの変化。「想い」の違い。俺も最近感じたことだ。感情なんて複雑だから、全てが「これ」と断定できるものではないのかもしれない。けど、せめてそれが分類される場所が見つからないと宙ぶらりんなままだ。

「どう違うの?」

 これは俺の単純な疑問。トモは両腕を頭の後ろに回した。

「うーん、そうだな。まず、大切っちゃ大切。それは変わってないな。でも……わざわざ保健室まで行かなくてもいいかな、とは思うようになったかな、前よりは」

 そう言われてみれば、トモは以前より教室にいることが増えた。年が明けてからは、そういう理由・・・・・・で保健室に行ったことはまだ一度もないかもしれない。

「受験があるから?」

「まあ、勉強は大事だけどな。でもそれが理由ってわけじゃないかな」

「そっか」

 他に思い当たる節が見当たらなかった。

「俺さ」

 トモが立ち止まり、俺の前に立った。

「受験が終わったら、先生に気持ち伝えようと思う。俺の中にちゃんと残ってるうちに」

 俺はただ、少しだけ笑って頷いた。



 トモに誕生日祝いのお返しとして「スペシャルなものを」と要求された週末。俺は彼の家にいた。

 夕方に訪ねた俺は、トモの満面の笑みに迎えられた。……よほど期待されているらしい。

「いらっしゃあい。寒かったでしょう、お茶淹れるからね」

 キッチンには、同じく満面の笑みを浮かべるおばあちゃん。「寒かった」と言っても、単に四階から一階に降りてきただけなのに。

 夕飯は鍋だ。「鍋パ」の気分を味わいつつ、会話を弾ませた。

「さてさて、お待ちかねのプレゼントターイム!」

「ちょ、それトモが言う?」

 夕飯の片づけが終わったあとの開口一番がこれだった。

「いいじゃんかよ、持ってること知ってるんだし。早く早く」

 トモにジト目を向けながら、俺はリビングに置いておいた紙袋を渡した。

「おお、マフラー? これってもしかして――」

「うん。一応、俺が編んだ」

「へええ、すっげ」

 トモはマフラーをまじまじと見たあと、首に巻いてくれた。赤みの強いオレンジ色が、彼の首元を包み込んでいる。

「どう? 似合う?」

「自分で用意しといてなんだけど、くそ似合う」

 トモが言う「スペシャル」とはその言葉のままではない。「真人にしたことのない」という限定的なものだった。しかしながら俺が真人にしたことと言えば、お菓子の詰め合わせを渡しただけ。大体のことは後者には当てはまるけれど、前者が俺にとっては難問だった。

 編み物は母さんの手ほどきを受けた。受験勉強の合間に、しかもたったの三日で仕上げたのだから完成度はともかく、スペシャルなプレゼントになったと自負している。

 ……とは思ってはいても、嬉しそうに顔を緩ませるトモに、そんなことはどうでもよくなった。

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