第2話 出会い


 二学期初日の晩夏の朝、通学途中の道端。

 月詠(ツクヨミ)学園二年生の眞元(サナモト)リナは思いをはせる。

 全く光の差す気配のない、憂鬱な暗黒の日々を。


 「……一年生の時は、まだ……良かった……」

 大きなプレッシャーはあったが、何とかギリギリやれていたし、目まぐるしく…息つく間もなく過ぎて行く毎日だったけれども、確かな充実感をリナは感じていた。



 魔が差すという言葉がある。


 この世には、澱んだ空気がたまる所、不吉な、呪縛された空間があると聞く。

 それは特別な場所なんかでなく、日常の馴染みある生活圏内のふとした場所に……。


 例えるなら通学途中の道端に、ひっそり張られた見えない蜘蛛の巣。


 果せる哉、この度…引き寄せられたのは……。


 抗って、もがくことなく、ゆだね、囚われる小さな蝶。




 「……」


 リナは自分の膝辺りに目を落とす、以前ほど小麦色ではなくなった肌に、不快な存在感をぬぐい切れぬ傷跡がある。


 「……この夏休みで、がんばって、もっと、成績上げるつもりだったのに」


 それは悔しさにも、あきらめの混じった呟き。



 彼女の通う高校の正式名称は、帝立月詠学園高等部。

 帝立とは聞きなれないが、これは歴史の名残ゆえに名前の冠として残っただけであり、現在は中高一貫の私立高校である。


 もともと女子高だったのが、5年前に共学になったため、いまだ学生の男女構成比としては女子が多く8割ほどを占め、いわゆるお嬢様学校と呼ばれる雰囲気を多分に残している。


 生徒の大半が、下の系列組織、中等部から、そのままエスカレーター式に上がってきた者で、彼らはすべて言わずもがな……とても裕福な家庭の子供たちであり、一部は、とてもとてもとても裕福な家柄のご令嬢、ご子息だった。



 では、眞元リナも? どこかのお嬢様なのだろうか?


 月詠学園には、特待生制度というものがある。

 授業料免除をはじめ、学生服や学習教材費、食費、寮費、交通費、その他諸々、学生生活にかかわる一切の費用を『名目上』免除される。


 母子家庭に育った、決して裕福とは言えない賢き娘にとっては、それは魅力的なチャンス、決して楽とは言えない狭き門だったが、彼女は見事に突破してつかんだのだ。


 リナは、品行方正で学業にも秀で、さらに将来有望なテニス部の選手として、推薦入学合格を果たした。



 最高の教育を最高の環境で受けられる。

 日本中のエリート中のエリートであり、国家の根幹を、将来担っていく少年少女が集まる学園。


 それが月詠学園。……素晴らしい。


 本来ならば、ハイソサエティに属した者、眷族にしか、とうてい足を踏み入れることが許されぬ学園に、何とも寛大な心で、庶民の一部にも施しを分け与え、年間パスのギフトを贈っているのだ。


 ノブレス・オブリージュ! 持つ者の義務、気高き身分として当たり前の行動。


 何の見返りもなく……無く?


 そう!


 これはある一面、真実。

 何も求めてはいない。

 この学園の頂に君臨する者、真の強者、生まれながらにしてのエリートたる者は、弱者に何も求めはしない。


 何も期待しない。


 分かりやすく真意を言えば……クモの糸をつかみ、奈落から己の力で這い上がってきたもの以外、眼中に存在せず……只切り捨てるのみ。



 リナは今朝の出来事を思い浮かべながら、心でつぶやく。


 「お、お母さんは……わかってない……何もわかってない」


 彼女の家は、飲食店を営んでいる。

 父親が生きていたころからの店で、昔はカウンター席だけの、小さなすし屋だったのだが、今は和洋の定番料理を10種ほどメニューに揃えた、街角の大衆食堂として何とかやっている。


 二階建ての店舗兼住宅は、もちろん賃貸で、経営コンサルタント的な職業の目から見れば、場所代が、生み出す利益に釣り合ってないと指摘されるだろう。

 時代の流れ、土地柄が良いこともあって家賃は年々上がった、物価も上がり、コストはかさむばかりで、売り上げは横ばいでも、利益は右肩下がり、ナイアガラのような急落を防ぐのが精いっぱい。


 まだまだ子供の彼女には見えてはいなかったが、資本主義の下ハッキリと別れる持つ者と持たざる者、土地を持つ資産家の支配下で、ただただ回るちっぽけな歯車の一つというわけだ。


 結果として、店には従業員アルバイトなんぞを雇う余裕もなく、リナも常に何かと手伝いをせざるを得なかった。



 「たしかに部活はやめたけどね! わ、私だって、暇なんかじゃない! 色々とやんなきゃならないことがあるんだから!」


 今日は始業式だけで午後の授業はない、早く帰る彼女に、母は買い出しを頼んだ。

 なんの気なく、いつものように。


 「あ、リナ。今日、帰りね、あそこの商店街の業務スーパーでセールなのよ! ねえ……」


 これとこれとこれ、買ってきといて、それからねぇ、あとねぇ、でね、あんたねぇ……。


 彼女は爆発した。


 「ああ~もう! うるさい! 当たり前のように言わないでよっ、どうしてわたしが何もかもの犠牲にならなきゃなんないのよ、全~部、親のせいじゃない、子供に、こんな事させる母親なんて、私の学校には一人もいない! ただでさえ肩身が狭いのに、もう恥ずかしすぎる!」


 ガバッっと立ち上がる。


 「私の人生、これ以上足を引っ張るのはやめてよっ」


 浮かない朝食も途中に、箸を叩きつけるようにテーブルに置き、食卓を乱暴に立ち上がると、そう言い放ち、母親の顔からサッと目を背け家を飛び出した。




 踏切前に立たずむ少女の心、重苦しさの中に、何かに対して苛立ちがくすぶる。


 リナは、ぎゅっと握りこぶしを作った。






 数分時はさかのぼり。

 始業式開始の9時まで、残り時間あと17分を切ったところ。


 もう一人の女子高生、美波羅 妹子(ビバラノ イモコ)の住む家から、最寄り駅までは1キロ強ある。

 そこから2駅先の学園前駅までの所要時間は約10分、その後、学校は目の前。


 こちらも何とかギリギリだ……恐ろしくハードだが、たぶん行ける……必死に走れば……無事に間にあう……。



 彼女は煌めく白銀のポニーテールを弾ませ、軽やかな足取りで玄関に……。


 ……? 違う!?



 ダ、ダイニングに駆け込むと、棚に置いてあるヤマザキの超厚切り三枚分け食パンに手を伸ばした。


 妹子は、しばしテーブルの上に鎮座する、がっしりしたトースターに、悩まし気に流し目を送ると、ブルブルと首を振って誘惑を断ち切り、バリっと袋を破る。



 オイオイ、何をしているんだ?



 冷蔵庫を開け、グラスフェッドバターと、ブルーベリージャム、れん乳を、早業料理人の手際でサッサッサッっと引っ張り出す。

 食卓に真っ白い皿を滑らせて置き、バターナイフを片手に、まずは先ほどの袋から取り出した分厚いパンを一枚載せる。


 次、バターブロックを角からサクサクと数ミリの厚さに切り刻み取り、四角いパンに満遍なく並べて載せて、グイグイっとワイルドに塗りつける。

 続けて、れん乳をリズムよくジグザグにかけて、二枚目の食パンをのっける。


 再びバター、それを同じやり方で済ませると、ジャムの瓶をパンの上に持ち上げ、そのままナイフを突っ込みボトボトっと垂らして一面をコーティングした。


 締めに、最後の食パンを被せ、サンドイッチの出来上がり。


 ちょいと不満げに料理長は言う。

 「ちぃ! 本当は、香ばしく、こんがりポン! っと、トースターで焼きたかったとこだぜぃ」


 厚さおよそ15センチオーバーの、何と呼べばよいのか分からない極厚サンドイッチ。



 仕上げにパン切りナイフで十字に切り分けて、ピクニックのお弁当ですか?



 ガシっっと両手でつかむと、白いモミジ饅頭のような手で両方からプレス!


 10センチほどにまで縮め、隙間から具が多少こぼれることも気に留めず、ガブっ! と口にくわえた。


 「ひょひ、ふぃふへ!」(よし、いくぜ!)


 こ、これはまさに! 学園アニメなどで定番の、お約束シーン。


 朝寝坊して遅刻しそうになっている転校生が、食パンを咥え駆けて行く、あの名シーンの再現だ。

 そ、そうなのか?



 パッパッとスカートで手を拭く!?

 「?」

 妹子は、巨大なサンドイッチの陰で、一瞬、手の感触から何かを思う顔をするが、そのままの流れで玄関までダッシュする。

 ダダダッ、ドアの前の床に無造作に置かれた奇抜なデザインのスニーカーを履き、弾けるように扉を開けると、砂煙を上げ怒涛の如く、ぎゅ~んと家を飛び出す。



 間に合うの……か……? 残り15分。



 かばんは? そんなものはいらない。


 鍵は? そんなものはかける必要がない。


 彼女が住むこの場所は、同じような創りの、いわゆるほどほどの広さを持った中流家庭用二階建て分譲建売住宅が並ぶ一角。


 偶然なのか、一般的に人通りの多い時間帯にもかかわらず、幸いにも近所の人の目は無かったが、プラチナブロンドの髪をなびかせた小さな女の子が、顔ぐらいある大きなサンドイッチを咥えて、全速力で駆け抜けていく様は、きっと誰しもが二度見せずにはいられない名シーンだったろう。





 再び少々時は飛ぶ。

 遮断機が上がり、路傍のちっぽけな障害物なんぞに気を止めること一切なく、無関心な社会を暮らす人々が渡って行く。


 ふと……、リナは、横に圧を感じた。



 黒いリムジンが、ゆっくり進んで行く。


 自然と顔を上げ、車体を見つめた時……、後部座席に座る美少女と一瞬目が合った。


 綺麗に梳かれた黒いロングヘアー、前髪は眉毛の上で真っ直ぐ揃えられていて、大人びた日本人形を連想させる。

 何かの本を読んでいたのか、ちょうどそれを下ろし、彼女も窓の外に目を向けていた。鋭い眼差しのクールな瞳、いや、その程度では表現が甘い……それ以上、凍りつかせるような冷たい視線。

 僅かにまぶたを細めると、初めから何も見る価値のあるものなど存在しなかったかの様子で、また手元の本に視線を戻した。


 月詠学園生徒会長

 一 零 (ハジメ レイ)


 彼女こそ学園の絶対的存在。



 リナは今までと変わらず……、否、今まで以上にそこから動けなかった。

 運命の分かれ道というものがあるのなら、ここで進まないことは大きな分岐点。

 彼女は分かっていた。今上がっている遮断機の先へ、一歩を踏み出さなければ、きっと手遅れ、後がない。



 黒塗りの高級車は徐々にスピードをあげながら踏切を渡って遠ざかって行く。


 もやもやした重苦しくも気だるい憂鬱から、何に苛立っているのかも分からないイラつき、そして今……。


 強烈な絶望感。


 彼女の心臓に鋭く突き刺さるような、殿上人の生徒会長からの冷めた一瞥は、敏感なか弱い心を大きく揺さぶった。


 急激にやってくる、恥ずかしさ……耳が赤くなり、鼓動が高鳴る。


 下を向く視線の先、アスファルトのでこぼこ模様がにじむ、少女の瞳には薄っすらと涙が……。


 繰り返される警告音が鳴り響き、遮断機が下り始める。

 繰り返す、これは最後の遮断。


 目の前の風景が霞んでいく……リナの心が麻痺していく。


 甲高い音の波が鼓膜の岸辺に打ち寄せ砕け、耳鳴りに変わる。頭が揺れ、足元がフワフワとおぼつかなくなり、前によろけそうになる。


 カン! カン! カンッ!

 目に映る街並みの風景も大きく歪んでにじみ、脳裏に危険な一文字が浮かび上がる。



 「死」



 ぼうっとした無表情の瞳……微かな笑みが口元に浮かび、一歩前へ……足が……。



 ポン!



 突如、後ろから押されるように叩かれた。


 少女は、なすすべなく、体が踏切内へ倒れ込む!


 最終列車が絶叫を轟かせて通り過ぎた。

 もはや手遅れだった。


 今となっては。

 どんなに後悔しても。

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