第15話 悪の手先



 競龍記者として、蒲池友治は扇山競龍場に戻ってきた。



 東京は少し前に梅雨が明けたばかりだというのに、この街は薄着でも汗がじっとり染みだしてくる。友治はシャツのボタンを一つ外して取材を始めた。



「どうせ、戸次騎手についてでしょ?」



 半袖を肩までまくった中年の厩務員は竹箒の柄に顎を乗せ、視線も合わせずにそう言った。友治は笑顔でごまかし、親次が騎乗して勝利した厩務員の担当龍を祝った。



「一年ぶりの勝利とは思えないほど強いレースでした。さらに上のクラスでも通用しそうですが、担当厩務員としてはどう思われますか」



「どうって、やる事は一緒だからな。我が子みたいに世話して、最後は騎手に預けて無事に帰ってくるのを祈るだけだ」



 目の前にいる青龍を見る厩務員の眼が、ふと柔らかくなる。当の青龍は人間などお構いなしに、龍房の奥で片足を挙げて眼を瞑っていた。



「良い龍だろ。初対面の人間がいても安心しきってる。ちょっと能力は足りないけど、素直で頭の良い龍なんだよ」



「つまり、騎手が良ければまだまだ上のクラスでも通用する、そう言う事ですか」


 厩務員は竹箒から顎を上げ、友治を見据えた。



「俺は、そう思ってるよ。……今のは記事にしないでくださいよ。テキに怒られる」


「大丈夫です。上のクラスを目指せるとだけ書いておきます」



 安堵の混じった微笑を浮かべ、厩務員は竹箒を龍房の壁に立てかける。



「もう良いか? 今から龍の食餌の準備があるんでね」



「龍を見ていても良いですか」



「どうぞ。聞きたい事があるならハタチ前のアンちゃんがいるからそいつにお願いしますよ。遊びに行くって言ってましたけど、まだ家にいる筈ですから」



「ありがとうございます」



 友治は厩舎にいる龍を見やった。この厩舎は開業したばかりで龍房は十しかなく、その分少ない厩務員もほとんどが休憩に入り、残っているのは取材した中年の厩務員一人だけだ。やかましい蝉の鳴き声を除けばのんびりとした雰囲気が漂っている。



 友治は厩舎中央にある肌寒ささえ感じる食肉加工場に入り、鉈を振るって丸鶏をばらしている中年の厩務員に声を掛けた。



「今は用意しているのは、全ての龍の食餌ですか」



「見りゃわかるでしょ」



 言いながら、厩務員は優に百キロは超えていそうな山盛りの丸鶏に手を伸ばし、一つ掴むと素早く一刀両断した。さらに鉈を振って八分割にして拳大のサイズにすると、新たな丸鶏を掴み取る。



 友治は先ほどの青龍の名前を思い出す。ちょうど厩務員の目の前にある桶に、その名前が油性ペンで書かれていた。やがて厩務員は一騎分の食餌を青龍の桶に放り込み、丸鶏の加工作業に戻る



「始めて見るんですが、見学しても良いですか」



「お好きにしてください」



 友治は厩務員の近くに行き、青龍の桶を覗き込む。それから適当に厩務員に話しかけつつ桶を隠すようにテーブルに寄りかかり、軽い取材形式を取って会話を続ける。厩務員は丸鶏の加工に集中し、友治を一切見ていなかった。



 友治は、ズボンの尻ポケットから茶色の粉末が入ったビニール袋を取り出した。それを後ろ手に隠してビニールを破り、食餌の入った青龍の桶に粉末を振りかける。



「こんなに食べるんですね」



 そんな事を言いながら、友治は粉末を入れた桶を持ち上げる。十キロはゆうにあるだろう。演技をするまでもなく重さでふらつき、自然に鶏肉を動かし粉末を紛れ込ませる。さらに止めの一撃とばかりに力尽きたように乱暴に桶を置き、鶏肉を一際大きく混ぜ合わせた。



「凄いですね。取材、ありがとうございました」



 これで用は済んだ。友治は厩舎を出る。すると、厩舎前で青年が右往左往していた。アンちゃん、この厩舎に所属する若手騎手だ。



「あっ、すみません。どこかに財布落ちてませんでしたか」



 若手騎手が話しかけてくる。友治は知らないと答え、自分と一緒にいた中年の厩務員に聞いたらどうかと助言をして、その場を立ち去った。



 ズボンのポケットに両手を入れる。そこには、二つの財布が入っている。一つは当然友治のもの、もう一つはあの若手騎手の財布だ。金を下ろしたばかりだったのか、デビューしたばかりの若手にしては結構な金額が入っていた。



 全て、朝倉氏幹の指示だった。



 粉末はただの栄養剤だと言われて渡された。財布は後日返せば良いと言われた。大丈夫だと念を押され、今までの恩もあって断り切れずに行動に移ってしまった。



 言いようのない不安が募っていく。



 とにかく朝倉の目的が分からないのが恐怖でしかない。朝倉は地元でも有数の名士の一人っ子だ。欲しいものは何でも手に入る。確認を取ったが親の事業は今も安定しているらしく、本人の屠殺業も安定しているらしい。



 だからこそ、友治に意図不明な事をさせる理由が分からない。それこそ個人的な嫌がらせが一番妥当なぐらいだ。



 しかし、特に恨みを買った覚えもない。大学の先輩後輩というからっとした関係で、女を奪い合った覚えもない。金を借りたと言っても、朝倉は金持ちだからと堂々巡りに陥る。



 朝倉氏幹は一体、何をしようとしている。一体、自分は何をさせられているのか。今後どうなってしまうのか。考えれば考えるほど、朝倉という男の得体の知れなさが浮き彫りになっていく。



 前方から人が歩いてきた。



 朝倉だ。立派な髭を生やした老人といる。朝倉は友治を認めて笑みを浮かべ、隣にいる老人に声を掛けた。



「紹介しますよ。蒲池君です。大学の後輩で、今はダイブという競龍雑誌の記者をしています」



 老人は嬉しそうに眼を丸くし、友治に握手を求めてきた。



「私は商店街の自治会長をしている山田です、ここで龍主として楽しませてもらっています。どうぞよろしくお願いしますね」



 龍主か。髭こそ立派だが、老人はアロハシャツで自転車を漕いでいそうな普通の老人だ。中央競龍の龍主になるには数年に渡る数千万単位の収入が求められるが、地方競龍となると龍主の資格取得条件はぐっと下がる。この老人のように普通の人間でも龍主になるのは可能だ。



「今から自分の龍を見た後、騎手と飲む約束がありまして。蒲池さんもどうですか?」



 答えようとした瞬間、朝倉が老人の背中を押して遮った。



「蒲池君は忙しいんです。誘っちゃ悪いですよ。ほら、私たちも行きましょう」



 そそくさと朝倉と老人は厩舎の方に向かっていく。飲み会か、龍主の奢りだろう。想像して腹の虫が鳴った。競龍場を出ようとするとスマホが震える。



 朝倉からのメッセージだ。



 今日の深夜、指定した場所で待機するように。そう書いてあった。



 今度は何をさせられるのか。しかし今になって断れるわけがない。友治は仕方なく指示に従い、夜になると飲み屋街近くの寂れた神社に行った。



 そこは、辺りを風俗店と居酒屋に囲まれた辺鄙な神社だった。小さな社殿がぽつんとあるだけで、いかにも町の神社と言った感じだ。一つ隣の道にはそれなりに人が歩いていたが、神社周辺は静まり返っている。昼間学生が遊んでいたのか、金属バットが社殿の前に転がっていた。



 この時期の夜は丁度良い気温で過ごしやすい。そのまましばらく待機していると、またメッセージが届いた。



 西の道から男が通る。後ろから金属バットで頭を殴れ。はっとして、足元に転がった金属バットを見た。人の後頭部を、金属バットで殴る。



 思わず、唾を飲み込んだ。



 本気か。



 殺せとは言っていないが、金属バッドで頭を殴れば人は死ぬ。



 これは明確な殺人だ。一命を取り留めても殺人未遂だ。とんでもない重罪だ。できるわけがない。朝倉への恩がなんだ。数百万の借金がなんだ。高々その程度で人を殺せるわけがない。



 断ろうとスマホを操作した時、朝倉からメッセージが飛んできた。今度は画像付きだ。嫌な予感。周囲の音がやけに大きく聞こえる。友治は無意識に震える指で画像を開いた。



 朝倉と遠藤。二人が、肩を組んで仲良くピースをしていた。



 嵌められた。



 躰から力が抜ける。スマホが手から滑り落ちる。息だけ何故か荒くなる。全て罠だった。二人はグルだった。



 いつからだ。いや、そんな事はどうでも良い。これでは遠藤に借金を負っているも同じだ。朝倉を手伝わなければ遠藤がやってくる。



 警察に助けを求めるか。今なら犯した罪は軽い。でも、それで遠藤から逃げ切れるのか。以前より借金の額は増え、その分遠藤も必死に返済を迫る。警察は守ってくれるのか。警察の手が届かないところで、遠藤から追及を食らうのではないのか。



 スマホに電話が掛かってきた。朝倉からか。おもむろにスマホを拾って電話に出た。



「よう蒲池、久しぶり」



 それは、遠藤の声だった。思わずスマホを落としそうになる。口から声にならない声が漏れた。



「そんなに喜ぶなよ。朝倉から俺たちの関係は聞いたな? 俺の報酬は、お前の借金の返済金全額だ。大体三百万ぐらいになる。三百万はでかいぞ。今のご時世、お前と同じ年の奴で三百万も年収ある奴いるか? いても数人だろ?」



 声が、スマホのスピーカーとは別のところから聞こえた。その方向を見ると、近くの民宿の二階、その窓際に遠藤がいた。



「おっ、気付いたか? まあそのまま聞け。人の生涯年収は億を超える。なら人の命の価値は億を超えるか? 答えはノーだ。その額は人によって違うだろうが、俺はニ百万ぐらいだと思ってる。つまりお前の借金は」



 言わなくても良い。その先は分かっている。



「人一人の命より重い」



 足音が、静かな境内に流れてきた。



 友治は咄嗟に身を屈めた。金属バットを手に取り、這いつくばって境内の樹の陰に隠れる。そして、近づいてくる人影を盗み見た。



 三十台前後の男だ。見覚えがあるような気がするが思い出せない。足取りはやや覚束ず、酔っているような雰囲気だ。男は境内の前で角を曲がる。丁度建物と神社に挟まれた暗がり。好機だ。ここを逃せばチャンスはない。



 だが、下手をすれば殺人の罪を背負うかもしれない。間違いなく友治の人生は終わる。ほかに手はないのか。ちらと遠藤の様子を確認する。遠藤はスマホを耳に当てた。どこかに電話をしている。その時、視線が合った。



 遠藤が笑った。



 肌が粟立った。友治はシャツを脱いだ。汗でぐっしょり濡れている。それを覆面のようにして顔を隠し、忍び足で男の背後にすり寄った。



 そして、殴った。



 逃げる。バッドを投げる。角を曲がってシャツを着直す。それから全速力で走った。飲み屋街を抜けて田舎街の狭い道を縦横無尽に走り回り、胸が痛くなるまで必死に足を動かした。



 何をしているのか自分でも分からなかった。ただ思考がショートし、本能が躰を動かして金属バットを振るっていた。遠藤の笑みを見た瞬間、理性なんてぶっ飛んでいた。



 奴隷だ。これでもう、朝倉たちには逆らえない。このままでは朝倉たちの良いように使われて終わる。



「……駄目だ」



 そんなのは御免だ。友治は奥歯を噛み締める。萎えていた勇気を奮い立たせる。



 朝倉たちからは逃げきれない。それなら、立ち向かうしかない。でも警察は駄目だ。友治まで捕まってしまう。



 朝倉の弱みを握ろう。



 朝倉が何かを企んでいるのは間違いない。それも、友治に悪事をさせなければ成しえない何かだ。悪事なのは確実、暴いてしまえば武器となって朝倉の身を脅かし、友治の身を守る盾になる。



 逆襲だ。生き残るには逆襲しかない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る